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トップページCo > 藤原肇「遠く遠く」

2: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 13:43:21.38 ID:qTChjQno0

春霞とスモッグで煙った空
行き交う電車の音
そして手には、レンタルの釣竿

市ヶ谷駅を降りてすぐの釣り堀には、たくさんの人

向かいに座っている小さな男の子は、釣り糸を垂らしたままお昼寝中
その隣りではお父さんらしき人が、何匹目かの魚を釣り上げました

なんだか、いい気分


3: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 13:55:21.23 ID:qTChjQno0

「近くに釣り堀はありますか?」

私にそう聞かれたプロデューサーは、なんだか不思議そうな顔をしていました

「…魚釣りが趣味なので……変ですか?」

「あ、いや、ちっとも変じゃないよ。なかなか渋い趣味だな」

「…ふふ。田舎者なので」

「それはあんまり関係ないような…」

そのとき教えてもらったこの釣り堀
初めて来てみたけど……

まだ一尾も釣れません……

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4: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 14:03:47.05 ID:qTChjQno0

上京してからもうすぐ二ヶ月
転入した東京の高校は人数が多くて、最初は戸惑いました
だって、
だって、前の高校は300人もいなかったから…

おじいちゃんは三日に一度のペースで電話をかけてくるけど、内容はいつも同じ

『いじめられとらんか?』
『東京には変なやつがぎょうさんおるけぇ、気をつけぇよ』
『いけんかったら帰ってくりゃあエエけぇの』


5: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 14:11:14.41 ID:qTChjQno0

私の返事もいつも同じ

『心配せんでええよ。みんなエエ人じゃけぇ』

それは本当のこと
だけど少しだけ寂しかったりもします
だってここには、土の匂いがしないから…

そんなことを考えていると、隣りで糸を垂らしていたおじいさんが一尾目を釣り上げました
私と目が合うと照れくさそうに笑いながら、

「なんだ、小さいなあ…」

って呟きました
風はほとんど吹いていません


6: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 14:23:38.78 ID:qTChjQno0

窯と土、レンガで造られた煙突
たまに備前陶芸センター
それが私の原風景

おじいちゃんは有名な陶芸家で、備前陶芸美術館にも作品が展示されていたりします

まだ小さかった私に魚釣りを教えてくれたのもおじいちゃん

「土をこねるのと似とるから」

そんな理由だったけど、お父さんは、

「肇と一緒に遊びたいだけじゃろ」

って言ってました

たぶん、お父さんが正解


8: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 14:35:57.39 ID:qTChjQno0

「お嬢ちゃん?」

「…え?…あ、はい!」

初めて作務衣を着たときのことを思い出していたから、おじいさんに声をかけられたことに気付きませんでした

「いい天気だねえ」

「そうですね。釣り日和です」

私がおじいちゃん子だってこと、他のおじいさん達にも雰囲気で分かってしまうみたいです

お母さんからは、

「アンタはほんまに爺様キラーじゃなぁ」

って言われました

正解…なのかなぁ?


10: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 14:45:18.48 ID:qTChjQno0

「女の子一人で釣り堀なんて珍しいねえ」

「ふふ。田舎者ですから」

プロデューサーに言ったのと同じセリフを返しながら、エサを付け替えました

「東京なんて田舎者の集まりさ」

おじいさんも同じようにエサを替えながら、また照れくさそうに笑っています

「どちらのご出身ですか?」

「鳥取。田舎も田舎だよ」

「じゃあお隣さんですね。私は岡山です」

糸を垂らすと水面に小さな波紋が拡がりました
向かいの男の子はお昼寝から覚めたみたいです


11: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 14:54:49.52 ID:qTChjQno0

「岡山か。桃太郎とばら寿司と…他に何があったっけな」

「……備前焼」

「ああそうだ!瀬戸大橋!」

私の呟き、聞こえなかったみたいです……

「お嬢ちゃんは鳥取っていうと何が思い付くかな?」

「うーん…やっぱり砂丘かな。あ、あと大山。中学二年生のときに登山にいきました」

『大山』を『だいせん』と読む人はたいてい中国地方、それも岡山か鳥取の出身らしいです


12: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 15:04:45.67 ID:qTChjQno0

「大山か。懐かしいねえ」

「里帰りしたりするんですか?」

「前は先祖の墓参りに帰ってたけどね。年寄りに長旅は堪えるんだ」

「ふふ。まだお若いですよ」

「はは。ありがとさん」

竿の先がピクリと動いたけど、放っておきました
なんとなく、そんな気分だったから


15: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 15:14:18.22 ID:qTChjQno0

「やれ。そろそろ帰るかねえ」

そう言って帰り支度を始めたおじいさん
バケツの中の魚も釣り堀に返しました

「持って帰らないんですか?」

「ん?うーん…なんとなくそんな気分だったのさ」

「…ふふ。分かります。なんとなく」

外堀の反対側では、何艘ものボートが小さく揺れています
日差しは少し和らぎました


17: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 15:19:39.25 ID:qTChjQno0

「それじゃあお先に。釣れるといいね」

「ありがとうございます。お気をつけて」

出口に向かって歩くおじいさんの背中を見ながら、今日は私の方から電話をかけてみようと思いました

『心配なんぞしとらんわ!』

って言いそうですけどね、おじいちゃん


19: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 15:36:42.34 ID:qTChjQno0

「私は大丈夫だよ、おじいちゃん」

水面に向かって小さく呟くと、それに反応したみたいに一尾の魚が釣り糸の側で跳ねました

「ふふ。そんなところにおったら釣り上げちゃうよ?」

方言と標準語が混ざった言葉を投げかけると、魚はもう一度跳ねてくれました

「大丈夫。田舎者じゃけぇ」

柔らかな五月の風が、私の頬を撫でてくれました


20: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 15:48:52.86 ID:qTChjQno0

『遠く遠く 離れていても 僕のことが分かるように』

上京する新幹線の中で聴いていた曲を口ずさんでみました

『力いっぱい輝ける日を この街で向かえたい』

なんだか鼻の奥がツンとしてきたから、慌てて淡い空を見上げました
その空の真ん中には一筋の飛行機雲が西に向かって伸びていて、今度は瞳が濡れてくるのが分かりました


24: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 15:58:00.74 ID:qTChjQno0

『どんなに高いタワーからも 見えない僕のふるさと』

頭のなかでひとりでに続いていく歌

『無くしちゃダメなことをいつでも 胸に抱きしめているけど』

土の匂い
ろくろが回る音
ちょっと荒っぽい、岡山弁の響き
私が無くしてはいけない、いくつもの思いや景色


25: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 16:03:58.91 ID:qTChjQno0

腕時計に目をやると、いつの間にか16時を過ぎていました

「今度はみんなと来たいな」

瑛梨華ちゃんや早苗さん、それに薫ちゃんも



……

………早苗さん、ここでお酒飲んだりしないよね?


27: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 16:10:10.98 ID:qTChjQno0

お花見のときの早苗さんを思い出していると、携帯電話が鳴りました

「はい、藤原です。お疲れ様ですプロデューサー」

『お疲れ。明日の仕事の件で電話したんだけど、いま大丈夫か?』

「大丈夫です。一人で釣り堀に来てるんですよ。プロデューサーに教えてもらった」

とっくにエサを取られている釣り糸を見ながら、私は小さく笑いました


28: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 16:17:17.88 ID:qTChjQno0

『お、けっこう釣れてるのか?』

「ふふ。まだ一尾も」

『え?それにしちゃ楽しそうだな』

「はい。土をこねるのと似ていますから」

『なんだそりゃ……』

暖かな西日を背中に受けながら、私はまた、小さく笑いました


30: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/12(日) 16:36:17.98 ID:qTChjQno0

プロデューサーからの電話を切ったあと、もう一度エサを付けて替えました
あと少しだけ、こうしていたかったから

『遠く遠く 離れていても 僕のことが分かるように』

私は大丈夫だって、みんなに分かるように

『力いっぱい輝ける日を この街で向かえたい』

遠く離れた、この街で

『僕の夢を叶える場所は この街と決めたから』

春霞とスモッグに煙った、淡い空
五月の風は、匂いを運ぶ
それは原風景の中の、あの土の匂い


お し ま い


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