モバP「翠色の絨毯で」:前編
*
初期設定の着信音が鳴った事に気づくと、ディスプレイの文字を見る。
そこには『青木 麗』と表示され、それを元に発信相手を判断した。
「麗さんか…どうしたんだろ」
今日の彼女の予定といえば、相変わらず翠とのレッスンであった。
昼過ぎの今なら、彼女達は昼食の休憩を終えて練習を再開しようか、といった頃合いだろうか。
それにしても珍しい事が起きたものだ。
携帯電話番号とメールアドレスはそれぞれ交換しているが、こうして連絡した事はレッスンの予定変更やスケジュールの相談等以外では全く無かった。
その連絡さえも俺がほぼ毎日翠に会いに行っているせいかその都度口頭で連絡出来てしまっていて、実際に使われたことはあまり記憶に無い。
本人も公私の区別は付けていて、この連絡帳を使う時は何か緊急のことぐらいだろうな、と笑って言っていた。
では何の用だろうか。
そんな疑問を浮かべって通話ボタンを押す。
「……プロデューサー殿」
もしもし、という俺の言葉を無視して、麗さんは静かにそう呼びかけた。
その瞬間から、咄嗟に違和感が頭を支配する。
落ち込むという感じともまた違う、どこか沈んだ声色の麗さんだ。
俺の知る限りでは聞いたことのない声だった。
「麗さん……麗さん? どうかしましたか?」
以降発声しない麗さんをますます訝しんでこちらから何度か声をかけると、麗さんは押し潰されそうな声で、すまない、と呟いた。
……この時、既に嫌な予感が全身の神経を通っていた。
普通である様子が今の麗さんからは一切感じられない。
それは本当に本人なのかどうかすら怪しいと思ってしまう程だ。
シナプスが、不快な感情を伝達させる。
聞きたくないという感情が一瞬にして脳に蔓延る。
もしも聞いてしまったら。よくない感情が沸き起こってしまいそうな。
しかし、彼女は続ける。
「翠が……倒れた」
あまりに突然過ぎて、鼓膜が意味を通さなかった。
「……え?」
俺の反応は、極めて正常であったように思う。
理解できなかったのは当然なのか、あるいは理解を拒否したのか。
それでも彼女は振り絞って言葉を出す。
「倒れて――病院に運ばれた」
聞かなければいけないのに、聞きたくないという意思が押し寄せる。
どういうことだ。
レコーディングもして、無事終わって、褒めて、笑って。
昨日だって、レッスンに立ち会った時は翠は俺に笑いかけてくれて。
仕事どうですか、疲れてませんか、って心配してくれて。
彼女のほうが大変なのに、気遣ってくれて。
……それが、どうして。
「すまない……すまない。私の目が曇っていた」
搬送先の病院名を告げた後は、麗さんはひたすら悲痛な声で謝罪した。
だが、そんな言葉は全く脳に伝わってこない。
ただ今どうなっているのか。どうしてこうなったのか。
何があったのか。
そんな疑問ばかりが目の前を覆っていた。
「……すみません、切ります」
居た堪れなくなって、俺は一方的に通話を切ってしまう。
怪我なのか体調不良なのか、症状を聞くことも無く、持ち上げた手を下ろした。
――目の前の闇を振り払うには、確かめるしか無い。
手元から落ちそうな携帯電話をかろうじでポケットに放り込むと、俺はスーツを破る勢いで走り始めたのだった。
*
「まあ大事をとってもニ、三日安静にしていればすぐ良くなるでしょう」
彼女の診察を行った医師は、一つ息をついて翠の状態をそう表現した。
「……そ、そうですか」
急いで来た癖に翠が倒れた理由を何一つ知らなかったため、心底安堵し、弾む鼓動が徐々に落ち着きを取り戻し始める。
「とりあえず今日はここで休ませられますから、薬の方も出しておきますね」
医師はカルテらしきものにボールペンを走らせつつ、時折パソコンを操作した。
とりあえず、アイドル生命に関わるような……翠の命に関わるような自体にならなかったことが俺を安寧に導いた。
――翠は、軽い過労により誘引されたウィルス性の風邪と診断された。
麗さんも救急車に同乗して当時の状況を説明し、改めて状態を確認したところ、救急救命士や搬送先の医師である彼はそう判断したという。
喉は腫れ、熱もやや高く、放っておけば更なる悪化を招いていた可能性があるとも言っていた。
ひとまず点滴治療を行なって熱は下がっていくだろうという話だが、疲労などは依然として色濃い。
疲労と体調不良のダブルパンチが今回のアクシデントを引き起こしたのであった。
「アイドルが大変なのはわかりますが、水野さんもまだ未成年です。くれぐれも無理をさせ過ぎないように」
医師から今後の治療法などの説明を受けた後、お見舞いに行こうと去る間際、医師は俺に釘を刺す。
まるで異常な程の練習を強制させる悪徳プロデューサーと言わんばかりの冷たい言葉だった。
無論、彼にそんな悪意はない。
人命を救う立場の人間だからこそ、純粋に彼女を心配したのだろう。
「……はい。気をつけます」
当たり前だ。そんなこと言われなくても翠は俺が一番わかってやれている。
……そう言い放ってやりたかったが、今の俺にはその資格がなかった。
*
こつ、こつ、と形が潰れつつある黒い靴が床を鳴らす。
白い床。白いソファ。白い制服。
どこにでもあるような、まるで色を失った寂しい世界を俺は歩いていた。
翠には個室を用意してくれたようで、医師からは321という番号が告げられていた。
この階の病室は全て個室となっているのだから、この病院が多数の民衆の生命をカバーする大規模な施設であることは明白である。
ただ、ひたすら歩く。
頭の中にある番号の下へ、たどり着くために歩く。
……そんな道を歩いていると、嫌でも自分の姿がありのまま映された。
今回のアクシデントは誰の責任なのか、と自問する。
…言うまでもなく、俺だろう。
元々無理のあるスケジュールでレッスンを強行しなければならない状態に持ち込んだ事が原因なのだ。
学園祭のライブでも似たような過密スケジュールだったにも関わらず無事乗り越えてしまったので、俺も心なしか油断してしまったのだ。
何より、どうして気付けなかった?
一番近くで見ていたはずの俺が、何故彼女の兆候に感づかなかった?
あれほど近づいたのに、何故目に入らなかった?
俺は、翠の白く綺麗な皮膚だけを見ていたというのか。
…彼女は元気だった。
前日も、前々日も。一週間前も、その前も。
レッスンでくたびれても、俺に微笑みかけて言葉を返してくれた。
そして次の日には練習の成果を見せつけて、更なるレベルの向上に励んでいた。
疲労を問うても、彼女は大丈夫と答える。
具合を問うても、彼女は万全と答える。
まるで、それ以外の答えは認めないかのように、翠はそう主張していた。
俺は、彼女を追い詰めていたのだろうか。
螺旋を描く罪の意識が、全身を嫌らしく舐め回していた。
俺と翠は、しっかりと繋がっていると思っていた。
彼女は俺のことを好きだと言い、俺も彼女を良く思っていると言った。
遥か昔の時代を語り、お互いの知らなかった心の奥底を晒すことで、信頼し合ったつもりであった。
だがそれは、虚像…あるいは俺の妄想だったのである。
もし翠は素直に疲れていることを俺達に申告していたら?
練習内容を再チェックし、余裕のあるパートから負担を少なくし、また休憩時間やオフも多めに取るように変更しただろう。
もし俺が翠の言う事を疑って、真剣に体調を調べていたら?
すぐさま麗さんと話し合い、無理矢理にでも休暇を取り入れさせただろう。
…それができなかったのは、彼女が俺を頼らなかったから。
そして、俺が彼女の虚勢を本当の姿だと誤認したからなのだ。
自身を顧みないで練習した理由については不明だが、もしも馬鹿げた妄想を述べさせてもらえるのなら――。
「サンニーイチ……と、ここか」
俺の視界に321という三文字の数字が印字された看板が入り込んでくる。
医師に指定された番号と合致し、ここが翠の病室だと判断して奈落へ沈んでいく暗い意識を消し去る。
重苦しい戸。冷たい取っ手。
全く翠に似つかわしくない、こんなところに居るべきでない…簡素な扉だった。
あのライブと比較すれば、天と地程に鮮やかさに差がある。
右手を裏返し、ノックをする手つきに変える。
どんな状態であるにしろ、絶対に休暇を入れよう、と決意する。
真面目で練習熱心な翠のことだから、もしかしたら休むことに異議を唱えるかもしれない。
だからこそ意地でも休ませなければいけないのだ。
翠の意識の高さに自惚れた結果がこれなのである。
多少彼女の意に沿わない形になろうとも、それだけは貫き通す。
…まあ、今は何よりも翠の完治が先だ。
左手には病院の売店で購入した飲み物やデザートなどを幾つか入れたビニール袋を携えている。
今は休んでいいよ、と労いつつ、何てこともないような他愛もない話でもしようか。
そう思って、小さくノックをする。
……それから静かに開いた扉の先には、信じられない光景が広がっていた。
*
正直に言えば、自分の目が本当に自分の物なのか疑わしくなる程、眼前に現れた彼女の姿というものは異様であった。
そう、異様。
本来あるべき姿でない様子だ。
もしかしたら彼女は翠に似ているだけの別人なのかもしれないという疑惑が一瞬頭によぎるが、少なくとも俺の意識は彼女を翠だと認識していた。
「あ……Pさん」
『立っていた』翠が俺の姿を視認すると、ぺこりと頭を下げた。
声色には、若干の威勢の良さが残っている。
「ご迷惑を…けほ、おかけして本当にすみません」
汗などで汚れたいつもの練習着姿ではなく、入院患者が着る真っ白い綺麗な病衣を纏っている翠は、そう言って俺に謝罪する。
そんな翠の言葉にすら、反応できない俺がいた。
……何故だ。
何故翠は壁に手をついてまで練習の続きをしているのだ。
まるで意に介していない、現実を受け止めていない彼女の様子に、俺の中の何かが切れた。
「……なあ、翠」
ゆっくりと俺は近づく。
「けほ…はい、なんでしょうか」
一度咳き込んだ後、にこりと笑って翠は俺を迎える。
翠は一体何を考えているのか、もうわからなくなってしまった。
倒れたのは自身の体力を鑑みていなかったからだろう。
病衣を着ているのは、安静にして治療をするためだろう。
手が届く位置にまで近づくと、俺は無意識に翠の肩を掴んだ。
瞬間、彼女の顔が歪む。
決して軋むほど力を入れている訳ではない。
苦しませようと掴んだ訳ではない。
なあ、痛いんだろ?
なあ、辛いんだろ?
彼女の痛覚を思うと、顔の表面が急速に沸騰した。
「――なんで練習してるんだ!」
噴き上がった熱のこもった感情が、怒号となって周囲に放出される。
初めてだ。
俺の知る限り、こんな声色をして翠に話しかけた事は一度もない。
同様に彼女もそうだろう。
一体何が起こったんだ、という表情で、困惑と恐怖が入り混じった顔をしている。
だから俺は怒った。
言葉を続けることもなく、肩を掴んだまま彼女を無理矢理ベッドに寝転ばせると、おもむろに近くにあった簡素な椅子に腰を下ろして翠を見つめた。
熱も下がっていくだろうという状態であろうとも、運動などご法度だ。
それに痛みや怠さが完全に引いているという訳でもあるまい。
「…今の翠の状態は、君が一番わかっているはずだ」
先ほどの口調とは反転して、なるべく穏やかに声をかける。
沸騰した感情がオーバーヒートを起こさないように、黙々とした表情の裏で必死に頭を回転させていた。
腹が立つからと言って、本能のまま喋っていい訳がない。
それが許されるのは、せめて中学生の喧嘩ぐらいまでである。
俺はプロデューサー。
新米で、新人で、未熟で、無知だけど。
翠の人生を引き受け明るい未来に導いていく、彼女だけの魔法使いなのだ。
混濁して絡まっていく怒髪衝天の狂いを、そのままにしてはいけない。
「……っ」
俺によって強制的に倒れこまされた翠は、露骨に俺から目を逸らす。
無言なのは、俺の問いを肯定しているからだろうか。
無理をして練習したって何の収穫も無いことぐらい、賢明な翠ならわかっているはずだ。
なのに……どうして彼女は体に鞭打って練習をしているのか。
俺の中に集う疑問は、翠の蚊の鳴くような声が解決する。
「…練習しないと…けほ、間に合いませんから」
そういうことか、と心の奥底で少しだけ納得する。
そして、この時ほど『真面目』という言葉を恨んだことはなかった。
翠の性格から推測するに、恐らく弱音を吐いてしまってはフェスで失態を犯してしまうという脅迫概念に追われていたのだろう。
疲労が溜まって倒れたというのに頑なに練習を止めないその姿を見れば、彼女の思いを想像するには難くない。
ただ、問題はそれが間違いだということだ。
真面目という概念は、見方を変えれば愚直である。
進むべき道、思うべき願い、目指すべき頂をしっかりと定めて歩くことはむしろ素晴らしいことだが、それらが狙い通りに運ぶという保証はどこにもない。
そういった壁が立ちはだかった時に必要なのは、今自分が取り得る行動の中でどれが一番合理的で建設的なのかという問題提起なのである。
しかし、翠はそれをしなかった。
合同フェスという大きな壁を目の前にして、ある種の思考放棄をしてしまっていたのだ。
真面目や練習熱心という言葉を盾に、ひたすら突き進むことだけが唯一の選択肢だと勘違いしてしまっていた。
それが今の事態を招いた種火と言える。
「…ほら」
ベッドテーブルに載せたビニール袋から、スポーツドリンクを取り出して翠の顔の近くに置く。
近くで観察すれば、きっと喉が赤く腫れ上がり、狭まっていることがわかるだろう。
返事として改めて聞いた翠の声は、以前のような美しさを失っていた。
「…ごめんなさい」
相変わらず視線をこちらに向けないまま、翠は小さく罪を認めた。
――いや、本人もわかってはいるのだと思う。
それでも折れることが許されなかった雰囲気や重圧が、彼女の周囲を酷く曇らせていたのだ。
もし理解していなければ、俺の言葉に耳を傾けてはいないのだから。
「喋るな。…痛いんだろ」
ベッドに横になっている翠は無言でゆったりと頷いた。
初めから俺に体調が優れない事を申告してくれていたら、初期治療でここまで酷いことにはならなかったのに。
彼女の弱る姿を見て、やり場のない怒りがくすぶる。
それは異変を打ち明けなかった翠に対してでもあれば、それを察せなかった過去の俺に対してでもある。
そして同時に、打ち明けてくれるほどの信頼関係を構築できなかった俺の行動にも腹が立ったのだった。
結局、無意識の内に俺は自惚れていたのだ。
少なからず好意を抱かれ、はっきりと信頼していると口にされ、その気にさせられただけなのである。
……思いをあえて言葉にして伝える意味。
それを理解していれば、もっと早く気付けていたのかもしれない。
「…悪かった」
「そんな――ごほっ!」
俺の言葉に反論しようとした翠の言葉は、咳によって強制的に中断される。
咳も役立つことはあるらしい。
少なくとも、喋ることに対しての抑止力という点では彼女へ有効的に影響していた。
「だから喋らないって…ほら」
近くに置いたまま手を付けていないペットボトルを改めて手渡す。
翠は上半身を亀が如き遅さで起こすと、パチリ、と封を切った。
――あの元気な少女がここまで弱るとは予想だにしなかった。
無論、誰だって病気になるとこうなることは考えなくともわかることだ。
しかし、彼女の言動や姿勢、今までの軌跡がその常識に霧を吹きかけていたのである。
翠はドリンクを少し口に含んで苦しそうに飲み込むと、ふう、と息を吐いた。
この調子だと、呼吸にすら苦しんでいるのかもしれない。
余計な事を喋らせる前に、俺も退散したほうがいいのだろうか。
「喋らなくていいから聞いて欲しい。とにかく今日から最低三日は休養とする。ちひろさんや麗さんには俺の方から言っておくから、自分のことだけを考えるように」
既に冷えた頭で近々の予定を組み直す。
電話口ですらあれだけ憔悴した表情を安易に読み取れたのだ、実際の所は麗さんも酷く落ち込んでいるに違いない。
ベテランだからこそ、こういう事態に陥った時に冷静に切り替えて欲しいものだが、そうするためにも、話し合いを設ける必要がありそうだ。
ともかく、翠に仕事の事を考えさせないようにしないと、また無理をしてしまうに違いない。
ちひろさんには明日になるだろう退院後の翠の状態を少しでもいいのでこまめに診てもらうようにお願いすることにした。
彼女も今仕事で忙しいのは俺も承知しているが、俺が翠に会えるのはこうして外に出ている間だけだ。
実家での翠を見られるのはちひろさんだけなのだから、申し訳ないが止むを得まい。
となると、電話で打ち合わせするよりも三人で一度きちんと集まって連絡し合うほうが絶対に良い。
翠が搬送されたと聞いたのは午後を少し過ぎた頃。
今もまだ日は落ちていないから、もしかしたら今日中に設けられるだろうか。
説明をしている間、翠は悔しそうな素振りを見せていた。
迷惑をかけてしまったことへの罪悪感か、あるいは疲労に耐え切れなかったことへの不満か。
どちらにせよ、今持つべき感情ではないことは明らかだ。
「…急ぐ気持ちはわかる」
もはや当たり前のようになりつつある手つきで俺は翠の頭に手を置いた。
喋るな、という命令のせいだろうか、上半身を起こしたままの彼女は俯いて何も言わない。
「明日も朝から来るから、ゆっくり休むこと。…何か欲しいものはあるか?」
軽く何回かだけ頭を撫でると手を離し、立ち上がって足元の鞄を持ち上げる。
命じておいて喋らせるのもどうかと思うが、今日一日はこの病室で過ごすことになるのだから何か入り用があるのかもしれない。
何が必要かと考えれば、きっと小腹が空いた時に食べられる食品類や時間をつぶす雑誌類だろうか。
念の為、事前に買っておいたゼリーなどをビニール袋から取り出して翠に見せていると、彼女は細切れた声で呟く。
――Pさんを、と。
「…そうか」
ビニール袋から手を離して元の椅子に座り、改めて彼女と向き合う。
お望み通り、翠の傍に居ることにした。
それで彼女の気が休まるなら、いくらでも俺の時間を使うといい。
…思わぬことから生まれたこの空白の時間は、俺達だけで埋めることになった。
*
「…改めて申し上げる。本当にすまなかった」
事務所に着くなり、俺の姿を視認した麗さんはかつてみたことのない程の角度で俺に頭を下げた。
こちらも寒い中事務所に入ってまずは暖まりたいと考えるばかりだったので、突然の行為に狼狽えてしまう。
「おかえりなさい、プロデューサーさん。コーヒーを入れますのでソファにどうぞ」
ちひろさんはそんな麗さんの肩を持って彼女を起き上がらせると、にこりと笑って給湯室へと向かっていった。
「座りましょうか」
「…ああ」
こちらを悲哀の目で見る麗さんにひと声かけて、ソファに誘う。
対面する彼女にはいつもの機敏さは全く見られなかった。
午後になってから時間が経ち、空が暗くなりつつある事務所。
数カ月前の明るい夕方もすっかり姿を消して、小学生が遊びから家に帰るぐらいの時間にもなれば、辺りからは自然と夜が出始めていた。
病室での時間を過ごした後、ちひろさんに電話を入れて、急遽打ち合わせをセッティングしてもらった。
俺は今回の件を麗さんから聞いた時、翠の事に集中するがあまりちひろさんへの連絡を忘れてしまっていたのだが、麗さんは俺へと同様に彼女へも報告してくれていたようで、比較的すんなりとこの時間を設けることができたのである。
――翠の病室で過ごした時間はたった半日にも及ばなかった。
喉を痛めているのでまともに会話すら出来ない上、饒舌に喋る程の気力も失われているようであったからだ。
本人も、俺と会ってしばらくは体調不良であることを頑なに否定して健康さをアピールしていたものの、指摘されて認めた途端に病人らしく静かになってしまった。
…認めることの大変さは、俺もよくわかっているつもりだ。
そうすることは、すなわち失敗を自覚するということに他ならないからである。
翠は仰向けになって布団を被り、物言わずじっと天井を見ていた。
やはり、心の奥底では孤独感があったのだろう。
辛いことを誰にも言えない状態が続けば、精神も摩耗していってしまう。
布団から外に出した翠の手に俺のそれを重ねることで、いつのまにか彼女は目を閉じて意識を深層に沈めていた。
それは病気だからか。
あるいは、恐怖心だからか。
どちらにせよ、次からは本意でもって俺と接してくれることを願うばかりだ。
「すみません遅くなりました。どうぞ」
麗さんに何と声をかければいいのだろう、と迷っていると、ちひろさんはフォローするが如く俺達の前に現れ、コーヒーをローテーブルに置いた。
「ありがとうございます。寒かったから余計に美味しく感じますよ」
それに口をつけて早速胃に流し込む。
俺はいつも砂糖を入れているので、言わなくてもちひろさんも理解して砂糖を適量入れてくれている。
いつもの味が口に広がると、いよいよ事務所に帰ってきたな、という安心感が体に伝わった。
一方麗さんはというと、目の前に置かれたコーヒーをただ見つめていた。
今の彼女は見ていられない。
ある意味、翠よりも深刻であった。
しかし、前を見なければいけない。
失敗して打ちひしがれるのは自由だが、責任ある立場である以上は、俺も麗さんも、逃げることは許されないのだ。
俺は温めて体を落ち着かせると、スケジュール帳とペンを取り出して、話を切り出す。
「…今回の件は、少なくとも麗さんだけの責任ではありません。一番近くで見ている私が気付けなかったんですから、言い方は変ですが仕方がないことでしょう。むしろ、体調不良であることを隠し通してきた翠の演技力に感心すべきですよ」
褒めることじゃないですけど、と付け加えて笑ってみせる。
今唯一できる精一杯の冗談だ。
自分で言っていても、本当に驚くばかりであった。
体に異変があれば、どれだけ取り繕おうとも無意識の内にどこかでほころびは出る。
それすらも体の内に隠して俺達を欺き続けた翠の精神の強さは、まごうことなき本物である。
何よりも、喉を痛めて声を出すのも辛かろうに、それでも麗さんに気付かせなかったという事実が色々な意味で俺を唸らせる。
…それを今回以外の面で出してくれればな、と思うのだった。
「では改めてスケジュールの方変更して行きましょう。とりあえずは三日間は必ずオフにします。それからですが――」
あの時翠に伝えた事を、一字一句間違わずに伝える。
消沈しきっていた麗さんも、俺の言葉のおかげかどうかはさておき仕事をする程度の気力は戻ってきているようで、メモを取っていた。
「不幸中の幸いですが、翠の次の予定はフェスのリハーサルだけなので相手先にも迷惑はかかりません。休ませることに集中させたいと思います。…麗さんはどうですか?」
静かにメモをとっていた彼女に質問をする。
担当トレーナーなのだから、彼女なりの考えもあるのだろう。
場合によっては俺の案よりも良い物を出してくれるに違いない。
「…いや、大丈夫だ。それでいこう」
しかし、存外素直に麗さんは俺の意見に賛同した。
まあ、翠の担当プロデューサーとして、翠の性格を考えた上で作り上げたものだからこそ麗さんは異論を呈さなかったのかもしれない。
俺も、胸を張って翠のプロデューサーだと言えるようになりたい。
そのためにも落ち込んでいる余裕はないのだ。
それからも、翠へのレッスンの方針や内容の吟味、今後こういった事を引き起こさないためにどうすべきかを話し合ったことで、結果的に白紙だったメモ部分の殆どが黒色に塗りつぶされてしまっていた。
今回の件は、俺達全員にとっても悔しさの残る事である。
それだけに対策という部分にも熱が入っていたのだ。
麗さんも例外ではなく、こまめな状態観察について詳しく意見を出してくれた。
彼女の経歴の大部分を俺は未だ知らないままではあるが、過去にだって一人や二人、失敗したこともあるのだろう。
肝心なのはリカバリーであり、フォローである。
若干特殊な素質とも言える翠のため、臨時でも責任強くいてくれていた。
それもこれも皆、翠のことが大切だからだ。
信頼しているからこそ、こうして話しあえている。
…それだけに、翠が俺達を信頼しきってくれなかったことに一抹の悲しさを覚えるのだった。
「――とまあ、こんな感じです。最後に何か意見はありますか?」
訊ねると、両者とも首を横に振った。
問題ない、ということだろう。
「わかりました。麗さんも急なのに来てくれてありがとうございます。…大事なのはこれからですから、よろしくお願いします」
「…勿論だ。全身全霊を持って尽くすことを誓おう」
話し合いを経て、麗さんの目つきも変わっていた。
それは翠が彼女と出会った時と同じ。
変化を感じ、底に落とされたことで湧き上がる気力。
俺の意思が少しでも彼女に伝わってくれることを願うばかりだ。
「ちひろも…この度はすまなかった。嫌な思いをさせて」
麗さんは少し温度の下がったコーヒーを一気に飲み干してから立ち上がると、ちひろさんに対しても頭を下げた。
ながらの行動でも、ありきたりな行動でもない。
ゆっくりと、落ち着いて、それでいて強い意志で腰を折ったのだ。
それは俺へ行った物とは少し違うような気がした。
具体的にどうなのだ、と問われると回答に窮するのだが、俺と麗さん、ちひろさんと麗さんの関係の違いによるものなのだろうか?
「…いえ、無事ですから」
それに対してちひろさんは静かにそう答えた。
にこりと笑ってはいるが、事務所で仕事をする時はいつも一緒にいて彼女の顔を見ているのだから俺にはよくわかる。
さっきのちひろさんの笑顔は、作っている。
それがどうしてか、この場で訊く蛮勇はない。
しかし、理由や思惑について過去にも少し考えたことがあったので、一層疑問は深まっていくばかりだった。
もし、タイミングがあれば――。
「麗さんもよかったら翠の顔を見に来てやって下さい。練習したがってますから」
…いや、やめておこう。
翠のために使う時間を、別の…言い方を顧みなければ、どうでもいい事のために使わなければいけない義理はない。
少なくとも、それをすることが正解ではないだろう。
「わかった。今度ちひろの家に寄らせてもらうよ」
「…ちゃんと来る時は連絡してくださいね?」
はは、と麗さんは笑う。
久方ぶりに見る彼女の笑顔だった。
絶対的に見ればたった一日や二日ぶりなのだが、あまりの空気の重さに、認識している時空が弄られてしまっていたのだ。
「今回の件は本当に申し訳なかった。この事は真剣に反省し、次がないように全力で仕事にあたることを約束する」
事務所の扉の前で麗さんは改めて謝罪する。
とりあえずの帰宅先である彼女の所属する会社に車で送ろうと提案したのだが固辞されてしまったので、こうして事務所前で見送ることにした。
麗さんも重々気をつけてくれるようだし、翠も…練習への気持ちに対してだけは問題なさそうだ。
「それはフェスの結果で判断させてもらいますよ」
「…キミも随分偉くなったものだな」
そう言って、二人で笑いあう。
正直に言って、心から笑っていられる状況ではない。
しかし、関係改善のためには笑顔が絶対に必要なのだ。
だから、無理をして笑うという程でもないが、少しぐらいは気持ちを底上げしておかないと不意にボロが出てしまいそうなので俺は笑った。
明日の予定は翠を迎えに行くことから始まる。
それからは流動的だが、翠の意思を尊重したいと思う。
――冬の訪れには、翠だけの特別なイベントが待っている。
それなのにこうなってしまった事は残念だが……いい機会だ、俺はこれを存分に利用することにする。
麗さんが帰った後の事務所の中には、ちひろさんはかたかたとキーボードを鳴らす音だけが舞っていた。
いつもの光景。
少し違うのは、寒さが扉を貫通しており、事務所の中でも厚着をするか動いていなければ体がどんどん冷えてくる冬の独特の季節性だろうか。
俺はカレンダーを見る。
12月2日。
間に合うかどうかはわからない。
だが、翠が心から俺を信頼してくれるように、あの日のための準備をしたいと思う。
*
「ああ、あなたがちひろの言っていた?」
名前を告げて十数秒。
玄関の扉から一人の女性が出てきて、俺の顔を見るやいなやぴょんと跳ねる声を上げた。
――事務所から電車で数十分。
近からず遠からず、電車通勤の距離としてはなかなか優秀な距離に位置する年季を感じさせる一軒家。
割と古い町並みの中に上手く溶け込んだ、ある種風情を残しつつ平成の雰囲気を併せ持つ家に俺は来ていた。
ここは、翠が現在寝泊まりしているちひろさんの実家だ。
だが、その当人はここに居らず、彼女は今日も事務所で仕事をしている。
どうして俺がここに居るかというと、予め連絡していた通り翠の見舞いに来たのだ。
ちひろさんに日時を伝えると、彼女の母親に言ってくれていたようで、つい先程インターホン越しに名前と所属、目的を述べるとすぐに反応してくれた。
母親はウェーブがかった茶髪で、それほど歳を召してはいないように見える。
しかし態度は比較的落ち着いていて、それでいて元気そうな声色をしている。
思ってみれば彼女とちひろさんにも何か類似点があリそうな気がした。
「改めてご挨拶させて頂きます。シンデレラガールズ・プロダクションに勤めております、千川ちひろさんと同僚のPと申します」
彼女の口ぶりから察するに、ある程度はちひろさんから俺のことについて話してくれているらしい。
木製の艶のあるテーブルに対面して座ると、母親はへえ、と言っていた。
リビングルームにはインテリア小物が棚に数多く並んでいて、どこかの国の装飾品類が異彩を放っていて目を引かれる。
俺の実家はというと、家具はあるものの贅沢品などは少なく、こことはおおよそ対照的であった。
決して裕福ではなかったが、かといって明日に困る程貧乏であった訳でもない。
きっと両親が質素を良しとする性格だったのだろう。
子供心では金がないのだと思っていたものの、いざ大人になって仕事に忙殺される日々が続くと、あまり家の中にお金を使う気も失せるというもの。
この歳になってようやく、両親の気持ちというものが垣間見れたような気がした。
その後はしばらく母親とちひろさんについての事務所内での仕事ぶりを質問され、それに答える時間が続いた。
様相といえば、もはや尋問というべき食いつきっぷりである。
やはり実の子供、それも娘とあれば行動が気になるのだろう。
卒業して未だ音沙汰ない俺の両親に比べれば、随分と羨ましく思えた。
*
「ああ! そういえばそうだったわね!」
翠の部屋はどちらでしょうか、という俺の問いに、彼女の目が覚める。
ぽんと手を叩いて、忘れてたわうふふと笑う母親に俺も苦笑せざるを得ない。
当然ちひろさんの母親と与太話をしに来たつもりではなく、目的は翠のお見舞いなのだ。
ここ数日に関しては、完全休養という訳あって俺は翠と会わない時間が以前より多くなっていた。
とはいっても、翠の方から些細な事でもメールが来るので状況は粗方把握はしている。
しかし、彼女の顔が見れないのはどこか寂しく感じるのだ。
最近では毎日顔を合わせるぐらいの頻度で合っていたので、たかだかこんな短期間でさえそう思ってしまう。
いよいよ俺も翠にとり憑かれたかな、と心の中で嘆息した。
「二階の空き部屋を貸してやってるのよ。今は多分起きてると思うから、案内するわね」
母親はそう言って椅子から立ち上がると、リビングルームを退室する。
この家の構造的には他の一軒家のタイプと変わらない一般的なもので、リビングルームを出ると玄関の近くには二階へと続く螺旋状の階段がある。
それを手すりと持ちながら上がる母親の後ろを俺も歩く。
家の匂い。
ちひろさんの着けている香水とはまた違った心地良い匂いがする。
それぞれ家によって違ったっけな、と昔友達の家に遊びに行った時の事を不意に思い出して笑ってしまう。
こうして他人の私生活を行う家にお邪魔することなど翠をスカウトした時以来だったので、どうにも感傷的になるのである。
それだけ密度ある時間を過ごしてきたのだ。
例え胡乱な感情で入ったこの仕事も、今となっては悪い気はしない。
「ここよ。…後で飲み物も持ってくるから、ごゆっくりね」
二階に登ると、二人が並行して通れる程度の廊下を少し歩いて、一番奥の部屋に案内される。
木製の戸にはセロテープで何かを貼り付けていた痕跡があった。
きっとこの部屋は遠い昔息子か娘かの部屋だったのだろう、とても古い跡が歴史を感じさせた。
「はい。何から何までありがとうございます」
幾許か観察した後、母親に頭を下げる。
仕事で関係を持っている少女とはいえ、他人を家にしばらく生活させるなど並の人間は許可できまい。
とても広い心を持っているのだな、と素直に感心した。
母親が下に降りたのを見届けると、改めて扉を注視する。
いつも会っていて昨日もメールで色々話していたのに、いざこうして時間を空けて会うとなると、無意識に緊張してしまう。
遠距離恋愛で久しぶりにあう恋人の感情はこのような感じなのだろうか。
俺と翠の関係は決して恋人と呼ぶべきものではないんだけども。
なし崩し的に感情を伝え合ったとはいえ、俺達は仕事仲間であることに変わりはない。
そう言い聞かせることで、少しづつ高まる心拍数を抑えることにした。
指の関節で扉を叩くと、こんこん、と綺麗な音が鳴る。
扉が枠にきちんとはまっている証拠だ。廊下と扉の向こうに響く音に揺れがない。
*
「…お久しぶりです、Pさん」
しばらく待つと、向こうから扉を開けてくれた。
絶対安静としつこく言い続けた結果か素直に聞いてくれたようで、翠の髪は片側だけボリュームが失われている。
きっと今日も寝て過ごしていたのだろう、顔つきも病室での頃に比べても幾分と穏やかだった。
何より、翠の発する言葉が初めて会った時のような涼しげでかつ芯のある綺麗な声に戻っている事が、俺にとって嬉しかった。
ビジュアルも勿論大切だが、声が失われるともうアイドルとしてはやっていけない。
風邪ぐらいで大げさな、と言われるかもしれないが、ある意味俺達に起こった最初のアクシデントなのだ、過剰に心配するぐらい許して欲しい。
「はは、何だか少し直接会わないだけで久しぶりに思うよ」
つい先程思ったままの事を言う。
微かに感じていた不安……やつれているとか、心が折れているとかいう未来にならなかった事が俺を安堵させる。
「不思議ですね。…メールで繋がっていても、近くに居る気がしないんです」
ちらりと部屋の中を覗くと、ベッドの枕元に翠の携帯電話が転がっている。
今日も見舞いに行くことの連絡を含めて何度かメールを交わしているのだ、雑談の文面とか、他に時間を潰す方法とかを考慮しても、彼女は俺とのメールをちょっとは楽しんでいたのだろう。
翠の表情にも、笑みが溢れる。
しかし、それは単純に嬉しいとか、幸せとか、そういった固定的な感情ではないように思えたのだった。
「…翠らしいな」
部屋に入れてもらうと、翠は俺をベッドに座るように案内した。
借りている部屋には、フローリングの床にベッドが一つと丸テーブルが一つ、クッションが一つ、そしてクローゼットや収納棚が一つと実に簡素なものだった。
その内テーブルやクッションは翠が実家から持参したものらしいので、ベッドや収納棚は元々この部屋に置かれていた物なのだろう。
化粧品や日常で使用する消耗品類が、使う頻度順にきちんと整頓されていることがパッと見ただけでわかる。
彼女の几帳面とか真面目とかいう性格がここぞと表れているのがどうにも面白かった。
「…そんなに見ないで下さい。何だか恥ずかしいです」
「ん、ああ、ごめんごめん」
借りているとはいえ、今は翠の私生活の全てが秘められたプライベートルームなのだ、周りを観察されて平気である訳はないだろう。
プライベートルームといえば、翠をスカウトして両親に説明した際にも一度翠の部屋に入った事がある。
あの時は俺も翠のことをあまり知らなかったし、ただの仕事をする上での関係者としてしか見ていなかったので何とも思わなかったのだが、今では少し事情が違う。
改めて変わった心で見てみると、如何ともしがたい羞恥心が俺をゆるやかに襲ったのだった。
…大人のくせに情けないな。
「最近はどうだ? 何か変わったことはないか?」
偶然にも、俺の家に翠が来た時と状況が似ている。
ベッドに隣同士で座っているこの距離が、自然と緊張を和らげた。
「お陰様で体調もよくなりましたし、ちひろさんのご家族の方にも良くしてもらっていますよ」
何だか新しい両親が出来たみたいです、と翠は笑う。
それを本当の両親が聞いたら複雑な気持ちになるだろうな、と考えると俺も無意識に笑ってしまった。
「あ、それと、昨日は麗さんが来てくれました」
「おお、そうなのか」
正直に言えば少し不安ではあった。
直接的な関係性は薄いとはいえ、麗さんは間近で翠が倒れるのを見てしまったのだ。
そういう状況が彼女二人の間に何か変な軋轢を生んでしまっているのではないか、という懸念が頭の中にあったのである。
「麗さんが悪いわけではないのに、すごく謝ってもらって…私も申し訳なかったです」
しかし存外よそよそしさと言った部分は無く、温和に元通りの関係に戻っているようだった。
「その後は自宅でのトレーニング法を改めて教えて頂いたり、栄養のある食事を教えてくださったりしましたよ」
真剣に反省しているからか職務を全うすることに集中しているからかはわからないが、麗さんも謝った後はトレーナーらしい話題を提供していた。
「麗さんも真面目だな。ずっとそんな話だったのか?」
「…あと、甘い物を幾つかもらって一緒に食べたりしました」
なるほど、ああ見えて麗さんも甘いモノは好きらしい。
*
――改めて謝りたいと思います。本当にすみませんでした。
ちひろさんの母親から頂いたジュースとケーキを食べながら、メールで話しきれなかった今日の新鮮な話題を交わし合ったが、それも時間をすぎれば大体出尽くした。
その後は独特の静寂が俺達を包んだかと思えば、翠は体を俺に向けて頭を下げたのである。
……何度謝れば彼女は彼女自身を許すのだろうか。
俺は翠も麗さんも責めるつもりはなく、ただ心配しているだけなのだ。
それが怒っていると取られるのは少し残念である。
「これからはもっと頑張りますから、どうか見捨てないでくださると……嬉しいです」
「…見捨てる訳ないだろう。俺も、ちひろさんも。勿論麗さんもな」
すっと手を上げて、彼女の頭の上に置く。
まるで素振りをした時点で予想できたのか、いつものように可愛らしい声は上げなかった。
「ふふ、Pさんも慣れましたね」
「…お互い様だ」
身長差で俺を見上げる翠はくすりと微笑む。
それが良い事か悪いことかは置いておくとしてもだ、彼女との友好的関係を築くために大きな功績となっているのには間違いはないだろう。
後ろを向いて考えてみると、これを選択した当時の俺はよくもこんなことができたものだ。
常識で言えばまずこんなことにはならないのにな、とただ笑うしかなかった。
……なら、そんな馬鹿げた選択をしたついでだ、もう少し歩を進めてみようではないか。
「…翠、明日は何の日か知ってるか?」
ジュースを飲む翠に、一つ訊ねる。
「明日ですか? ええと…何かのイベントでしょうか」
本当にわからないといった態度で、グラスをテーブルに戻した後に頬に手を当てて逡巡しても、どうやら明確な回答は出て来なかったようだ。
まあ、急にこんな事を聞かれてわかる人はそう多くはないか。
カレンダーにも明日には何も記載されていない、ただの365日の内の一日である。
しかし、彼女にしてみれば真実は異なる。
俺は訝しげな表情の翠を他所に、持ってきていた普段から使っているドクターバッグからあるものを取り出すと、おもむろに彼女の手に置いて、こう伝える。
――誕生日おめでとう、翠。
明日、12月5日は水野翠の誕生日なのだ。
「え、え?」
「はは、自分の誕生日を忘れるなよ」
彼女の頭を撫でる。
予想通りというか、意地が悪いが思い通りの困惑ぶりに、俺も思わず笑ってしまった。
しかし、彼女の反応にも理由がないわけではない、
そもそも俺は翠と誕生日といった関係の話をした事がなかったのだ。
学園祭の時も、俺の家に来た時も、生まれの話はしても、誕生日の話はしていない。
故に、俺が翠の誕生日を知っていた驚いていた、というのが真相だろう。
「私の誕生日、知っててくれてたんですね……嬉しいです」
彼女の手には、一枚のチケットが握られていた。
それを胸に当て、かつて無いほどの美しい笑顔を見せている。
チケットとは、郊外にある有名なレジャーランドの一日フリーパス券である。
そのレジャーランドでは一年中季節にあったイベントが催されており、夏にはプールも併設され、性別、年齢層、入園者の構成を問わない万人受けするアトラクションを多数取り揃えた日本有数の巨大施設なのだ。
翠の手に一枚あるチケットは、俺の手にもう一枚同じ物がある。
「本当はフェスの後の約束だったけど、ちょっとはやいプレゼントだ。……楽しみにしてろよ」
「…ああ!」
それを見せると、彼女も即座に理解したようだった。
約束。
その言葉を訊けば、瞬時にあの時の視界が脳裏に映し出される。
――また今度、デートに行こう。
俺の寂れた部屋での言葉だ。
我ながら恥ずかしい事を言ったものだ、と思うが、今日ばかりはこの言葉に感謝をせざるを得なかった。
何故なら、フェスに向けての日々の過酷なトレーニングが今回の騒ぎを引き起こしてしまったのは自明だからである。
フェスの前という時期ではあるが、思い切って気分転換をして欲しい、そんな思いで誕生日プレゼントとしてこのチケットを翠に渡したのだ。
当の本人はというと、少女が更に幼くなったような自然体で無垢な笑みを浮かべて、幸せそうな目でチケットを見ていた。
勿論デートに行けるという嬉しさもあるのだろうが、俺が誕生日を覚えてくれていた、という意味合いでの嬉しさもあるのかもしれない。
好きという感情は非常に複雑で、この文字程難しい表現もそうそうない。
自分に降り掛かった現象が、どんな内容かだけではなく、誰からのものかという点によって印象が大きく違ってくるからだ。
誕生日プレゼントを家族からでも友達からでも、あるいはただの知り合い程度の人間からでも、翠なら心から喜ぶだろう。
しかし、もらった相手が俺だったら。
…彼女の表情にはそんな恋心が微かに含まれているような気がするのは、俺のフィルターの所為なのだろうか。
「…でも、いいんでしょうか。本番も近いのに……」
ひとしきり喜んで感謝の言葉を口にしていた翠は、不意に静まり返ってそう呟いた。
翠の言う通り、一ヶ月の境界線はとっくに通り過ぎてもう残り三週間というべきところまで来ている。
にも関わらずフェスのことを忘れて遊ぶのはどうか、と翠は考えていた。
……それが問題なのではないか、と俺は思う。
勿論、本番に備えて必死に練習をするのは悪いことではなく、むしろ全てにおいて推奨されるべき事である。
しかし、それを信じて突き進んだ結果、彼女は自身の力量を顧みず倒れてしまったのだ。
俺は、それが怖い。
今回は運良く過労も酷くなく、数日安静にしただけで風邪の症状と一緒に体から追い出すことができたが、いつもそうだとは限らない。
いつか己の力を…己の精神を過信して、取り返しの付かない事態に陥ってしまうのではないか。
そんな不安が、ここずっと俺の頭を占領しているのである。
翠は、自分を知っているようで知らない。
むしろ自分の全てを知っている人の方が少ないのだが、懸念すべき点は、翠は心が強い、という部分にある。
意思に背いて倒れるということは、体が意思に追いつかなかったという事に他ならない。
たまたま今回は軽い過労という結果に落ち着いたものの、これを反省せずに繰り返せばまた同じ事になることだって十分に考えられる。
それどころか、『もうあんなことにはならないから』という根拠のない自信めいた何かが彼女に植え付けられれば、この仮定以上の事態になる時が来るかもしれない。
何故ならば、彼女は一人で抱え込むからだ。
たとえ辛かろうと、痛かろうと、それを外に漏らそうとはしない。
不安をいくら口にしても、真の苦しみは伝えない。
それは彼女が己の立場を理由にして自身を追い詰めているからである。
だから俺や麗さん、ちひろさんに不調を訴えなかったのだと推測している。
一度は心配をかけてしまった。だからもうこれ以上は心配を掛けたくない。
――そんな思いが、より危険な事態を引き起こすのだ。
「翠はさ、我儘ってどう思う?」
先程とはうってかわって不安そうな表情をする翠に、俺は突然問いかける。
「……我儘、ですか?」
「そう、我儘。ああしたい、こうしたい。それを伝える事だな」
一見前の話題と全く関係ないような話題を振られて、翠はきょとんとして俺の言葉を跳ね返す。
数秒のラグを経て彼女が理解すると、膝に落とした手に握られているチケットに視線を向けて考え始める。
我儘には、良い時と悪い時がある。
己の力量をわきまえないで、自分の意志を最大の根拠に据えて行動することは、悪い我儘だ。
「…よくない事だと思います。我儘は周囲を混乱させるだけで、得にはなりません」
しかし、その日その時で移り変わる状況の中で生まれる変化のために自身が適応した結果、周りを変えていこうとするのは良い我儘なのである。
もしあの時我儘を言っていたら、翠が倒れることもなかったのだから。
「そうでもないさ」
再度翠の髪を梳く。
ぺたんとした髪が滝のように俺の手を流すと、翠はくすぐったそうに目を閉じた。
この質問を通して彼女の考え方が俺の中に映し出される。
…翠に足りないのは、自己主張と言う名の我儘だ。
彼女は、『意見』を言うことが場を乱してしまうのだと考えている節がある。
それが仮に同級生や友達といった対等な立場であれば、翠も向上のために率先して意見を言っただろう。
「俺達の指示に従って、頑張ってくれるのは嬉しい。……でもな」
しかし、この場は年上ばかりである。
自分の中だけで完結して力を身に着けていく習慣が子供の頃に備わった事に加え、指示をする人間が軒並み目上の人間でかつ本人が表向きでは信用しているから、言い出すことが出来なかったのだ。
髪を撫でる手を下ろすと、翠は俺の目を見つめた。
その表情は先程ともまた少し違っているが、それが喜怒哀楽のどれに位置するかはわからない。
翠がどう考えているのか。
俺の予想というのはあくまで想像の範疇にすぎず、真実を表してはいない。
だからこそ、俺は翠に本心を伝えて彼女の中心を探る。
その本心の伝える方法というのが我儘であり、自己主張であり、また自己表現なのだ。
「――ぶつかってきてくれたほうが、信頼を感じることだってあるんだ」
暖簾に腕押し、糠に釘という程のものではないものの、それでも彼女はどうしても受け身になりすぎている部分がある。
それも見方によっては利点だが、こと人間関係においては欠点にもなり得るのだ。
俺は彼女に対して常に本心を伝えているつもりだ。
多少隠すことはあっても、本意はいつも言葉に含めている。
だが、翠はどうだろう。
ただ頷いて受け入れることだけが、信頼に繋がるのか。
翠が俺を信頼しているとよく口にするのは、信頼しなければ自分の行いの正当性を間接的に主張できないからではないのだろうか。
決して伝えはしないが、今回のデートというのはそれを打開するための一つの方策であった。
「我儘が、信頼…」
ぽつりと翠は呟く。
罪悪感が無い訳ではない。
少女としての翠が心からデートを喜んでくれているのに、俺はプライベートの服を着ていると見せかけて、中にビジネススーツを着ているのだ。
しかし、翠のそういった点を改善するためにはこの場が必要だった。
きっかけもなく、ある日突然直接面と向かって言ったところで、表向きは頷いても本心はそれに従わない。
それは、心の何処かで主張をすることに歯止めをかけているからである。
素直であることはいいことだ。
しかし、心を隠蔽して耐えるということも、端から見れば素直と取られてしまう。
自分を隠して相手に本心を晒せるか?
相手に隠して自分を伝えることが出来るか?
今の翠に足りていない部分はそこだ。
意見して、我儘を言って、要望を伝えていくことが、ひいては本心を伝えると言っても過言ではないのである。
「だから俺は我儘を言うぞ。日々の辛い仕事を忘れて翠とどこかに遊びに行きたい、てな」
「それはどうかと思いますが…」
ここにきて翠の冷静なツッコミに苦笑する。
――だが、その表情に曇りはなかった。
「……では、私も言わせて下さい。明日、Pさんと一日中遊びたいです」
普段通りの静かな、それでいて芯のある美しい声が俺の耳を撫でる。
「おお、一日中か……俺も気合いれないとな」
一日中とは大きく出たものだ、と笑う。
そう言ってくれるのも、俺がこの話をしたからだろうか。
明日のデートでは、俺は翠を仕事仲間の担当アイドルとしてではなく一人の女性として扱うつもりだ。
かつて俺が翠に伝えた言葉が本心であるとすれば、その行動こそが俺の本心となる。
それを受けて、翠はどう対処するか。
彼女がアイドルという立場を忘れて、俺の立場も忘れて、対等な関係として我儘や意見を言って、その日を楽しんでくれたら。
……それは、本物の信頼へと繋がるはずだから。
「…フェスのことを忘れて?」
「フェスのことを忘れて、です」
冗談めかしてお互い笑いあうこの空気がやけに久しぶりなように思えて、何だかとても心地よかったのだった。
*
「ちょっとプロデューサーさん。翠ちゃんに何を吹き込んだんですか?」
翠の見舞いに行った後は事務所に戻って普段通り仕事をしている午後。
企画書作成のためにパソコンと長らく見つめ合っていると、不意に横からボールペンでつんつんと突かれる。
その方向を見ると、疑心暗鬼になってこちらを可愛らしく睨むちひろさんの姿があった。
普段怒らないせいか彼女が頬を膨らませるのが意外に思えて、何だか面白かった。
「吹き込んだって…どういうことです?」
今日のことを回想すると、確かに吹き込んだと言われればある意味吹き込んだようにも思える。
しかし、決して間違った知識を教えたという訳ではないのだから、ただ単に伝えたと表現するべきだろう。
ちひろさんは俺の回答に対し半目でしばらくこちらを睨むと、一つ大きな息を吐いた。
「…さっきお母さんからメールがあって、翠ちゃんが何だか今まで見たこと無いくらいそわそわしているんですって。それって今日プロデューサーさんが私の家に来た後のことですよね?」
わざわざ該当のメールが表示された画面をこちらに突きつけた。
文面には、嬉しそうな顔をしていること、様子を見に行くと落ち着きが無い事、プロデューサーである俺のこと、そして俺と翠の関係に対する母親なりの余計な推測云々が記入されていた。
ご丁寧にも、文章の最後には『アイドルとプロデューサーなんてもしあったら禁断の愛よね、キャー』などと言った文字がカラフルな絵文字と共に添えられている。
全く、どうしてこうも母親という人種は好奇心が旺盛なのか。
いや、あるいは女性という区分にすべきだろうか。
どちらにせよ、ちひろさんもその光景を見た母親の考えを看過することはできないと判断したのだろう。
彼女の訝しむ視線の意味がようやく理解できて、そっと溜息を付いた。
翠よ、そんなに嬉しいのか。
……そして、それこそ隠すべきではないのか。
いい加減な回答をする前に、思考にクッションを挟む。
当然ではあるが、翠が俺に対してどう思ってくれているのか、そして俺の家に来たこと、明日デートをすることなどは全てちひろさんには秘密にしてある。
まあ出かけること自体は他の事実に比べれば比較的健全であるはずだが、それを白状してしまうと更なる尋問が待ち受けているような気がするのだ。
そうでなくとも、以前翠の髪を撫でている姿を既にちひろさんには目撃されている。
ちょっとでも匂わすような事を言ってしまったら、すぐさまマンツーマンの独裁的裁判が事務所で開かれるに違いない。
かといって誤魔化せば、後で絶対にボロが出る。
翠があんな状態になってしまっては、まず確実に口が滑るだろう。
ではどうすればいいか、といくらか案を練ったところで答える。
「明日、翠は誕生日じゃないですか」
その言葉に、ちひろさんは目を大きく見開き、あ、と小さく漏らした。
ちひろさんはどうやら忘れていたらしい。
有能な彼女にもこういうことはあるのだな、と『やだ…私ったらなんてこと』と呟く姿を見て思った。
ここ最近の激務があれば、そうなるのも仕方のない話かもしれない。
どうしよう、と言っているちひろさんに対し、俺は続ける。
「それで明日も休養ですし、せっかくだからプレゼントで欲しい物を買わせてあげようということで出かけるんです。もしかしたら、それで楽しみにしてくれてるのかもしれませんね」
あくまでよそよそしく言う。
知っているのにこんなことを答えるなんて、白々しいにも程がある。
プロデューサーさんも結構気が聞くんですね、とちひろさんが小さく呟く。余計な一言である。
「……そうだ、買い物が終わったら、私の家で誕生日パーティをしませんか?」
おお、という声が無意識に出る。
なるほど、そういう手もあったか。
俺はチケットの事で頭が一杯になっていて、翠の誕生日自身へのお祝いという物がすっかり抜け落ちていたのである。
そういう意味で、ちひろさんの提案は願ってもない事だった。
「いいですね、やりましょうか。でも家の方は大丈夫なんですか?」
ただでさえ部外者であるちひろさんの母親に迷惑をかけているのだ、更に場所を借りるとあっては申し訳が立たない。
「大丈夫ですよ。前にも言いましたけど、お母さんったら孫どころか娘みたいに接してますから…」
そう判断して言ったのだが、対するちひろさんははっきりしない声色で答えてみせた。
実のところ、ちひろさんの胸中としてはさぞ複雑だろう。
例えて言えば、弟か妹ができた姉の気分。
俺の目から見ても、母親は翠によくしてくれているのがわかるくらいだ、ちひろさんから見れば余計に印象強く見えたに違いない。
この歳で嫉妬ということもないが、実の娘から見れば母親の翠への愛娘っぷりはどうも直視し辛いのだろうか。
「はは…なら大丈夫みたいですね。とりあえずケーキだけでも買っておきますか」
「それは私が買っておきますよ。サプライズのほうが二倍も嬉しいでしょうし」
衣装を翠に見せた前回の時も含めて、ちひろさんも中々粋な事をするものだ。
総合すると、俺が翠と出かけている間にちひろさんはケーキを購入して帰宅。
その後誕生日パーティをするという事だ。
「なるほど…了解です。プロデューサーさんはいつ頃私の家に来ますか?」
「ちひろさんの準備が完了する頃合いに合わせますよ。…まあ、夜がいいでしょう」
彼女の中では買い物だが、実際はレジャーランドで遊ぶのだ。
翠自身が一日中遊ぶといっているのだから、そう早くは帰宅できないだろう。
「私も仕事がありますからね……なら、20時でどうですか?」
普段ならちひろさんは提示された時刻よりももう少し遅くに事務所を後にする。
翠の誕生日パーティのために、少し早めに切り上げてくれるようだ。
俺としても、20時に帰宅するのであれば、と当日の行動を逆算する。
県外に行くと言っても立地上アクセスはかなり便利だし距離的にもそこまで遠くないので、開園から向こうに着いたとしてもかなり遊べるだろう。
「わかりました。では明日お願いしますね」
晩御飯を食べないようにしても20時であれば間食程度でごまかせるだろうし、丁度いいと判断して了承する。
じゃあ今からケーキ予約しておかないと、と受話器を拾うちひろさんを見ながら、俺はふと申し訳なさが沸き起こる。
翠の心情も、いつかは露わになる時が来る。
…その時が来てしまうのが、俺は怖かった。
*
「うお…思ったよりかなり大きいな、ここは」
晴天の冬空の下。
車から降り立った俺は、駐車場からでも見えるレジャーランドの建造物の屋根を見て思わず呟く。
翌日。
俺は朝にちひろさんの家に行って翠を車に乗せると、あとは高速道路を通って件のレジャーランドにやって来たのだ。
天気予報は裏切らず無事に快晴となったことで、肌を撫でる風は冷たいものの心地良い日の出となったのであった。
途中でコンビニに寄って車中でつまむお菓子やジュースを買った後は運転しながら今日の事について談笑しながらここに辿り着き、今に至るという訳だ。
朝早くから出発したおかげで、多少移動時間はかかるものの入園開始時刻の少し過ぎ位に到着することが出来た。
駐車場に足をつけて早々、窮屈な車内から開放された反動で無意識に大きく背伸びをすると、何故か翠も同じタイミングで背伸びをしてしまう。
それに気づいた俺達は見つめ合うと、勝手に笑みが零れた。
なんて事のない些細な物なのだが、示し合わせたかのように同時に背を伸ばす互いの姿がどうにも面白かったのである。
くすりと笑った後は、同じ歩幅で歩き出した。
「もう…Pさんがチケットくれたのに知らなかったんですか?」
身長差から、微かに見上げる翠は一つ息を吐く。
そう言われると耳が痛い。
そもそも俺はこういったレジャーを楽しんだ経験があまりない。
無論学校の行事で行ったことはあるが……、家族とでさえ数は劣る程だ。
ごめん、と頭を掻きながら苦笑すると、翠も同じ表情を取る。
「…ですが、好都合かもしれませんね」
「好都合?」
車からレジャーランドの正門まで歩きながら彼女は言う。
むしろ一般的な理論で言えば男性側からエスコートできない事に呆れるシーンであると思うのだが、翠はそんな素振りも見せないで微笑む。
「その方が、たくさん楽しめて…たくさん思い出に残りますから」
見上げている翠の顔からは、アイドル特有の雰囲気は何も感じられない、純粋な少女の笑顔。
だからこそ彼女は輝いているような、そんな気がした。
「最初は何に乗りたい?」
数多の入園者と共に通ったゲートでもらったパンフレットを二人で覗きこむ。
位置が悪いのか、雪のような新品の白いキャスケット帽を少し触りながら翠は考え始めた。
当然だが、ある程度の変装と言った類の事はしなければならいという認識は持っている。
もしも彼女が誰もが認める有名アイドルだったならサングラスも必要だったろうが、そうであってもせっかくの楽しいオフなのに周りの目を気にかけさせるのは些か不躾だ。
そのため、翠には普段のイメージとは違ったファッションをしてもらう事で手を打ったのである。
慣れない帽子を気にするのはそのせいだ。
髪型もトレードマークのポニーテールから普通のロングヘアーにしている。
…まあ、普段とは違う印象の翠を見ることが出来て、俺としては役得なのだけども。
「…ジェットコースターでもいいですか?」
「最初にそれを選ぶか」
数秒ほど間を開けて、翠は該当の場所を指差しつつこちらを見た。
指先に記された文字を見るとどうやら本格的なジェットコースターらしく、あちらこちらへと縦横無尽に駆け巡る写真が記載されていた。
まさか翠がそんなものを、しかも最初に選ぶとは流石に予想ができなかった。
翠自身も俺と同様にそこまでこういった場所に来たことがあまり無いと言っていたので、てっきり優しいアトラクションからから行くと思っていたのだが、存外彼女は気力満点らしい。
その瞳は期待に満ちて、さながら未来への希望を感じさせる程だ。
「よし、じゃあそれでいくか!」
正直に言ってジェットコースターに乗った経験はあまりない。
かといって、テレビで芸人が騒ぎながら乗るようなタイプの恐怖を煽るものでもないだろうし、俺でも大丈夫だろう。
…何より、高校生に負けるのは悔しいしな。
「ふふ、ありがとうございます」
そんな俺の表情を察したのかどうかはわからないが、翠は一つ笑う。
最初が肝心とも言うからな。
ここらで『らしい』ところを見せようか。
そう思って、パンフレットに従って歩き出したのだった。
*
翠にとって運動というのは比較的親和性のある存在だったようで。
そして、ジェットコースターという存在は中々に彼女の好奇心を駆り立てる物だったようで。
「…だ、大丈夫ですか?」
ベンチで勢い良く座り込んで真っ白になりかけている俺を翠が心配そうに覗きこんだ。
「あ、ああ…ジェットコースター楽しいもんな」
青い空を呆然と見上げて呟く。
入園して一時間は経過しようとしている今。
このレジャーランドにいくつかあるジェットコースターを即座に制覇した後、クッションで優しい乗り物に乗った後、二周目に入ったところで俺の心臓が限界を迎えた。
普段から強い人だと思ってはいたが、恐怖やスリル耐性すら強いとは全く思わなかった。
そして俺とは対照的にどんどん元気良くなっている翠に感心すら覚える。
「すみません、調子に乗りすぎて…あ、飲み物買ってきますね」
「いや、俺が買いに――」
行くから、と言う前に、翠は足早に自販機のある方向へ走って行ってしまった。
「…情けないな」
あまりに非情すぎる現実に、ただうなだれるしかなかった。
翠の姿を少し巻き戻して回想する。
いつも仕事として接する時は、自然体ながら真剣な表情で真面目に取り組む優等生。
たいそれたことはせず、二人でただ時間を過ごすだけの時は大人くて尚且つ恋慕に思いを寄せる少女。
そして、完全に仕事と切り離して遊んでいる時は品がありながらも元気な女子高生。
この一年を通して、俺は翠という存在について三つの顔を見ることが出来た。
それのどれが本当の翠なのかと問われれば、間違いなく全部そうである。
彼女の特性は、高い気品を持ちながらも接する人間に対して壁を作らず、不愉快のない自然体で居られることだ。
その結果、仕事で共演することになった人などの仕事に関わる人間とも気分を害させずに交流することで良い関係で居られ、それが理由で新たな仕事を回してくれることだってあった。
また、人当たりの良さで地元の商店街の方々とも親身になって応援してくれるまでになっているのだ。
それは言うまでもなく利点である。
もしも翠が自堕落で体裁を守るだけに集中するような人間だったら、今頃事務所を辞めて元の生活に戻っているだろう。
努力家で、素朴で、綺麗な翠は、堂々と最高の存在と言える。
いい事なのだ。
いい事なのだが。
…それ故に、俺は困っていた。
このまま、この先も同じままで居られるのだろうか。
今の時点では、公私の区別はしっかりつけて、言うべき言葉、すべき態度というものがはっきり出来ている。
しかし、翠の感情が爆発する可能性だって今後無い訳じゃないのだ。
常識で考えても、今の関係がずっと続くとは思えない。
人は、常に欲求を持つ。
故に人類はあらゆる分野で進化を遂げてきた。
同様に、彼女もアイドルであると同時に一人の人間なのだ。
今はただ隣にいるだけで満足している翠も、一年後、半年後……いや、あるいは一ヶ月後にはもっと深い関係を望むようになるかもしれない。
好きという感情がエスカレートしてしまっては、確実に悪影響となる。
そうなってしまえば、どうあがこうとも無事で済ませられはしないだろう。
どんな手段でもってしても、必ずケリを付けなければならないのだ。
…そうすることで、彼女はきっと傷つく。
立ち直るならまだいい方だ。
最悪なのは、それすら抵抗し、明確な境界線を持つ彼女がいつしかそれを失ってしまった時。
アイドル・水野翠は終焉を迎えてしまうのである。
多面性は、言い換えれば不安定と同じだ。
それぞれ成長させていけば、どこかで足の悪い土台に乗ることになる。
まさに、今がそれに近い。
もし初めからきっぱりと断ってちゃんとした境界線を引いていれば。
育てることを放棄して、感情を管理していれば。
「お待たせしました……と、どうかしましたか?」
ペットボトルのお茶を二本携えて翠が戻ってくると、訝しげに俺を見た。
彼女にはまだ調子が悪いと見られているのだろう、俺にペットボトルの片方を渡すと、翠はゆったりとした動作で隣のベンチに座った。
「いや、ちょっと昔の翠を考えてた」
ありがとう、と言って自販機の中で暖められたお茶を飲む。
寒空のおかげで、懸念に駆られた寒い心がとても暖かくなった。
「昔の私……ですか」
両手で暖かいボトルを転がしながら、翠は空を仰ぐ。
こんな楽しい場所に居ても尚、二人だけで話す時のこの雰囲気は健在だった。
「…不思議、というのが改めての感想でしょうか」
彼女はぽつぽつと語る。
遠くを見つめ、思いを馳せる姿はまるで少女でない――何十年も生きた大人の姿だった。
「思えば私もよくここまで来れたと、我ながら驚いてます」
「そういえば最初は自信がなかったって言ってたな」
隣に座る翠は視線をこちらに向けた。
「はい…、私のようなただの人がいきなりアイドルに誘われるなんて全く思いもしませんでしたし、それが最初は不安でしたね」
誰もが持つ感情、そして彼女だけが味わう感情だ。
それを弓を引く事で間接的にだが伝え、俺に決断をさせた。
――間接的だって?
「でもPさんに期待してもらって、熱心に私を見てくれて…だからこそ、頑張れたんだと思います。本当に、有難うございます」
俺は翠の事を、芯の強い真っ直ぐな人間だと考えていた。
今彼女が言っているような不安も、ただ誰もが感じる感情だと思っていた。
…しかし、それは本当にそうなのだろうか。
間接的、という言葉に頭が強く揺さぶられる。
思い返せば、翠の方から先に判断や決定、あるいは提言をしたことがあまり無いような気がする。
一番強く印象にあるのは学園祭での彼女の言葉だが、それの前後では記憶に無い。
「翠はいつだって頑張ってて偉い。だからここまで来れたんだよ」
遥か昔、俺は翠にこう言った事がある。
――『もう少し肩の力を抜いていい。もっと頼ってくれていい』。
その時は確か…初めてのオーディションの時だったか。
俺の言葉に呆れつつも、そんなプロデューサーさんなら相談できそうです、と言っていた。
そういえばあの頃は名前じゃなくてプロデューサーと呼んでいたんだな、と関係の変化に感慨深くなるが、見るべき点はそこではない。
……相談できそうです、と言って、今まで相談されたことがあるか?
「だから、これからもやっていこう。俺は君の隣に居るから」
ひたすら記憶を掘り起こす。
不安を打ち明けられた事はあった。
しかし、それすらも俺が励ますだけで問題は表面上解決したのである。
最近でもそうだ。
翠のネームを決める際に、自らは意見せず俺の判断を仰いだ。
ただの少女として俺に何かを言う時はあっても、アイドルとしては滅多に言わないのである。
彼女は自らで完全な意思決定を行わない。
イエスノーでは答えても、5W1Hでは答えない。
それは俺の質問の仕方が悪いのか?
今までの翠への対応を顧みても、曖昧なままで分かりかりそうにない。
「…ありがとうございます。私もずっと、あなたの隣に居ますから」
一体俺のこの感覚は何なのだろうか。
不安でもなければ期待でもない、何か別の感情が心の中に静かに宿っていた。
「…ふう、もう大丈夫だ。ごめん、行こうか」
そんなことを延々と考えていると、かつて体に巡っていた疲れが吹き飛んでいたことに気づく。
確かにそういった各々の問題を片付けるために今日という日を作ったのは間違いではないが、何よりも翠の気分転換が一番の目的なのだ。
ひたすら考えたところで良い結果が生まれるとも限らないし、今は翠のために時間を使おう。
「次はどこ行きたい?」
「私が先に決めたので、今度はPさんが決めて下さい」
翠からパンフレットを受け取って、アトラクションの一覧を眺める。
意外に翠はスリルに耐性があるからな……。
「よし、じゃあここに行くか」
せっかくだから、どれだけそういった物に強いのか見てみたい気もする。
「お化け屋敷ですね、わかりました」
明るい園内にも関わらずやたらおどろおどろしい装飾がある場所へ、俺達は行くことにした。
*
「はい、ポテトとハンバーガーな」
「ありがとうございます。こういう所で食べるのは嬉しくなりますよね」
楽しかったといえば、完全に嘘となる。
腕に残る彼女の柔らかいそれが、今もなお纏わりついていた。
お昼時。
園内のフードコートには同じ目的でやってきた来園者が多く駆けつけており、店内は勿論、寒いはずの屋外もごった返していた。
正午よりも早めに来た俺達が危うく外に放り出される位に盛っていた店内の小さなテーブルに座ると、翠は俺の顔を見て笑った。
どうにも、俺の座り方が老けているらしい。
――午前最後のアトラクションとして俺が選択したのはお化け屋敷である。
大人にもなると所詮作り物だとついつい斜に構えてしまうが、思いのほか内装や演出はよく出来ていたのだった。
何故このアトラクションを選んだかと言えば、今までのジェットコースターで精神的に劣勢に立たされていたから、せめて何かで一泡吹かせたいと思ったからだ。
年下の翠が楽しんでいるのに大人の俺がひぃひぃ言ってるのは、どう考えてもみっともないじゃないか。
……いや、その考え方自体がもはやみっともないのを通り越して情けないのだけども。
お化け屋敷では、翠は狭い通路を俺の少し後ろからゆっくりと付いてきていた。
おどろおどろしいサウンドと暗闇が彩るスリル的感覚を、彼女は少し強張らせながら歩いている。
ちらりと見える彼女は楽しさ半分、怖さ半分といった所だろうか。
表情も元気であるように見せかけて、暗闇の中でも少し眉が下がっていたような気がしていた。
普段そんな表情をあまり見せない彼女がこうした顔をするのを見れただけでも、ここに来た甲斐があったのかもしれない。
…退屈なことを言えば、豊かな表情はリポーターとしてもそこそこの才を見いだせそうだ。
喜ぶ顔も寂しそうな顔も、幸せそうな顔も落ち込む顔も、どれを切り取ってもそこはかとない綺麗さ、上品さがあるのだ。
そう考えてしまうのも、俺という特殊な立場だからなのだろうか。
一度昔の知り合いと会う機会でもあれば、翠について聞いてみてもいいかもしれない。
入り口から歩く俺達に待ち受ける様々な仕掛けを乗り越えて、何だか楽しむと言うよりも楽しませてもらった時間も、外への出口を以て終了…という時だった。
アトラクション側の人間としては、もうすぐ終わりという安心感を与えた所で最後のスリルを味わってもらおう、という魂胆なのだろう。
狭い廊下の一部分だけが暗幕でカモフラージュされていて、俺達が通り過ぎようとするタイミングで血の色に染まったミイラ男が大きな音とうめき声と共に襲いかかってきたのだ。
「うおわっ!?」
「ひゃあっ!?」
これに驚かない人は居ないだろう、と少し前を歩く俺が大きく後ろに仰け反って翠と共に驚きの声を上げたその刹那、腕に何か予想外の感触が押し込まれてきたのである。
だが目の前の驚きに比べれば全く強い衝撃ではないので、意識は前のミイラ男にだけ集中していた。
そんな俺達のあまりの驚きぶりにむしろあちらのほうが驚いたのかもしれない、演じきった後そそくさと元の場所へ立ち去るのを見つつも、俺の心臓の音は収まること無くしばらく大きく音を立てていた。
「相手の方が一枚上手だったな…」
やがてその場で安静を取り戻すと、暗がりの中俺は誤魔化すように翠に言う。
「…Pさんはあんな声も出すんですね、ふふ」
俺が驚いた時の声をからかう翠。
表情は暗くて見えなくとも、何となく感心しているのはわかる。
そんな彼女の声は、視界とは違って暗闇の中でもよく通るようで、恐怖を煽るサウンドの中でも耳に素直に入ってきた。
しかし、ここで俺は違和感に気づく。
…声がやけに近いのだ。
通常の距離感で聞く声の濃さではない。
明らかに近い距離で発せられているのである。
そして、加えて先程の掻き消された感触が思い出される。
恐怖がひと通り落ち着いてくると、あの時俺の腕に感じたよくわからないふんわりとした圧力を再び脳が認識したのだ。
嫌な予感と共にようやく現れた冷や汗が背中を下りつつ、翠が居た方向を振り向く。
「……どうして腕に抱きついているんだ?」
その感覚は的中していた。
左腕、丁度肘を包むように、彼女の体が強く触れていたのである。
「み、翠?」
この時冷静に指摘が出来たのは、恐らく先ほどの驚きがあったからか、あるいは驚きが感情発現の許容範囲を大幅に上回ったからだろうか。
「せめて、ここを出るまでは…いいですよね」
橙色の外灯と細切れの白い布が暗闇を照らす、昼夜が正反対となっているこの屋敷の中で、彼女の瞳は揺れるように煌めいていた。
後ろにも前にも、他の来園者は居ない。
出口への光が僅かに見えるこの場所から向こうまではどの位の距離があろうか。
目測で見ても、20歩に届くか届かないかの距離だった。
たったそれだけの空間を、彼女は二人だけの物として宣言したのである。
限りなく公共的な場所で生まれた、ほんの少しのプライベート。
それを腕に抱きつくという半ば恋人的行動によって証明したのだ。
…それは変化の証。
もしかすると、翠はこういった願望があったのかもしれない。
それ自体は、言うまでもなく大体の人間が当然持っている感情だ。
しかし、それを今行ったという結果が、良い事か、悪い事かは俺には判断が出来なかったのだった。
「…うん、美味しいです」
翠は小さな口で一生懸命ハンバーガーを齧っては、俺の緊張など露知らず、ゆっくりと咀嚼して味を堪能していた。
決して高級な食材を使っている訳ではないし、この値段の高さも施設特有のサービス料のによるものだ。
にも関わらず本当に美味しそうに食べる翠は一体何の味を楽しんでいるのだろうか。
俺の気持ちは一向に安寧の気配を見せない。
お化け屋敷を出た後、少し早めに昼食を取ろうと俺が提案したのも、今も尚その感触と彼女の綺麗な髪からくる爽やかな香りが皮膚を貫通して、心臓の鼓動を加速させているからだ。
「…全く、あの時の翠には驚かされたよ」
「あの時?」
ハンバーガーに上品という概念があるのかどうかは不明だが、それでも丁寧に食を進めている翠は首を傾げてこちらを見た。
「出口で…な?」
改めてその時のことについて翠に言うと、用意された紙のケースにハンバーガーを置いてから、やや恥ずかしそうに視線を下げた。
「勇気が要りましたけど……周りには誰にも居ませんでしたから」
出来るだけ長くやっていたかったんです、と翠は小さく微笑んで答える。
しかし、その表情は羞恥心と言うよりもどことなく充足感に似た何かが漂っていた。
「変わったなあ、君も」
出会った時の頃からすれば、今の翠の状態は全くと言っていい程の別人である。
まさか恋人的行動を殆ど知らなかった翠が、こうも積極的に動いてくるとは思いもしなかったのだ。
無論、嬉しくないはずがない。
立場を抜きにしてしまえば、好意を抱いてくれる相手がこんな可愛い女性だったら、昇天モノである。
一体どこでそういう方向にシフトしていったのやら、と一つ息を吐くと、翠は少し笑って、とんでも無いことを口にする。
「ゆかりさんに感謝しないといけませんね」
俺の耳を疑うが、彼女の声はフードコートの喧騒の中でも透き通ってよく聞こえているのだから聞き間違えではない。
すると、だ。
「……もしかして、ゆかりの入れ知恵か?」
「はい、教えて頂きました」
良き大人として俺は一度あの娘を叱ってやらなければいけない気がする。
そう言ってまるで何事もなかったかのように微笑む翠を見て、俺は再び息を吐く。
つまり、あの時俺の腕に抱きついてきたのは、ゆかりの戦略的アドバイスによるものだったということらしい。
いや、確かに翠の恋愛方面の知識・経験量から推測してもそういう行動にはおおよそたどり着かないのは俺がよく解っているのだから、ある意味主犯がゆかりであっても驚きはない。
ところで、大きな問題点が一つある。
それは。
「ゆかりは……俺達の事を知ってるのか?」
俺達の事、というのは何も存在という意味ではない。
翠が俺に対してどう思っていて、俺が翠にどう答えたかという事だ。
「はい…というよりも、私の方が好きとだけですが」
その一言で強く安堵感が感情を支配する。
よかった。担当アイドルに恋するプロデューサーなどと言いふらしていた訳ではなかったようだ。
……あながち嘘でもないのが悩ましい所であった。
何といえばいいのやら。
立場としては当然怒るべきなのだろうが、ゆかりならそんな秘密も守ってくれるから大丈夫だろう、とも思う。
アイドルが仕事上であろうとなかろうと異性として好きだという状況が危険なのに、具体的な対処をして来なかった俺に、危機感が足りなさすぎるのだろうか。
「話すのはいいけど……そういう話は危ないから無闇にしないようにな」
「…すみません」
こういう会話をしていると、翠を可哀想にも思う。
決して翠は周囲の環境が恋愛に盛んではなかったとは言え、一人の少女として恋愛にもそれなりに興味を持っていたはずだ。
であるにも関わらず、このように思想や行動に制限を掛けられるというのは精神的なストレスもかなり背負うことだろう。
背中を丸めて視線を落とし、あたかも落ち込んだような格好を取る翠を見て俺も焦ってしまう。
「ああ、いや、悪い訳じゃない。ただ、もし外部に漏れでもしたら大変なことになるから気をつけて、という意味で……って、俺に対しての事なのに俺が言うのも変な話か」
「…ふふ、確かにそうですね」
別に怒っているのではなく、単純に今後のスキャンダルの種が発芽するのを避けたいだけだ。
仮に俺以外の男性が好きだったとしたら、今の状態を話してから理論的に説得し、すぐにとは言わないが、徐々に霧散させるように命じていただろう。
しかし、なまじっかそれが俺に向いているので、そう簡単に無下にし辛いのであった。
…そう考えると、俺も男だったという訳だ。
「ですが、今までそんな話に入ったことがなかったから……Pさんの話をゆかりさんと出来るのが楽しいんです」
「本人の前でそういう事を言われると流石に恥ずかしいな…」
特に我慢すること無く翠はそう言ってのけた。
数カ月前までは色恋を知らなかった彼女も、今では口にできる程に成長しているらしい。
翠の恥ずかしいながらも自信を身に付けた赤い顔が、それを表していた。
「…ちなみに、どんなことを話してるんだ?」
そこまで言われると、本人である俺も段々と気になってくる。
本来なら俺が立ち入るべきではないエリアだと思うのだが、下手にアイドルにとってのタブーに触れかかっているのだ、俺が知ろうとする行動も決して非難されるような事ではないはずだ。
何より、この二人でオフに出かけるという行為が、プライベートに踏み込んでも許されるような雰囲気を増長していた。
「そんな大したことではないんです。ただ――」
それにあてられたのか、恥ずかしそうにしていた彼女も今まで抑圧されてきた物が反動で拡散していくように、こまめに区切りつつも話し始める。
Pさんはどんな事が好きなのでしょうか。
どんな女性が好みなのでしょうか。
聞いているこちらのほうが恥ずかしくなってくるような事を俺に言う。
「ちょっとした仕草とか普段の仕事をする姿とか、Pさんに関わる色んな事を見て、知って、ゆかりさんから色々アドバイスをもらっていたんです」
…やがて言い終えて口を閉じると、振り切ったように俺を直視する。
その顔は上気していながらも、とても幸せそうだった。
――ああ、なんだ。
心の中で、喉に絡まっていた灰色の何かが胃に落ちた。
ちゃんと信頼してくれているのだ。
本当に、俺のことを信用してくれていたのだ。
本人を目の前にしてこんなことが言えるなんて、信頼以外の何物でもないではないか。
心の中では俺を信用していないとか表面上とか、明確な所在もなく色々と疑ってしまったが、彼女は純粋な目で、真っ直ぐに俺を見てくれていたのだ。
それを知った時、彼女に対して疑心暗鬼ともとれるような様々な憶測をしていた俺が途端に恥ずかしくなった。
「…気分転換だとかデートだとか、体の良い理由を挙げてここにきたけどさ。本当はそういう目的じゃなかったんだよ」
「え?」
フードコート内は、既に昼食のピークを過ぎて喧騒が失われつつある。
ただでさえ広いこの空間が余計に広く感じられ、それだけ俺達の空気というものが周囲と隔離されているような錯覚すら覚えた。
ジュースの入ったカップの氷が崩れる音を鳴らす。
ある意味で残酷な俺の言葉に、翠は黙っているしかないようだった。
障壁が瓦解したかのように、ここまでの経緯が次々と俺の口から出てくる。
その度に翠の表情が暗くなっていくのが話しながらでも読み取れた。
言い訳染みた理由だ。
本人の願いや思惑を全て踏みにじるような言葉達は、いとも容易く彼女の心に傷をつけていく。
それが癒えるのか、ずっと刻まれ続けるのかは俺にはもう判断できない。
ある意味、懺悔であった。
人と人が出会えば、必ず衝突する。
それ自体はどこの世界の誰にでも起こりうる話で、俺もここまで心を痛めたりはしない。
「つい最近の話だけど……倒れただろ、翠」
ただ、今回は違う。
翠の抱えている純白の感情を、仕事に蝕まれた汚らわしい意識によって蹂躙してしまったのだ。
低次元で見てしまえば単に目的が違っただけの事だが、こと彼女の立ち位置からすれば恐らく許されるものではない。
「……っ」
翠が俯き、小さく唇を噛んだ。
それは先ほどあった感情とは全く正反対の物。
ここに来てからどれだけ長い時間が経ったのだろう。
密度ある濃い時間は、相対的感覚を失わせるのに十分だった。
そして、俺は言わなければならない。
それが俺に出来る彼女への償いなのだ。
「それで、いくら翠が俺達に責任が無いと言っても、俺は思ってしまうんだ――」
翠は、俺の事を本当は信頼していなかったんじゃなかったのか?
――そう告げた瞬間、突如机が衝撃を受け、軋むような悲鳴を上げた。
「い……いい加減にして下さいっ!」
彼女は机を叩くと、酷く憤った顔で立ち上がって俺を睨んだ。
かつて見たことのない、未知の翠の姿だった。
その瞳は、微かに揺れていた。
外灯や影ではない、純粋な神秘の水が、そっと瞳に溜まり始めていた。
「み……翠?」
あまりに突然な翠の行動に、俺は椅子の木製の背もたれに体重を思い切り預けてのけぞってしまう。
周囲に居たもう数少ない他の来園者の中には、机を叩く声と翠の声に振り向く人がいくつか見られたが、我関せず、せっかくの楽しい時間を壊したくないとそそくさと去ってしまう。
一体何が起こった?
突然舞い込んだ事態に理解が追いつかず、ただ何も言えず彼女を呆然と見ているだけの俺に、翠は溜め込んだ物を吐き出すように続ける。
「…私、前にも言いました。あなたのことは本当に信頼しています、と」
確かに言った。
俺は、それが翠自身の歩みを正当化させるための暗示だと愚かにも疑ってしまった。
「信頼しているから、今の私が居るんです。……信頼しているから、あなたのことが――」
句読点が到達する前に翠は強引に言葉を切るが、俺にはしっかりと届いていた。
きっと、好き、と言いたかったのだろう。
ここが公共の場であることが、それを躊躇わせたのだ。
変装をして、現状では他の来園者やスタッフにバレては居ない。
しかし、今の状態ではそうなる可能性もゼロではないのだ。
それを瞬時に判断して言葉を飲み込んだ翠は、決して感情的ではなく、むしろ驚く程に冷静であった。
彼女は続ける。
「…教えてください、Pさん。どうすれば、私を信頼してくれるんでしょうか?」
俺の背中に誰かが氷を大量に投げ込んで、心が強く軋み始める。
数十秒、お互いが見つめ合ったまま時間が過ぎる。
フードコートの店内を響き渡らせる場違いな明るいサウンドが、より一層俺達を隔離させた。
彼女は俺を信頼してくれていた。
だから、辛そうな表情をして、怒りを露わにしているのだ。
「……翠が倒れたのは、疲れが抜け切らないまま更に練習をしてしまったせいだ。それを俺に言わなかったのはどうしてなんだ?」
だったら、何故俺に体調の事を申告しなかった?
元々俺がそう考えてしまうようになったのも、体調不良を誰にも言わず、我慢しようとした事が原因なのだ。
「もしもちゃんと俺に言ってくれていたら、翠が倒れることもなかったんだよ。…だから、本当は俺の事を信頼していないんじゃないかって思ってしまったんだ」
「それは……その」
もはや指摘するにおける障壁はどこにもない。
包み隠さず訊ねると、彼女はさっきの勢いなどとうに消え、言い淀んでしまった。
俺を見つめていた瞳も下を向き、再び黙りこくる。
報告しなかったのには、どんな理由があったのだろうか。
一旦口をつぐんだ翠が再び開くのは、コマ送りをするようにゆっくりと元の椅子に座ってからだった。
「……怖かったんです。あなたに嫌われるのが」
再三の経験。
俺はまたしても、耳を疑った。
翠に言ってやりたい反論も、無理やりねじ伏せて続きを待つ。
「私は、本当は何をするにも怖くて、Pさんが居なければアイドルなんてできなくて」
彼女に纏わりつく永遠の闇は、不安であった。
それ自体は、何回か本人の口から聞いている。
「でも、Pさんが期待して応援してくれるから、今まで頑張ってこれたんです」
その度に、俺が居たから頑張れた、期待してくれているから頑張れた、と彼女はくり返し俺に伝える。
それがどういう意味を持つのか。
自分で結論を導く前に、翠は素直な感情を…本当の感情を打ち明けた。
「ずっと応援してくれているPさんを私が頼って負担を掛けてしまったら……失望されると、思ったんです」
「そんな訳が――」
「わかっているんです、そんなことは無いって!」
咄嗟に出てきた俺の反論を、翠は潰した。
翠の中で、大いなる矛盾がひしめき合っていたのだ。
そんなはずはないと確信しているのは、言葉通り俺に対する確固たる信頼があったからこそだ。
しかし、その裏でもしかしたら失望されるかもしれないという不安から、二つ対なる感情がせめぎあっていたのである。
「それでも……怖いんです。優しいPさんが私に愛想を尽かすのが」
始終俯いたまま、彼女は口を閉ざす。
――翠の不安は、そもそもの原因として俺の評価のし過ぎであった。
俺が言っては説得力がないのだろうが、翠にとって、好きな相手に失望されることが一番の最悪な未来なのかもしれない。
すると、俺の頭の中にふと昔の思考が滑りこんできた。
『もしも馬鹿げた妄想を述べさせてもらえるのなら――』。
みっともない妄想だとすぐさま抹消したその推測は、不幸にも的中していたのだ。
幼い恋心は、唯一無二である自身の体よりも実像のないそれを恐怖したのである。
「…ごめんな」
ああ、なんて無様な擦れ違いなのだろう。
全ては俺の責任だった。
ずっと、翠のことを芯のある強い人間だと思っていた。
……それが、余計に彼女に架空のプレッシャーを与えてしまっていたのだ。
そして、翠の思いに真正面からあたらなかった事が、悲痛な矛盾を生み出すきっかけとなってしまったのだった。
沈黙を続ける彼女を見て、俺は続ける。
「翠が初日からずっと頑張って練習して、毎日見違えるように力をつけてるから、俺は無意識の内に期待をかけすぎていたみたいだ」
必要以上の期待を受けて、必要以上の重圧を背負って。
背中よりもずっと大きな物を背負い続けて。
「…いえ、いいんです。あなたに期待されて、嬉しくないはずがありませんから」
そんな俺の言葉に、翠は小さな声で反論した。
精一杯のフォローのつもりだろうが、その気持ちがより一層俺を惨めにさせた。
「俺は翠と出会えて本当に幸せで、嬉しくて……舞い上がってたのかもしれない」
疑いようのない事実だ。
水野翠という人間をスカウトしてから、熱心に練習をする光景を見た時は思わず彼女をスカウトできた俺を自画自賛をしてしまう程に喜んでいた。
それは、事務所の運命を託す人間としての嬉しさだ。
だが今は違う。
純粋に一人の人間としての彼女と出会えて喜んでいる自分が徐々に生まれてきたのだ。
どちらかと言えば、確実にそれは悪い感情だ。
あくまで仕事のパートナーなのだから、そういった気持ちを持ち込むべきではないというのが、業界人としての義務なのである。
しかし、と俺は常識に反論する。
些細な偶然で出会えた彼女が、間違った判断とはいえ身を挺してまで俺のために頑張ってくれていたのだ。
――そんな彼女を、人として愛おしく思わないはずがないじゃないか!
「翠のためと言っておきながら、関係ない、俺の個人的な目的で誘って本当にごめん」
ゆっくりと、俺は頭を下げる。
申し訳なさしかなかった。
そんな彼女を間近で見ておいて、どの口が『信頼してくれていない』などとほざけるのだろうか。
感情を見透かしたのか、翠は顔を上げ溜め込んだ瞳の水を手で拭ってから小さく笑う。
「例え関係のない目的だとしても、私は今日Pさんと遊べて幸せでしたから……気にしないで下さい」
結局は、俺の考えすぎだった。
まだまだ新人であるが故の、無意味な不安が行き過ぎていただけなのだ。
もしも彼女の本意に気付いて受け止めてやれていたのなら、倒れることもなかったに違いない。
今まで俺は、翠を導く立場だとずっと考えていた。
しかし、本当はそんな偉大な存在ではない。
俺は一人の少女をシンデレラにする格好いい魔法使いなどではなく、宮殿までの道をシンデレラの横で共に歩く、物語に描写されない、頼りない従者だったのだ。
「ありがとう、翠」
何度間違えば気が済むのだろうか。
翠の担当プロデューサーが俺でなければ、もっと早く彼女をよりよい存在に仕立て上げられたのかもしれない。
だが、所詮それはイフの世界である。
数奇な導きによって同じ場所に会してしまったのが俺なのだから、俺なりのやり方で、俺なりの全力で、彼女と共に歩いて行きたい。
「だからこそ君に言う。喜びも、悲しみも、不安も、怒りも、全ての感情を俺にぶつけて欲しい、晒して欲しい。……例えそれが欠点であろうとも、俺が君を好きであることには変わらないし、もっと翠を好きになれるから」
痛みが無かった訳ではない。
彼女の涙という形で、少なからず傷つけてしまったのは紛れもない事実である。
しかし、それも決して悪い痛みではないようにも思える。
何故ならば、そのおかげで翠の心の奥底が露わになり、俺の心の奥底も晒せたからだ。
「好き……」
翠は小さく呟いた。
一体彼女と出会って何回その言葉を頭に浮かべたのだろう、全く想像もできないぐらいに、好意というやっかいな存在と相対してきたような気がする。
だがそれも今日で終わりとなるだろう。
お互いの視線が重なり合った時、生まれたのは軋みではなく癒合。
正真正銘、翠のパートナーとして、俺を見てくれているのだと確信した。
あれだけ物々しかった雰囲気が、一瞬にして静かになる。
周囲に見える人物は数えるほどにしか居ない。
今から来る人は、少し遅目の昼食かデザート類を間食が目的だろう。
各々が手に持っているトレイには、透明なジュースカップや甘い香りを漂わせるスイーツが載せられていた。
「…初めて言ってくれましたね」
「初めて?」
この状況から次の会話をどう切り出そうかと言葉に迷っていると、翠はゆっくりと己の両手を重ねて、こちらに微笑みかけた。
「前に聞いた時は……そうでした、スカウトだとか言って濁されてしまいましたから」
「……ああ、そういうことか」
質問の前後が繋がり、意図を合わせるように相槌を打つ。
実時間では数日前の出来事でも、俺が覚えている過去の距離とは遥かにかけ離れて遠い昔のような錯覚をする。
少女・翠として俺の家に行きたいと言ったあの日、思いを告げた彼女に対しての俺の返答の言葉であった。
「…言い辛かったんだよ」
「わかってます」
当時の心境としては、担当アイドルに対して好きという言葉を用いることが不適切であるように思えて、表現を別の物に変える必要性に駆られたのである。
無論、今でも尚常識の範疇として誤解されるようなそういった表現は避けるべきという概念は持ち合わせている。
ただ、翠と顔を合わせる度、翠と会話する度、翠の頭を撫でる度、ますますのめりこむように惚れ込んでいっている自分が居たのだった。
「…出来れば忘れてくれると嬉しいんだけど」
「ふふ、忘れませんよ」
いたずらっぽく彼女は笑う。
その笑顔がまたもや少女的で、水を得た魚のような、鯉が泳ぐが如し快活さが表情に表れていた。
「何だか本当に気分転換ができた感じがします」
一般的に昼食と言われる時間もとっくに過ぎ去り、既に二人ともトレイの上の食べ物は失くなっていた。
ごちそうさまでした、と手を合わせて呟いた後、翠は首を傾げて笑みを見せる。
俺の考えていた気分転換と今彼女が言った気分転換とでは意味合いがかなり違うのだが、ある種の修羅場を越えたのだから、もはやそんな些細な違いなど気にならなくなっていた。
「色々言ってしまったけど、改めてごめん。俺も気をつけるよ」
わざとらしく――もう過ぎたことだ、と大げさに頭を下げる。
普段であれば、それを真に受けて本気で制止しようとする翠も、ふふ、と冗談と受け取ってくれていた。
ある意味、これも信頼なのだろう。
冗談が通じる仲というのは一種の指標である、と俺は感じた。
「もう謝るのは終わりにしましょう。お互い様、ですから」
あれだけ怒りを露わにしていた翠も、すっかり落ち着いてそう答える。
謝ろうとすればキリが無い。
それは俺が麗さんに対して言えることでもあるし、俺と翠、両方に対しても言えることだった。
「…はは、そうだな」
これ以上深くは掘り下げないし、掘り下げる必要がない。
紆余曲折を経て信頼を勝ち取れたのだから、今度こそこれを信頼したいのだ。
「――あっ」
頭を冷やすように、底に溜まり始めていた溶けた水とジュースの混ざった薄いブレンドをストローで吸っていると、翠は不意に思い出したように呟く。
「どうかしたか?」
何か言うのを忘れていた事でも思い出したのか、天井を見上げて少し考えるような仕草をする。
翠が俺の仕草を見てくれているというのなら、俺も翠の仕草を覚えてもいいのかもしれない。
それでからかってやったら、翠はどんな表情をするのだろう。
普段なら絶対に考えないような事もすんなりとシミュレートできる程に、今の俺の気持ちは羽のように軽かった。
彼女は重ねた手を解くと膝の上に置いて、真っ直ぐな目で俺を見る。
「…もしもあなたに申し訳なさがあるというのなら、一つお願いをしてもいいですか?」
ハンバーガーを詰め込んでいた箱を畳んでナプキン類と一緒に纏めているあたり、真面目と言うよりも綺麗好きか、整頓好きの気があるのだろう。
トレイの上をスタッフも喜びそうな位に整理にした翠は、俺にそう訊ねる。
何だか改まったような口ぶりだな、と俺は素朴に思った。
少女としてのお願いなら、これまでにも幾度と無く受けている。
これが、今度はアイドルとしても積極的に意見を言ってくれるに違いない。
そんな未来への期待と過去からの自信を胸に秘めて、耳に入れた翠の言葉は、おおよそ考えうる限り、素直で、純粋な願いだった。
――今日、私とあなたとしての最高の思い出を、私と一緒に作って下さい。
下衆な企みが全て明るみに出て見事完遂された今、それを行う上での障害は何もない。
今こそ全力で翠に付き合う時だ。
おう、という短い返事と共に、何気なく差し出した俺の拳は、テーブルの中心で彼女のそれと触れ、通電したかのようにお互い笑っていた。
*
「はあ……楽しかったですね」
やけに甲高い音を挙げてぶるぶると震わせながら、車は動いていく。
冬ともなれば、日の落ちが早いのは誰でも知っている。
まだ一般的な晩御飯の時刻でないにも関わらず、夜の街灯が点き始めるような、そんな夕方に俺達は自宅への道を走り出していた。
「気に入ってくれたか、それ」
車内には夕方のラジオが流れている。
高速道路を降りて、翠の現寝泊まり先であるちひろさんの家に向かって下道を走りだす最中、パーソナリティが軽快にトークを繰り広げられていた。
助手席に目をやれば、帽子を脱いだ翠がお土産として買ったレジャーランドのマスコットらしい独特なセンスを持つキーホルダーを手でぶら下げて遊んでいる。
そして翠の肌白い首には、行く時にはなかった小さなネックレスが付けられていた。
銀色が夕日に照らされて、彼女の持つ白い肌を艶やかに演出しているそれは、俺が選択した物である。
「ずっと付けることにしますね」
「いや、そこまでやらなくてもいいからな」
横目で俺を見て翠は笑う。
元々以前まではチケットが誕生日プレゼントという名目にしていたのだが、前日ちひろさんとの会話の中で、それとは別にプレゼントを渡した方がいいという結論が出たために彼女に選んでもらったのだ。
丁度高速道路に入る前、視界の端に大型のショッピングモールが映ったので、そのまま車をそちらへ向かわせたのである。
そういった類の事は一切伝えていなかったため、今日という日とレジャーランドの土産屋で買った物が誕生日プレゼントだとすっかり思い込んでいた翠は、その事を知ると甚く喜んでくれたのであった。
「これからは……どんな事でも、私の全てをPさんに見せたいと思います」
ラジオから流れる音は、トークから昔に流行した懐かしい曲に移り変わっていた。
きっと番組内のコーナーなのだろう、あまり良いとは言えない音質ながらも微かな懐かしさを思い出させてくれた。
「ああ、勿論言いたくない事なら言う必要はないからな。ただ、言いたいことがあったら俺に遠慮しなくていい、という意味だ」
シートベルトを着用し、翠は綺麗な姿勢で粗末な助手席に座る。
タイヤからの衝撃はどこにも吸収されず、直接的に俺達の体を揺らしていた。
社用車で、ただの移動用の手段として設けられたものなので快適さを求めてはいけないのである。
「わかっています。それでもこうしなければ、きっとあなたはまた私を疑ってしまいますから」
ふふ、と車内にくすりとした小さな声が漂う。
最近…いや、今日のあの時を乗り越えてから、翠との距離感がぐっと近づいたような気がする。
物理的な意味ではなく、人間的な意味で、だ。
以前はこうした冗談を言うような感じではなかったはずだが……これも、彼女の本性なのだろうか?
「勘弁してくれ…」
そう言って、ひとつ嘆息する。
やけに突っかかってくる翠の姿を見ていると、何だか弱みを握られたような気分になった俺であった。
*
――今日は、本当にありがとうございました。
ちひろさんの家の前、塀に沿って車を横付けする。
抱えるような荷物は何も無いのでそのまま翠と家の玄関まで歩くと、彼女は不意に振り返って礼を言った。
どれだけ翠のことを探っても関わっても、結局丁寧さという面では不変であるらしい。
可愛らしい笑顔を見せながらも本意の声は、暗がりの中でもよく聞こえた。
「俺も楽しかったよ。よかったら、また行こう」
「はい!」
大層嬉しそうに頷くと、それでは、と家に入ろうとする翠を俺は制止した。
「…何か忘れ物でしょうか?」
彼女にとっては今日はもう終わりで、解散して後はいつも通りの夜を過ごすと思っているようだ。
「いや、そうじゃないけどね」
止められた訳もわからず俺に訊ねるが、俺はあえて答えをはぐらかす。
では一体、と続けようとする翠を遮るように、俺は続けた。
「誰も、今日はここで終わりだなんて言ってないぞ?」
「え?」
ものの見事に巨大な疑問符を浮かべてくれる。
ちひろさんの家族を含めて準備する側にとっては、これ程嬉しい表情はない。
驚きが喜びに変わる瞬間こそが、サプライズの醍醐味だからだ。
「まあまあ、行けばわかるさ」
「お、押さないで下さいってば」
背後から翠の肩を掴むと、ぐいぐいと家の扉の方へ押してやる。
一応示し合わせた時刻は20時としているが、少し早くなってしまったために高速道路のサービスエリアにて予め連絡している。
ちひろさんにはそれに応じて帰宅時間を早めてくれたようで、準備も既に終わっている頃だろう。
見送るだけなのにどうして俺も着いてきているのだろう、という疑問を恐らく浮かべているのだろう。
一瞬怪訝な顔をしつつも、命令に従ってそのまま家に入った。
玄関は、電気が付けられただけの寂しい雰囲気だった。
靴も全て収納されており、どうやら今日のために綺麗に掃除しているようである。
何度も繰り返した問いかけに俺が答えない事で諦めたのか、先程まで漂わせていた疑問符を解消させ、抵抗すること無く素直に俺の後ろを歩き始めた。
以前にも似たような事があったが、どうも俺やちひろさんはそういう演出が好きらしい。
子供っぽいかなと思いながらも、静かな足取りで翠の前を歩く。
行き着く先はリビングであった。
廊下とリビングを繋ぐ扉は、すりガラスが埋め込まれた木製の扉で、アンティーク調のおしとやかな雰囲気を持っていた。
しかし、今日だけは明るい空気にさせてもらおう、と扉の前に立ち止まると、その場を翠に譲る。
「開けてみてごらん」
「…わかりました」
懐疑は抜けないものの、俺の言う事なら、とでも言いたげた表情で翠はこちらを見た。
信じているがやっぱり怪しい、そんな妙な緊張感が彼女を少し強張らせていたので、大丈夫だよ、と笑ってみせると、決心がついたようで、一つ頷いてからドアノブに手をかける。
かちり、とドアを固定する部分が開放されると、小さな軋みと共に扉が開いていく。
明かりの点いたリビングが、段々と視界に広がっていく。
そして、視線が真正面を捉えたその刹那。
――けたたましい音と共に、翠に色鮮やかなラインが覆い被された。
「ひぁ!?」
この音は、まさしく祝砲。
部屋の中に居たちひろさんとその両親が、絶妙なタイミングで翠にクラッカーを放ったのだ。
まさかの大音量に思わず手を引っ込め、口を大きく開けながら翠は目を白黒させた。
「ち、ちひろさん…?」
「ふふ、驚いた?」
まさにしてやったり、というような笑顔である。
これだけリアクションをしてくれたら、準備した方も満足というものだろう。
…俺も少し驚いたのは秘密にしておく。
しかし、主役はちひろさんではなく翠だ。
急展開にまだ状況が掴めていないらしい翠の手がちひろさんによって引かれ、そのままされるがままに背後のテーブルへと案内される。
「これは……もしかして、私の――」
食卓に並べられた食べ物を見て、ようやく事態が飲み込めたようだ。
信じられない、といった風に感嘆の声を上げて、再度俺の顔を見た。
「今日はまだ終わってない。そう言っただろ?」
「わ、私の……ために」
そう答えた瞬間、彼女の固まっていた表情は次第に融解していく。
「翠ちゃんもお腹空いたでしょう? 早速食べましょうよ!」
ちひろさんの母親が感傷に浸る翠を牽引して合図をした。
「せーの――」
思いに耽るのも構わないが、それはいつだってできる。
なら、今しかできない特別な時間を優先すべきだ。
お誕生日おめでとう、翠。
微かな火薬の香りが残るこの部屋で、甘美な魔法をかけてから、俺達は特別な食事を楽しんだのだった。
*
「今回の監督不行き届き、誠に申し訳ありませんでした」
久方ぶりの愛知で、翠の母親に会った俺は真っ先に頭を下げた。
こうしなければならない事情といえば、言うまでもなく例の件である。
「なるほど、そんな事が……」
お菓子が美味しくなる時間帯、父親の方は現在仕事で出かけており、在宅しておられるのは母親だけであった。
休日にすれば、という話は勿論あったが、せっかく戻るのだから翠にはフェスの宣伝も兼ねて学校に出席してもらう事にしたのだ。
無論、以前から何度か出席はしているものの、この数日の間に合同フェスの参加メンバーがテレビにて発表されて公式的に宣伝が可能になったので、翠のメンタル面での休息も併せて丁度いい機会に、という事であった。
そして俺は、地元での活動に際しご縁があった方々に一年のお礼とイベントの告知ポスターの配布活動を行なったのである。
地元の商店街の方々やラジオ局、許可を得て学校にもいくつか貼ってもらえるということで、業者に頼んでダンボール一杯に印刷してもらったポスターはいとも簡単に消えてしまった事からも、翠の知名度の上昇を肌で感じたのであった。
また、今回愛知に戻ったのには別の大きな理由がある。
それは両親への謝罪だ。
大事な娘さんを預かる事において、何らかの障害を与えてしまったことに関しては弁明の余地はない。
当然隠し通そうと思えば通すことは可能だが、翠の両親に嘘をつくということは翠に嘘をつくようなものである。
加えて、いずれふとした拍子に相手に気付かれて要らぬ懸念を抱かれる事だって十分にある。
両親が怒っても致し方ない、とせめて気持ちだけは精一杯込めて謝ることにしたのであった。
倒れた時点で両親へすぐに連絡をしなかったのは、無駄に不安を煽るよりも、無事を確認して姿を見せてから謝罪した方がいいと判断したからだ。
…後ろめたい気分、というものもが少なからずあったのだけども。
「…翠は、アイドルについてどう言っていましたか?」
母親は静かに、そして小さく切り出す。
ひとまず顔を上げると、神妙な面持ちの母親が居た。
恐らく、倒れた上で俺達の事をどう考えたのか、と訊ねたのだろう。
彼女に対しての回答を、出来る限り正確に伝えるために瞬間的に考えて口にする。
「自分のせいだ、と言って、周りを誰も責めませんでした。完治して練習を再開した後も、以前と変わらず今度のイベントに向けて熱心に練習をしております」
私どもも細心の注意を払って監督しております、という一言を付け加えるのを忘れない。
「なら私も安心です。これからも翠をよろしくお願いします」
「……え?」
仕事のために偽装していた目が、彼女の一言で剥がれ落ちる。
実の娘が遠い所で倒れたというのに、憤ることも声を荒げることもなく冷静に一つ頭を下げたのだ。
父親でもいれば殴られることも覚悟していたのだが、たやすく彼女は俺の予想を外してしまった。
「……失礼ですが、心配しないのですか?」
お前が言う資格などないだろう、と心の中で自嘲する。
しかし、どうにも気になってしまうのだ。
翠がああいった殊勝な性格になってしまったのは、もしかしたら両親の教育によるものだったのではないかという推測が立ってしまう。
「心配はしていません。あの子を今日見ても元気な目をしていましたし、何より翠の信じた人なら不安に思うこともないですから」
母親は、特に悩む様子もなく堂々と俺に答えた。
「翠が倒れちゃった時、あなたはとても心配して下さったのでしょう? プロデューサーさんの瞳から、翠を大事に思う心がよく見えます」
不思議な事を言うものだ。
いわゆる、翠が俺を信じている限りは私達もあなたを信じる、という事だろう。
「…ありがとうございます」
それにしても、俺の目からはそんな香りが漂っているのだろうか。
暗にわかりやすい顔と言われているのかどうかはさておき、本意であることは確かだ。
母親にそれを理解してもらえて本当に嬉しい限りである。
「――それでですね。もしよろしければ、今度のイベントにご両親も見に行きませんか?」
とりあえず絶対に話すべき内容を終えて一安心してから、俺は改めて別の用件を持ち出した。
イベントとは当然合同フェスである。
本来であればかなりの人気を誇り入手困難な合同フェスのチケットも、関係者枠と言う事で一応入手は可能なのだった。
母親も入手は難しいのでは、という質問をしたのでチケットに関して詳しい説明をすると、行きたいという希望を明確に打ち明けてくれた。
「わかりました。お父様もご希望でございましたら、今日中に私の携帯電話にご連絡下さい。そこまでの移動も含め、こちらで手配致します」
「ええ、そこまでして頂かなくても…」
母親は両手を振って、遠慮がちに拒否の姿勢を表した。
しかし、大事な娘をアイドルとして雇わせてもらっているのだ、これくらいの負担でも少ないぐらいだ。
「翠さんを私どもに任せて頂いた内のささやかなお礼です。どうぞ遠慮無くお受取り下さい」
遠慮することはないのだ、と重ねて言うと、申し訳なさを顔に出して頷いた。
何と言うか、翠は母親を見て育ってきたのではないだろうか。
他人に迷惑を掛けまいとする姿勢は素晴らしいとは思うものの、それでは損をすることも多かろうに、と心の中で不意に呟く俺だった。
「それでは、私はこれからまた仕事に参りますので失礼します」
出来るのであれば父親にも面と向かって謝罪すべきではあるのだが、母親はそれをしなくても構わないと言ったのだった。
両親の思うことは同じ、という意味だろうか。
特に何か別の思惑があるという雰囲気もないので、相手の提案を素直に受け入れることにした。
「わざわざ報告してくれてありがとうございました。当日、楽しみにしてますね」
玄関口で別れの挨拶をすると、丁寧に腰を折った。
先程はもしかしたら、というような事を思っていたが、高校生らしからぬ判断力や謙虚さといった特性は両親の教育ではなく、ある意味で親を見て育った結果と言えるだろう。
親と子はよく似るもの、年を経ても未だ美しい母親は、きっと高校生の頃は翠のように可愛らしかったに違いない。
「はい、こちらこそありがとうございました。またお会いできるのを楽しみにしています」
そう言ってこの場を後にする。
今日の愛知は快晴とは言いがたく、雨こそ降らないものの太陽光を遮られては気温もなかなか上がらない。
スーツの上から冬物のコートをしっかりと羽織ると、少しばかり背を丸めて俺は今度は翠のいる学校へと踵を向けたのであった。
*
「どうだ、慣れ親しんだ学校の雰囲気は」
翠が在籍する学校は、私立の名に恥じない程の清潔さを誇っていて、俺と翠が廊下を歩く最中も清掃員があちらこちらで業務に励んでいた。
「当たり前ですけど、変わってなくて安心しましたね」
隣を歩く俺を見上げて、翠は笑う。
ここ最近はずっと練習漬けで、そして休養する間もちひろさんの家で過ごしていたのだから、ゆっくりと学校の空気を吸えていないのは当然である。
彼女の表情もどこか満ち足りて嬉しそうで、やはり三年間通ってきた校舎というものはいずれにせよ愛着の沸くものなのだな、と心の中で頷いた。
「……あ、さっそく貼られているのか」
放課後のこの時間、どこに行くわけでもなく校舎を散歩していると、ふと視線があるポスターにいった。
「自分の姿をこうして見るのは…何だか恥ずかしいですね、ふふ」
廊下の途中には、学校からの告知や部活動、委員会の活動連絡などが貼られた掲示板が幾つか点在している。
そこに、でかでかとカラフルな色合いでアイドル・水野翠が合同フェスに参加する旨のポスターが掲示されているのだ。
「これからは街中に翠のポスターが貼られるんだからな、今のうちに慣れておけよ」
「もう、わかってますよっ」
くすくすとからかうと、わかりやすく翠は頬を膨らませた。
今はあくまで仕事としての接触ではあるが、彼女の制服を着た私的な一面はそれはそれで面白いものがあった。
「実は、朝に集会があったんです」
その言葉を聞いた時、何とも言えない懐かしさが己の身に湧き上がった。
集会。
日本の学生であれば誰もが否応にも参加を強制される全校集会である。
確か俺が学生の時も何の価値も見出だせないような話を壇上でされているのを聞き流していたっけな。
それすらも翠は全て傾聴しているのだと思うと、それだけで尊敬に値してしまう。
「そこで私の事を取り上げてくださって……アドリブでしたけど、何とかできました」
「…そんな話はしてないんだけどな」
学校側なりのニクい演出、とでも言うつもりなのだろうか。
業界人として一言述べさせてもらえば、普通は事前に説明しておくべきである。
そうでなくとも、プロデューサーたる俺には許可をとっておくべきだろう。
翠の所属がそういったやり方に嫌悪感を示す事務所であったなら、何らかの問題に発展しているに違いない。
決して学校も俺達を下に見ていた訳ではない。
ただ朝の職員会議で突発的にわが校の生徒を応援してあげよう、という提案が出ただけの話だろう。
まあ、宣伝の場を設けてくれるのは願ってもみないことなのでいざこざは置いておくことにした。
「みんなの反応はどうだった?」
ポスターを眺めている翠に訊ねると、少し困った風な笑みを見せる。
「大きな拍手を頂いたり、ある人は声援を送ってくれたりしましたね。…その子は先生に怒られてましたけど」
恐らく学園祭の時も聞きに来てくれた翠の友達なのだろう。
何度か俺も接触しているが、容易に彼女の姿が想像できた。
「ああ、そうだ。この後弓道部に顔を出す予定なんですが、よかったらPさんも一緒に行きませんか?」
元々高校にまで来たのは翠の様子と学内の生徒の評判をいくつか知りたかったというだけで、明確な理由はない。
翠はどちらかといえば休息的な意味合いが強く、決して仕事と評される名義で訪れてはいないのだ。
なので、彼女が今日の放課後を友だちと久しぶりに出かけるなり遊ぶなりして時間を消費するのだと思っていたら、翠はそれを弓道に使うと言ってのけたのである。
残念ながらこちらに居られるのはおよそ一日だけで、今日の夜には俺が、そして翌日には翠も東京に行かなければならない。
にも関わらず弓道を選択するあたり、やはり俺とは根本的に違うのだな、とついつい苦笑してしまう。
もしも仮に俺が翠の立場であったとしたら、迷わず家で惰眠をむさぼるか、友だちとどこかへ出かけているのだから。
「翠の弓道着姿は久しぶりだな。勿論行くよ」
当然この日は学校に行く以外では完全に自由時間となっている。
いかなる選択肢であろうと俺にそれを咎める理由は無いし、むしろまた見てみたいという希望さえあった。
「ふふ、ありがとうございます。では行きましょうか」
にこりと笑ってから、翠と共に歩き出す。
勉強もスポーツもそうだが、間が空けばそれだけ実力というものは落ちていく。
彼女からすれば、昔からやって来たものだからそうそうブランクというものは感じさせないだろう、楽しみだという表情は自信をそれとなく呼応させていた。
いつかはアイドルの仕事も今よりずっと慣れて、手つきも朝飯前になるのかもしれない。
……そう考えると、翠の今の初々しさの残る表情が見れなくなるのではないか,
と少し寂しくなる俺だった。
*
「アイドル効果、ってやつか」
顧問に己自身の紹介といくつかの話をすると、例外的に来客用のパイプ椅子を用意してくれた。
基本的に座るのは正座である道場では、正座の苦手な俺は比較的居辛い場所である。
なので、顧問に最大限の感謝をしながら、遠くにある的の前に立ってじっと見つめる翠の姿を眺めていた。
弓道場。
ほかの武道場と同様、弓道部員だけが使用出来る特別な施設。
俺はここで、静かに翠の弓を引く姿を見て一層惚れ込んだ。
ただ、今はそんなかつての弓道場とは全く姿が変わっていて、弓道場の扉にはいくつかの生徒が駆けつけていたのであった。
無論、生徒たちのお目当てはアイドルの水野翠だ。
もしも翠がアイドルでなければ一生縁の無かっただろう生徒も、この時だけは弓道という存在に深く入れ込んでいた。
しかし、翠はその様子にも全く動じていない。
翠は、ずっと昔…それでも一年以内の話ではあるが、その時と同じく、弓を静かに、ゆったりとした動きで引いていた。
これも、弓道をやって来たが故の効果なのだろう。
仮に弓を引いているのが俺であったら、恐らく変な視線がプレッシャーとなり、まともに集中できなかったに違いない。
そう考えると、俺って何となく子供っぽいのだろうか、と少し心配になってしまう。
まあ、曲がりなりにもそんな翠に尊敬されているのだから俺だって見限られるような子供ではないさ。
そんなどうでもいい心配を頭のなかにふとよぎらせる間にも、翠は淡々と弓を引く。
じりじりと引き絞った弦から手を放す。
すると、最大限の力を持った弦が矢を押して、その矢が親指の上を通って的に向かっていく。
風の声が聞こえたそのその矢は瞬く間に彼女の元から離れ、見事的の中央やや下に当る。
放たれてから的にたどり着くまでに、三秒もかかっていない。
昔なら俺はここで喜び、マナーを無視して話しかけに言っただろうが、流石に今ではしっかりと学習をしている。
一切足を動かさず、視線を動かさず、ただ彼女を見る。
翠が矢を射ると、今度は彼女のすぐ横――弓道場から見て横、という意味で、翠から見れば後ろの――女子部員が射る準備をする。
的は四つあるが、弓を射る場合は個々で自由に打つのではなく、全員が綺麗に並んで順番に射ていた。
その姿を顧問が近くで見つめ、各々のおかしな動作や体の向きなどを個別に指導する。
そんなサイクルが、何度か続いた。
矢を射るというそれだけのために、弓を持ち矢をつがえ、持ち上げ腕を開いていく。
数十秒の厳格な準備を怠ることなく進めていく彼女達の姿は、えてして特段美しく目に映らせていた。
心は、目には映らない。
しかし、心の美しさは、実像なき雅として見る者の瞳に鮮明に訴えかけてくるのだ。
結局、部員たちが休憩に入るまで、俺は時間を忘れてただ真っ直ぐにその風景を眺めていたのだった。
*
「翠にはブランクなんて関係なかったな」
帰り道。
夕日も既に落ち、冬特有の寒さと暗さが周囲を満たす頃、俺達は二人きりで彼女の自宅へと歩いていた。
とはいっても、俺は途中の駅で東京行きに切り替えるのでそれまでの距離の話である。
翠は時折手袋の上から白い息を吹きかけると、二、三度両手を唇の前でこすり合わせ、頼りない暖を取っている。
彼女のために何でもしてやりたい所だが、流石に季節までどうにかすることは出来ない、と厚着をする翠をただ見るだけで、何もしてやれないまま隣を歩いていた。
――少しの間部活動に勤しんだ後は、顧問の計らいもあって即席の交流会が開かれることとなった。
扉の向こうで翠の姿を見ていた生徒も靴を脱いで弓道場に入ると、俺の誘導の元に並んでもらい、各々の依頼とともにずっと練習していたサインを書いていったのである。
比較的怖そうな風貌の顧問からのまさかの提案に一瞬面食らったものの、弓を置いて休憩していた翠に相談すると大丈夫との回答だったので開くことにしたのだ。
…その顧問も翠にサインをお願いしていたのだけども。
「いえ、やはり以前のようにはなかなか…」
そうは謙遜するが、傍目には全くブレていない安定さを誇っていた。
顧問も翠にだけは一言二言述べるのみで、後は見ているだけであったのだから、実力はお墨付きだろう。
「謙虚は美徳だけど、卑屈はただの自虐にしかならないぞ」
外灯に照らされてきらきらと流れる髪の上に手を置くと、翠は俺の手を落とさないようにこちらを向く。
「…そうですね。Pさんと一緒に居る私が、素敵でない訳がないですから」
時折、翠はこうして冗談めかした事を言う。
中々面白い冗談だ、と頭皮をうりうりとしてやると、翠はくすぐったいような笑みをこぼした。
お互いからかうように、時に笑いながら話を進めていると、いつの間にか通りすがりの泥棒が俺達の時間を盗んでいってしまったようだ。
「ん、もう着いたのか」
薄汚れた外灯が駅の看板を照らす、小さな駅だ。
しかし、ここからでも新幹線の発着する駅へは乗り継ぎで行くことができるので、俺はこの駅でそこへ向かう予定を立てたのであった。
「もう着きましたね」
俺の言葉を反芻するように翠は呟いた。
ほんのりと湿った唇からは、暗闇の中へ消える微かな息遣いが漏れる。
その顔は看板を見上げており、俺からは表情を読み取ることは出来なかった。
「今日は楽しかったな。…でも、また明日からレッスン漬けだから覚悟しておけよ」
はは、と笑う声は、冬の乾いた空に解けて大気と化す。
「はい。よろしくお願いします」
そんな偽物の脅迫に、翠はくすりという微笑みで返した。
参ったな。
澄んだ空気にあてられたか、俺の中身まで彼女に見透かされているような気がする。
「……翠」
――では、また明日。
そう言って暗闇の中に消えて行こうとする翠を、俺は不意に止めてしまう。
すんなりと別れると思っていたらしい翠は、即座にその行動を中止して振り返った。
最近では、悪い感情でさえも悪いと思わなくなってしまっていた。
ただ一つ、確実に言える事は、間違いなく悪循環への階段を一歩降りている、ということだ。
…いつもであれば、ここでこれからは自制していこう、だとか、気をつけなければならない、だとか考えて己の戒めるのだが、今はそれが出来なかった。
――いずれ霧散する運命を持った感情でも、今この時だけは、確かに存在しているのだ。
「家まで送るよ」
長袖からちらりと覗く時計を見れば、まだ予定していた新幹線までは充分に余裕がある。
本来なら何の価値もないデッドスペースだったそれも、翠と居れば、ダイヤモンドよりも美しい時の流れを演出してくれるに違いない。
ありがとうございます、と言った彼女の表情は、冬の寒空の中でも一層暖かく見えたのだった。
*
太陽も真上に向かって昇り始め、それに伴って僅かに気温も上がってきたと肌が感じるような冬の午前は、翠のリハーサルのために費やされることになっていた。
合同フェスでは、各グループ毎にそれぞれリハーサルの日時が割り振られており、その時間内であれば自由にリハーサルを行なってよい事になっている。
それで俺達に割り当てられた時間は、開催一週間前である今日の朝だったという訳だ。
俺達の前の順番である早朝に充てられたアイドルユニットがリハーサルを終えるやいなや、運営のスタッフたちが一斉に舞台準備の張替えを行い始める。
このイベントではグループが次々とパフォーマンスを行う上にステージギミックも多彩に富むため、僅かなインターバルでスタッフたちが準備をする必要があるのだ。
本来であれば翠の前の順番はゆかりであるはずだが、リハーサルでも同じという事でも無いらしく、別の三人組のユニットが練習をしていたのだった。
彼女達は本番同様に衣装もしっかりと着ている。
黒が印象的なドレスを三人とも身に付けて、息のあったダンスで舞台を駆け巡る姿はまさにこのフェスの名に恥じないもので、荘厳で品格のある動きを見せつつも、冬の寒さを吹き飛ばすようなほとばしる熱さを感じた。
当日となれば、彼女達に勝るとも劣らない観客とアイドルが一体となったパフォーマンスが次々と出てくるのだろう。
いや、パフォーマンスと呼ぶべきではないのかもしれない。
観客が居てこそのアイドル達の披露なのだ。
そういう意味では、この会場全てが一つの作品なのである。
学園祭の時とはどう見てもスケールの違う会場の雰囲気に、俺が直接観客の前に出る訳でもないのに自然と心が震えてしまった。
翠はというと、当日着るドレスは着用せずに普段の練習着姿で居るものの、広がるように作られたステージの上に立って、観客席となる地面を見下ろしている。
周囲には忙しなく動くスタッフたちの姿。
まるで隔離されたかのように、翠は落ち着いて眺めていた。
少し後ろから翠の姿を見ているせいで、彼女の感情は上手く捉えられない。
しかし、おおよそ推測するには心地よい緊張感を漂わせているのだろう。
ゆっくりと首を回して遠くの山々を見渡した翠は、何となく感慨深さを覚えているような気がした。
…その景色はごく限られたアイドルにしか味わえないものなのだから、今のうちにたっぷりと見ておけばいい。
「大丈夫か?」
俺は焦点を遠くに合わせてステージに立つ彼女の下へ歩み寄り、そう声をかける。
「一度やってみないとわかりませんが…レッスンで学んだことを、全力で出したいと思います」
こちらに気づいた翠はゆらりと振り返ると、少し考える仕草をした後に答えた。
実は、今の翠は普段のレッスンで使用している白のラインが入った青色のジャージを着ており、そのままではとても観客の前には出られない。
というのも、現在はステージの上に立ってシーンごとのダンスを手拍子ですることで、観客からの見え方のイメージ、ダンスの動きやすさや難易度などを考慮しながら軽い調整をいれているのである。
練習着なのは、翠の衣装は一品物で構造的にも衝撃に強くはないので、練習であろうとも気軽に着用していては万一の時に対処が難しくなってしまうからだ。
風貌に似ず華麗に体を一回転させると、どういう訳か、翠は微かに笑みをこぼした。
――合同フェスで俺が提案したステージのテーマとは、幽玄であった。
そのため、空色のドレスに合うような装飾…非日常的で、幻想的なイメージをなじませるにあたって様々な物を搬入させることとなったのである。
駄目元で運営の人に話してみると、以前言っていたポリシー通り、やってみせましょう、と少しの間を置いてから心よく返事をしてくれた。
俺の提案を聞いた時の彼のあの表情はよく覚えている。
過去でも中々例を見ない…それも、新人であれば尚更なのだろう、聞き返した時の声がえらく素に戻っていた。
舞台は比較的大きく、ニつのグループ程度なら奏者を含めて同時に入場してもパフォーマンスに支障が出ない位にスペースに余裕がある。
これは広い敷地に入り込む数多の観客の中で、側面で見物する人から見えにくくなるというデメリットを解消するためであった。
そのため、ポップや動きのあるロック系のジャンルで参加するユニットにとっては、少しでも控えめにダンスをしてしまうと途端にステージに負けてしまうという懸念を生み出している。
恐らく、同じバラード系で勝負を仕掛けてくるゆかりも演劇さながらの大きな動きで目と耳両方に強く訴えかけてくるのだろう。
以前プロモーション・ビデオで見た切なげに歌う姿とはまた違った物が見れるに違いない。
そして翠だが、野外ライブという条件では非常に不利であると言わざるを得ない状況になっている。
何故なら、広い観客席に対し仕掛ける曲がバラード系で、動きもそこまで大きくないからだ。
下手をすれば、『何をやっているのかわからない』などと言われる事だって十分にあり得るのである。
それへの対抗策が、先程述べたテーマにある。
広々とした人工物であるステージに、夜の人ひとり居ない舞踏会を想起させるようなテーブルクロスのかかった丸テーブルや木椅子、観客席下の地面にまで届くような特別な赤色のペルシャ絨毯を用いることで、ステージを大きな絵本に仕立てあげたのだ。
そこで翠が舞うことで、ジオラマの世界に入り込むような視覚的インパクトを与える、という算段である。
しかし、これはいわば博打に等しいもので、ただ前の順番がゆかりであることを意識しての提案だった。
初めての舞台でわざわざそんな博打に興じる必要はないのでは、という指摘もあって至極当然だが、そうせざるを得ない理由も確かにあるのだ。
――歌声だけで翠に興味のない人間も全て魅了できるなら、その人以外はステージに必要ない。
むしろ過剰な演出は、その本人の足を引っ張ってしまうことすらある。
しかし、現実は非情だ。
翠の立場や状況を考慮すると、多少大げさであろうとも観客にとってインパクトのあるものにしなければ、他のアイドル達の並ぶスタートラインにすら立てないのだ。
どうあがいても観客の色眼鏡を外させることは出来ないのだから、その色眼鏡ごと染める事が大事なのである。
「ドレスを着てこの会場で歌うなんて……まるで映画にでも出ているみたいですね」
翠は運営陣の懸命なセッティングによって見事にあつらえられた舞踏会を歩いて周り、かつ、かつ、と耳を小突くような絨毯の下の無機質の音を響かせて、物語の場面に飛び込んだ。
それまでむき出しであった右にも左にも伸びた柱は壁紙によって隠され、野外ライブ特有の感触が全くない。
もしも翠が昼の部の出場であれば、当然この構成をすることも無かっただろう。
確かに昼であればステージ全体がよく見えて良いのかもしれないが、インパクトがある分全体が鮮明に映し出されてしまうと、観客の視線が翠から背景に移ってしまう危険性がある上、暗さがないと舞台が陳腐に見えてしまうからだ。
夜で、照明だけが頼りのステージだからこそ、今の演出が効果的に表れるのである。
残念ながら、流石に実物のシャンデリアまで搬入することは不可能だった。
より搬入までの管理が大変なのは勿論、設置においても事故の危険性が指摘されたからである。
そもそも、今の状態ですら準備や次のユニットのための片付けに時間がかなりかかっているのだ、天井部まで手を回していれば運営自体に支障がでてしまう。
ここは、限りなく本格的に再現してくれたことを素直に感謝すべきだろう。
「このフェスの映像も、後で映像になって店頭に並ぶからな。そんな目的を意識して歌うのもいいかもしれないぞ」
過去にも言ったが、大事なのは演劇的な動きだ。
こと一挙一動が映えるミュージック・ビデオを意識することが、翠に良い影響を与えるのではないかと思う。
歌だけを意識せずに自分の姿を含めた全てが演奏なのだという考えは、あながち間違いではないはずだ。
「…いえ、そういう雰囲気では歌いません」
しかし、意に反して翠は俺にそう言って拒否をする。
その表情は落ち着いていながらも真剣で、冗談めかす香りはしない。
どうしてだ、という俺の問いに、翠は再び観客席の方を視線を戻して答える。
「この場は、聞いてもらえる皆さんとあなたに対して歌うためにあるんですから。余所見をするつもりはありません」
…なるほど、翠らしいといえばそうなるだろうか。
いつかの頃と比べると見違える彼女の顔を見て、俺は一つ頷いた。
――こうして率直に意見や感想を言ってもらえるようになったのも、きっと前に起こった二人の言い争いの賜物だろう。
あれ以降、翠は俺や麗さんに対しても物怖じすること無くどんどん進言するようになっていた。
いくら考慮した上で反論や拒否をされようとも決してそこで終わらせず、場を良くしていくためにと意見する姿に、麗さんも些か驚いているようだった。
愚直である事よりも、翠は賢明を選んだ。
それこそが、彼女を良い方向へと導いた選択に違いない。
以前よりも自信に満ちた目をしている翠を見て、そう思わずにはいられなかった。
――ニ、三会話をしていると、準備が完了したとの声が舞台袖から聞こえた。
前のユニットの片付けと俺達のための準備を続けてしなければならないのだから、時間がかかって当然だろう。
それでも十数分程度で完了できるあたり、本当に彼らの力量には脱帽せざるを得ない。
無論、今回は生演奏ではなくただのオフボーカルの音源を用いてのリハーサルである上に厳密なリハーサルの内容は各個人に委ねられているため、極端に言えばリハをしないことも可能だ。
しかし俺達は挑戦する側なのだから、怠慢にだけはなってはならない。
「では、Pさんは下がってください。…ここは私だけの世界、なんですよね?」
事務所で翠に衣装を渡した時の俺が述べた言葉を、からかうように彼女は言った。
どうせ舞台の上では彼女は独りなのだから、せめてその時だけは孤高であって欲しい、そんな願いも今では不要になるくらい、翠は充分な程自信を付けてくれた。
休養からの復帰後も気落ちすること無く練習を続けていたその姿に、麗さんもいつにも増して気合が入っていたのは強く覚えている。
「はは、そうだな。じゃあ俺は後ろで見ているから、まずは通しで足元に気をつけながらやってみてくれ」
今日確認すべきことは、翠の披露する衣装の詰めとダンスの調整で、あとは翠の慣れを助けることだ。
麗さんは会場側から舞台を見て彼女のパフォーマンスをチェックしてもらっているので、後で来てもらって指摘を請う予定である。
彼女の威勢のよい返事を聞き届けた後、担当の人に曲を流してもらうようにお願いをする。
すると、機械を操作する担当者の合図の後に、翠のための曲の前奏がやや控えめに会場に響き始めた。
……いくつもの困難も壁もアクシデントも俺達の前に現れたが、それでも乗り越えることが出来たのだ。
だからこそ、これが最大の壁だとは思わない。
翠がアイドルとして大きく踏み出す表舞台への第一歩を最高のパフォーマンスで幕を上げるために、まずはこの場を最高のものにしたい、と俺はふと空を見上げたのであった。
*
――冬の夜空というものは、何とも言いがたい特別な空気があるものだ。
地域によっては雨が降り、雪が降り、様々な顔を見せてくる。
しかし、冬という季節であるだけでそれらは何か違う物を醸し出しているのである。
そんな不思議な空気は薄い壁を通り抜け、俺の居る事務所の中にもそこはかとなく充満していたのだった。
「……長かった、ですねえ」
エアコンだけでは到底賄い切れないと分かってからすぐさま導入した電気ストーブに手を当てながら、ちひろさんはしみじみと呟く。
型落ち品でも暖を取るには問題はない。
手元には温かいお茶を、足元にはストーブを身に付けて左右に回転椅子をゆらゆらと動かしながら手をストーブに伸ばす彼女の姿は、何とも子供みたいである。
とは言っても、彼女の目だけは冬の季節に充てられてか、どことなく感傷的であった。
まあ、無理もないだろう。
アイドルもプロデューサーも居ない、まさに一文無しの状態から始めてからもうすぐ年を越すところまで来たのだ。
俺ですら当初はこの事務所の存続を心配していたのだから、最初からここに居る彼女はもっと感じているに違いない。
この激動の年を回想した所で、誰も責めはしないはずだ。
「そうですね。…まさか俺もこんな仕事をするなんて、全く思ってませんでしたよ」
はは、と笑い、おもむろに頭を掻く。
ただ普通に生活を送ったとしても一年後の自分というものはおおよそ想像出来る人は少ないが、こと俺に関しては尚更である。
就職先の決まらない一般の大学生がまさか芸能事務所でプロデューサーをやるだなんて、一体誰が予想できるだろうか。
「でも似合ってますよ、その仕事。天職なんじゃないですか?」
「まさか」
似ても似つかぬ言葉に苦笑して肩をすくめる。
…本当にこの仕事に就いてよかったのか、そんな疑問は今でも時々心の底で湧き上がる。
失敗は今までもよくしてきたし、これからもずっと付き合って行かなければならないのだろう。
他の人に比べても、俺は優秀という訳ではない。
しかし、それでも翠に出会えたという事実があるのだから、彼女の問いを否定するのは何となく気が引けてしまう俺であった。
出力全開でも一向に暖まり切らない貧相な事務所の中で、ふとした拍子で始まった一年の思い出話で談笑していると、殆ど来客のない事務所の扉が小さく音を立てた。
「ただいま戻りました、Pさん、ちひろさん」
「お邪魔するよ」
「お、お邪魔します」
こんな時間にアポもなく誰が訪れたのだろう、と俺たち二人とも扉に視線を向けると、その薄い扉から見慣れた二人と久方ぶりの一人……翠と、現在のトレーナーである麗さん、そしてその妹で前トレーナーの慶さんが現れたのだ。
「あれ、慶さん……それに今日は直帰だったんじゃ?」
今日の予定を思い出して、麗さんに問う。
最近では、レッスンが終わると麗さんが翠を送ってくれるようになっていた。
当然俺も送り迎えをすることはあるが、一番身近にいるのですぐに移動しやすいという利点があるが故に、麗さんさえ良ければお願いするようにしている。
それに、彼女自身も翠とよく話す機会ができて嬉しいと話していた。
普通のアイドルならまだしも、翠とだけは、ただ見ているだけでは彼女のことを解ることは難しい。
目を見て、よく話し合って初めて彼女の本来の姿が見えてくるのだ。
一般論や常識ではない、翠と接してきて色々なミスを犯してきたからこそ言える事だった。
「ああ、そういうことだったんだが……ほら」
麗さんの手には、何かが入ったビニール袋が握られていた。
その袋には近所のコンビニのロゴがあったので、何かを買ってきた、ということなのだろうか。
それを掲げて俺達に主張する麗さんの隣で、翠が続きを請け負った。
「私がお願いをして、皆で…その、何と言いますか、決起集会をしようと思いまして」
視線を少し逸らして、翠は苦笑する。
よもや彼女からそんな提案をするとは思わなかった。
いや、そういう類の事であれば、俺と翠とちひろさんの三人で打ち合わせをした時に簡素ではあるが以前にも既にやっている。
しかし、翠は彼女自身を育ててくれた慶さんや麗さんがいないことが不満だったのだろう。
……翠からすればそれも当然か。
思えば、アイドルになって右も左も分からない時には慶さんが道筋を示し学園祭のライブを成功に導いてくれて、更なる大きな壁に立ち向かう時には麗さんが厳しくも時に優しい一面を見せながら一緒にやってきてくれたのだ。
時間で言えば俺やちひろさんとは全く及ばないが、密度という点ではもう同じ存在と言っても差し支えない。
それ程までに、彼女達トレーナーとは不思議な縁もあって、翠のために頑張ってくれていたのだった。
「…それにしても、よく許可しましたね?」
ちひろさんがくすり、と笑って麗さんに問いかける。
俺もそれには気になっていた。
ただでさえ練習に関することであれば食事に対しても真剣に指導する立場の人間が、イベント直前になってジュースやらおやつやらをテーブルに広げようとするのだから、何とも不思議である。
「翠なら、こういう事があっても羽目を外さないのはわかってるからな。それに慶も会いたがってたのだよ」
慶さんはというと、麗さんに担当が変わってからは滅多に合わなくなっているような気がする。
もちろん、本来の担当トレーナーとして近況報告などはメールで時折するし、慶さん自身も麗さんからいくつか話を聞いているとは思うが、こうして面と向かって話すのはどれほど久しぶりなのだろうか。
「それでは、折角来てくれたんですから少しだけやりましょうか」
あまり夜遅くまで翠を起こさせるのは些か不安が残らないでもないが、明日が本番という訳ではないのだ、今日ぐらいは少しはしゃいだって悪い事にはならないだろう。
何より、翠がそれをやりたいというのなら断る理由はない。
また俺としても、麗さんや慶さんも含めてみんなで居てこそ俺達なのだと改めて感じたいのだ。
「ありがとうございます。あ、私用意手伝いますよ、プロデューサーさんっ」
テーブルに置かれた雑誌類を片付ける俺に対し、麗さんからビニール袋を受け取った慶さんがテーブルにぴょこっと近づいて片付けを手伝う。
ちひろさんは、寒かったろう、と給湯室から暖かい物を持ってきてくれているようだ。
そんな姿を見て麗さんは翠の肩を叩いてニ、三話しかけると、空いているソファに座らせてからちひろさんの下へ歩んでいった。
世間ではクリスマスと呼ばれる今日の夜空に見下ろされ、ささやかな風が頬を撫でるが如く、小さなパーティが開かれた。
もう狼狽えている時間はないのだ。
だからこそ、今この時をあるがままに過ごしたい。
*
「…寒いなあ」
アルミの窓枠からは、本来なら訪れることのないはずの肌寒い隙間風が部屋を否応なしに凍らせていく。
肝心の遮断機能を有さない不良品のガラス越しには味気ない暗闇が見え、それを申し訳程度に街灯と空の星が防いでいた。
暖房をつけようとも室温が一向に上がらないボロアパートの一室。
もはや普段着と言っても過言ではないスーツを脱いで風呂に入り、体が冷える前に寝巻き姿に着替えた俺は、何をする訳でもなくベッドの側面に背を預け、シミの付いた天井をただ仰いでいた。
しなければならないことは探せばたくさんあるのに、何もする気がおきない。
そんな矛盾した感情を、俺は知っている。
――それは、例えるなら受験前日の夜。
高校受験でも大学受験でも、行われるのは大体十二月から翌年のニ月までの寒い時期である。
そこで、明日に控えた試験を前にして緊張で普段通りの感覚が失われてしまう学生は全世界に多々居ることだろう。
だがそれは、受験から完全に開放された社会人であっても例外ではない。
「……明日なんだな」
無駄な熱量を消費させて虚空を響かせると、ぼんやりとした空間が俺の頭をつんざいた。
決戦の日。
誰であろうとも容赦の無い、栄枯盛衰、弱肉強食を体現したかのような芸能界という戦場で、細く小さな一歩が踏み出せるかどうかを決める、最初で最後の日だ。
あらゆる過程を吹き飛ばして参加が決まった合同フェスにおいて、成功すれば間違いなく翠の活躍は天命に護られる。
だが失敗してしまえば、すなわちオープニングテーマが流れている最中に打ち切りを命じられたと同じ事が彼女の身に起こるのだ。
…いや、厳密に言えば終わりはしない。
仮に失敗したとしてもアイドルとして活動するのに問題がある訳ではないのだから、翌年から普通に活動しても何ら問題はないだろう。
かと言って、平穏無事でそれができるかといえば難しいのが現実だ。
権威あるイベントである合同フェスで失態を晒したという事実が一旦立てられれば、それは翠に永遠に付き纏い、彼女の精神を確実に削っていく。
そう考えていると、ふと頭にもう一人の親しいアイドルの顔が思い浮かぶ。
…水本ゆかりという存在は、レアケースなのだ。
真実は想像することでしか察することはできないが、当時組んでいたユニットの相方も含め、彼女の下には数多の誹謗中傷が訪れたに違いない。
それで彼女の相方は壊れた。
ステージに立つことを夢見て必死に練習してきた少女がそんな結末にいとも簡単に辿り着いてしまうなど、よほどの事ではありえない。
それが、俺の想像を遥かに越えた酷い罵声が彼女達を襲ったという推測に繋がるのだ。
アイドルとしての全てを否定され、心ない人間からは人格すら否定されたのだろう。
それを目にした当時のゆかりは、一体どんな感覚だったのか。
夢見る純粋な少女に与える仕打ちとしては、これ以上に残酷な物はない。
だが、ゆかりはそれでも諦めなかった。
襲いかかる嵐の中に放り込まれても、心を折らなかったのだ。
それがゆかりのプロデューサーとの出会いに繋がり、再び立ち上がって、また同じ舞台に上ることになったのである。
…怖くないはずがない。
自身を見るであろう観客達は、生肉を舌なめずりで睨む猛獣に見えることだろう。
何故立っていられる?
何故逃げなかった?
例えゆかりがアイドルに対して確固たる信念を持っていたとしても、合同フェスという舞台で結果として失態を犯したという扱いになった事実は変わらない。
にも関わらず、周囲の冷た過ぎる視線に耐えて、今日までやってこれたのだ。
これを強いと言わずして何と言えばいいのだろう。
彼女の芯の強さには、尊敬以上の感情さえ沸き上がってくる。
――そして、その舞台に今度は翠が立ち向かう。
丁度一年前のゆかりと同じ、新人での合同フェス参加だ。
もしも、翠がそこで失敗をしてしまったら。
…そんなことにはなるはずがないという意識を、深層の心が締め付けていた。
冷たい空気によって喉をかすめていた呼吸が、不意に苦しくなる。
乾いた咳が出てしまうのは、唾液が全く分泌されていなかったからだ。
……大丈夫、翠は誰よりも練習してきた。
ベテランである麗さんからも評価は得ている。
デビュー曲であるこの歌だって、プロの人も認めてくれる程の歌声にまでレベルも上がった。
規模は違えど、ライブだって経験している。
雑誌の特集にも載ったし、ラジオにも、テレビにも出演した。
地元では、皆が翠を応援してくれている。
そうでなくても、翠のファンと言ってくれる人だっている。
当日は彼女のファンも数多く駆けつけてくれている事だろう。
そこで頑張って、披露して、喝采を浴びて、喜びを分かち合って、同じく見に来てくれた家族に報告をして、新たなる第一歩を踏み出せたと確信して。
そんな未来を想像すればする程、俺の中の見えない傷は広まっていく。
人は、成功よりも失敗に目を向けてしまう。
それは俺も例外ではなく、捉えようのない痛みが体の中に溜まっていった。
失敗すれば、一体翠はどうなるのだろう。
挫けずにまた立ち上がれるのか。
また俺に笑顔を見せてくれるのか。
おはようございます。お疲れ様でした。
事務所でごく当たり前のように交わされる挨拶は、これからも続くのだろうか。
はっきり言って、俺の中でいつの間にかそれらが心地よくなっていた。
日常生活の一部に…人生の一部に彼女が居ることが、何よりも嬉しく思うようになっていたのだ。
もしも、それが喪失してしまったら?
――俺がステージに立つ訳でもないのに、誰よりも俺が恐怖していた。
冬の夜。
明日は大事な日なのだから、厚着をして布団を何枚もかぶってさっさと寝なければならないのに、俺のまぶたは一向に目を閉ざしてはくれない。
まるで俺をいたぶるかの如く執拗に視界を開かせていた。
心臓の音が絶え間なく体に響き渡る。
それがどうにもうるさくて仕方がないのだ。
もう、いっその事止まってくれればいいのに――。
そんな現実逃避にも似た感想を抱き始めつつある俺の部屋に、突如電子音が鳴り響いた。
――ピリリリ、ピリリリ。
情緒や流行の欠片も無い、古臭い携帯電話から流れる古臭い電子音に、所有者から離れかけた意識が再び喉を通り抜ける。
こんな時間に誰からだろう。
テーブルの上に雑に置かれた携帯電話の光る画面を見ると、何と担当アイドルの名前が表示されていたのだった。
「……何か起こったのか?」
絶えぬ不安を身に纏いつつも一つ二つ咳をして声色を戻すと、通話ボタンを押して耳に当てる。
「あ、こんばんは。夜分遅くにすみません」
しかしその機械から流れたのは、古臭さなどどこかへ飛んでいくような聞き慣れた翠の声だった。
通話口からはとてもじゃないが明日という日を理解していないかのような様子が見え隠れしている。
疑念と不安が入り混じりながら、彼女の言葉を待った。
「今、大丈夫ですか?」
翠の問いに促されて無意識に天井近くの壁を見上げるが、残念ながらこの部屋には壁掛け時計がない。
なので、近くに置かれていたいつも使っている腕時計を見て時刻を確認する。
現在午後十時を回った頃だ。
「明日は本番なんだから、君は早く寝ないといけないんだけど…何か用か?」
緊張して眠れず、結果的に夜更かしをしてしまうというのは誰にでも起こりうる事態だが、それが原因で当日のパフォーマンスが全力でできませんでしたと言われても、ただの負け惜しみにしか取られないのである。
そうなってしまえば、得をするのはゆかりの所属する事務所の上層部くらいで、他は誰も喜ぶ事はまずない。
観客も、俺も、皆翠の最高のパフォーマンスを見たいのだ。
そういう意味でも、万全の状態で本番に臨むために俺は自分の感情とは裏腹に語気を強めて話すが、それに対する翠の回答は致命的なものだった。
「…きっとPさんは不安なんだろうな、と思いまして、つい電話をしてしまいました」
どうやら、本当に心が見透かされているらしい。
「……いきなり何の話だ」
傷めつけるように震えていた鼓動は、僅かながらも熱を帯び始める。
「ベッドの上に居ると、あなたの声が私に届くんです――不安だ、不安だ、と。おかしいですよね、そんなの……ですが、だから励まそうと思ったんです」
本当に致命的だ。
見せてもいない物を…見せたくもない物を、いとも容易く彼女は見破った。
いや、見てもすらいない。
ただそう感じたからといって、見事的中させてみせたのだ。
奇妙な関係になってしまったものだ、と心の中で嘆息する。
俺が当初望んでいたのは、結局彼女の心の中を覗きこんで適切な対処を採りたいと思う、極めて即物的な関係だった。
翠の悩みも不安も、特性も短所も全て読み取って指導して、よりよいアイドルへと導きたいと思っていたものだ。
しかし、いつのまにかそれは逆転していた。
彼女の方が俺の思いを読み取って適切な対処をしたのである。
何とも情けない話だ、と肩をすぼめる。
すると、肩に降り掛かっていた見えない重みがするりと汚れた床に落ちた気がした。
「…翠は、自分のプロデューサーが情けなくて幻滅しないか?」
溜め込んでいた薄暗い感情が、どろり、と通話口へ流れ込む。
俺の中で、翠という存在がどういうものであるか度々考えてきたが、考える度に違った答えが出てきていた。
ある時は、俺が導いていくべきアイドル。
ある時は、横一列で共に歩いて行く仲間。
そして……ある時は、寄りかかりたくなるような尊敬する人間。
嫌われるのが怖い。
そんな少女的感情で己の身を滅ぼしかけた彼女だが、俺にそれを打ち明けたことで一つ成長した。
「ふふ、やっぱり」
彼女はその成長を見せつけるかのようにくすくすと笑い、言葉を続ける。
「幻滅なんて、絶対にしませんよ。この世界を知らない者同士、時には前に、時には横に。そうして一緒に歩いてくれてきたんです…あなたの性格も、弱さも、いっぱい知ってますから」
こんな弱音を吐くなど、もう慣れたと言わんばかりの声色だ。
相手を気落ちさせるような話し方ではなく、同調するような話し方。
前に立って俺の手を引っ張るような、そんな姿が連想された。
…俺が導いていたアイドルは、成長を続ける内に俺を追い越してしまったらしい。
「だから私に教えてください、あなたの不安を。そして…分かち合いませんか?」
社会人のくせに、大人のくせに。
完全に固まりきった常識を、翠の言葉が溶かし尽くした。
「どれだけ頑張る翠の姿を見ても、不安は消えない。むしろ、それでも失敗したら翠はどうなるんだろう、って怖くなってくるんだ」
俯瞰して見れば見る程、俺という存在が矮小化されていく。
いや、本質が見えてきたというべきだろうか。
今までの俺は、所詮虚勢を張っていただけのハリボテに過ぎない。
プロデューサーという皮を被ることで一丁前に大人ぶっていたようなものなのだ。
そうすることで立場を守ってきた結果、迷い、惑い、間違え、翠に損害さえも与えてしまったのである。
もう、正直に言って俺はどうすればいいのかわからなかった。
ありきたりで、かつ莫大な不安が、自身の境遇すらも疑念の渦に巻き込んでしまっていたのだ。
途絶える事無く延々と湧き出てくる不安を有りのままぶち撒けると、ようやく終わりが見えてきた。
吐き出したかった感情が、いつの間にか底をついていたのだ。
今までそんな悩みもなく生きてきた俺にとって、ここまで追い詰められるというのは恐らく初めてだろう。
未知の感覚に意識の制御が失われつつあり、話が途切れた今、次はどんなことを言えばいいのか戸惑っていると、翠は小さく息を吐いた。
「…よかった。私も同じ事、考えてました」
その声は神妙というよりも、どこか安堵したような声色だった。
「同じ事?」
どんどん暗い方向に向かっていった意識が、彼女のよくわからない言動によってふと我に返る。
「私も、失敗してしまったらPさんはどうなるんだろう、と思ってたんです」
「俺がどうなるか、って…」
一体翠は何を言っているのだろうか。
失敗したら大変なのは翠であって、俺ではないのだ。
そんな懸念は無用の物である、と反論する俺に被せるように、彼女は言葉を続けた。
「もし私が失敗してしまったら、きっとPさんは自分を責めてどんどん追い詰めていってしまうのではないか、責任を感じてプロデューサーを辞めてしまうのではないか……そんな不安が尽きないんです」
不明な前後関係が、蜘蛛の糸によって繋がれていく。
――同じ事。
彼女がそういう表現を用いた意味が、雨が上がるかのように現れてくる。
「Pさんは失敗する事で私が落ち込んでしまうと考えているのでしょうが、私なら大丈夫です。あなたが信じてくれるなら、あなたの隣に居られるなら、いつまでも歩いていけるんです。だから私は……あなたがあなたでなくなってしまうのが怖い」
そういうことか、と俺の中の曖昧な感情が一気に収束した。
俺は彼女の凋落を心配し、彼女は俺の凋落を心配している。
すれ違っているようで、実は重なりあっているという、表現し得ない何とも可笑しな状態になっていた。
心配している相手から心配されているなんて、一体どんな関係なら起こりうる状況なんだろう、と俺は思わず笑ってしまう。
「…お互い様だったな」
「ええ、お互い様でした」
電話越しの彼女も小さく笑う。
翠の持つ全ての苦しみを俺にさらけ出して欲しい、という言葉は、翠の誕生日に出かけた時に俺が彼女に伝えた物である。
しかし、それは同様に彼女が俺に伝えていた言葉でもあったのだ。
過去の内で俺が翠にそういった弱音めいた言葉を口にしたのは、状況に惑わされてか誘発されてか、いわば強いられた状況下での言葉だった。
それを俺はよくないものだという風に捉えたから、なるべく外に出さないで、内に、内に、と溜めこんできたのだ。
今思えば、それは彼女にいらぬ心配をかけなくないという心もあったのかもしれない。
「あなたが居るから私は居て、私が居るからあなたは居る、たったそれだけの事なんです。あなたは弓で、私は矢。どちらか片方がなくなっただけでも、意味のない物になってしまう……大事な、繋がりなんですよ」
俺は翠をつがえて、険しいアイドルの頂に放つ弓。
意識下に落とすまでもなく、翠らしい例えだった。
彼女の言葉に、そうか、と一つ呟いて返す。
「なら、俺は弦をしっかり張っておかないとな」
いくら美しく鋭い矢であろうとも、弓が折れていたり、あるいは弦がきちんと張れていなかったりすれば、それはただの塵と化してしまう。
両者があって、初めてその存在の価値が生まれるのだ。
弓と矢、プロデューサーとアイドル。
片方が片方を利用するのではない、密接に結びつくことで真価を発揮する、共生の形であった。
最終的、という言葉を用いることには若干の抵抗感はあるものの、俺は心から思う。
――俺と翠の関係は最終的にそこへ辿り着き、それこそがあるべき絆なのだ、と。
かねてからずっと体の中に燻っていた要らぬ感情が、彼女の声により散っていく。
清々しい、晴れ晴れだ。
どんな表現を使用すれば正しく伝えられるのかはわからないが、見事に切り替わったこの気持ちはまさに理想であった。
「明日、寝坊するなよ」
顔から携帯電話を少し離すと、一つ息を付く。
成功したら、共に喜びと幸せを。
失敗したら、共に悲しみと苦難を。
背負うのではなく持ち合う事が、二人で歩く意味なのだ。
「勿論です。…迎え、待ってますね」
最後にお互い就寝の挨拶を交わすと、雑な音を経て電波の繋がりが失われた。
誰かから思ってもらえるという事がどれだけ幸せであるのか、改めて俺は知る。
そのせいか、この寒い空間の中でも何故か笑みがこぼれ続けてしまった。
「…さて、寝るか」
携帯電話をベッドの枕元に放ると、立ち上がって乗り上がり、綿の潰れた布団を被る。
欠伸をした後は、何も考えない、ただ寝るという本能的欲求に従い、意識を沈めていく。
体の中でつっかえてストレスを発していた何かは、跡形もなく消え去っている。
あれだけ下がらなかったまぶたが今ではすんなりと落ちたという驚きが、薄れゆく自我の中での最後の発現であった。
*
――合同フェス、当日。
午前の時間帯はいつものレッスン場で細かい動きと体の柔軟運動、そして全体の流れなどの最終確認を行い、昼ごはんを挟んで現地入りする。
いつもであれば俺と翠の二人で移動していた時間が、今回はちひろさんを入れて三人で移動することになっていた。
すなわち、本日事務所は休業という訳である。
会場が設置されている特別な雰囲気を醸し出す公園に俺達が足を踏み入れた時には、既にそこは関係者や観客、激しいサウンドが入り乱れる混沌とした場所と成り果てていた。
年末で誰もが忙しいのでは、という疑問など遥か彼方に吹き飛ばしてしまうような熱気が会場やその周辺に溢れ、景色だけ見れば夏と勘違いしてしまいかねない程の盛り上がりである。
ステージには溢れんばかりの熱さを纏った音楽とダンスが披露され、それに呼応するように観客がある曲ではタオルを振ったり、またある時ではタイミングを合わせてジャンプをしたりと様々なリアクションが行われていたのであった。
「体調はどうだ? 変な所はないか?」
急なアクシデントでライブの時間に間に合わなかった、だからごめんなさいでは許されない。
なので、必要最低限の事は済ませてからこうして早めに行動することにしたのである。
「はい、万全です」
関係者用の通路の中で問うと、対する翠は元気よくそう答えてみせた。
表情から見ても、決して強がってはいない。
心の底からそう思っているのだろう、かつて見たような緊張の色はあまり見えなかった。
ちひろさんもそんな翠の姿を見て安堵したような表情をする。
さて、そんな当日の今からできる事といえば、本番に向けてのシミュレーションや確認の打ち合わせなどが主ではあるが、俺の立場からすればそれ以外にもまだ仕事がある。
「では、ちひろさんは先に到着している麗さんと合流して打ち合わせをお願いします」
「わかりました。翠ちゃんをお願いしますね」
即座に意図を理解したらしいちひろさんは、俺の言葉に快く了承する。
麗さんはというと、午前にレッスンをした後は俺達よりも先に現地入りして会場の雰囲気や今日のライブの傾向などを調査してもらっている。
複数のユニットが次々とライブを行うというのは想った以上に厄介なもので、あるユニットの単独ライブであれば観客もファン故に全部盛り上がってくれるものの、こうして多彩なジャンルのパフォーマンスを披露するとなると曲調によっては盛り上がりの良い物、盛り上がりの悪い物といった傾向が僅かながら見えてくるのだ。
いくらこの合同フェスの方針が好きな音楽ファンが集まるイベントといえども、人間なのだから無理もない。
そのため、もしかするとロック・バラードというジャンルが今回の観客には受けにくいという可能性が存在するかもしれないのである。
もしもそんな兆候が見られるのであれば、今からでも遅くない、若干の流れの変更を進めなければならないのだ。
無論、ジャンル自体をがらりと変更することは不可能なので、あくまでステップの取り方や位置取りなどを変えるぐらいなのだけれども。
そういった理由で、数多のライブイベントを経験してきた麗さんにお願いしているのだった。
ちひろさんにはそんな調査をしている麗さんと合流し、具体的な改善案などを先に話し合ってもらうのである。
ならば俺達もそれに参加するのが当然である一方、俺達にしか出来ない仕事もあった。
それは、共演者への挨拶回りを兼ねた営業である。
「行こうか、翠」
「はい」
俺の考えを読み取った翠は聞き返すこと無く、明瞭に返事をしてみせた。
こうした挨拶回りもこの一年で幾度と無くしてきたのだから、彼女も不慣れとは思っていないだろう。
今は昼の部なので、俺や翠とは関係のない人の方が圧倒的に多いだろうが俺達には関係がない。
いずれ仕事で顔を合わせる可能性だって十分にあるのだ、今から積極的に話しかけに行っても損はしないのである。
また夜の部には、翠の状態を見ながら再び挨拶回りをするだろう。
小さくなってくちひろさんの後ろ姿を見届けて、俺達は他のユニットの控え室へと足を運んだのだった。
*
「テレビでよく見る人が沢山いましたね」
ライブ前の関係者に話しかけるという行為がそれなりに難しい物であるということを実感した営業であった。
やはりどれだけ舞台に上がる事を経験した人でも本番前というものは独特な気分にさせてしまうようである。
癪に障らせないように穏やかに、加えてなるべく下手に出てファンを装いつつ営業をすること一時間、広大な敷地の中に別途建てられた控え室やその周囲に居る他のプロデューサー達に話しかけ終えて、それなりに好感触を得ることが出来たという結果に終わった。
本番のために集中しておきたい所ではあるが、弱小事務所だからこそそれだけに固執しないで出来る限り横の広がりを強くしていかなければ、この先の道は細くなるばかりなのだ。
結果がどうであれ、来年の事も見据えて営業をしたかったのである。
先輩アイドルやプロデューサーと話をするという事から、自信を見せていた翠も少なからず緊張してしまったようで、収録さながらのトーク営業を終えると苦笑して俺を見る。
すごい覇気でした、とは彼女の弁だ。
なるほど、圧倒されるというのはすなわちそういうことなのか。
その言葉に納得しつつ、会場の近くに建設されている売店で飲み物を購入して公園のベンチに座ると、風景を眺めて暫し休憩する。
この後は翠に用意された控え室でちひろさんと麗さんに合流して最後の打ち合わせを行う予定なのだが、実はその前にここである人と待ち合わせをしていた。
「温かいお茶っていいですよね」
「よくわかるよ、それ」
両手でペットボトルを持っている彼女は、身長差により自然発生する上目遣いで微笑んだ。
翠はその待ち合わせの予定を知らない。
というのも、彼女にその事を伝えるのを憚られる事情があるからだ。
決して子供染みたからかいがしたいだとか、気恥ずかしいだとか、そんな不真面目な理由ではない。
青空を彩る白い雲がゆったりと流れていく。
本番前ということもあって炭酸はご法度だが、そうでなくとも基本的に翠はお茶かスポーツドリンクかの二択である。
日常的に飲むであろうお茶にも大層おいしそうな表情をする翠に、俺は少なからず安堵感を覚えた。
「さて、そろそろ――と、時間丁度だな」
スーツの袖をめくって陳腐な腕時計を見ると、針の長針が真上をさしている。
それに呼応するように、遠くから見覚えのある男性の姿が見えた。
「ああ、見つけた! こんにちは、とうとうこの日がやってきたねえ!」
小走りで現れた彼は冬特有のダウンジャケットを着込みつつ、大層愉快な表情を見せていた。
恐らく期待と喜びがぎっしりと詰まっているのだろう。
「あなたは――」
その顔を見て事情を知らない翠は思わず驚いて立ち上がり、同時に俺はわざわざここまで足を運んでくれた彼に立ち上がって礼をする。
「やあやあ、ご無沙汰しております!」
そんな対照的な表情をした翠が腰を折る所を見ると、男性は歯を見せて大きな笑みを晒した。
……その人は、まだヒヨっ子同然だった頃に大分とお世話になった、地元商店街の会長である。
そう、待ち合わせの人物とは彼の事なのだ。
ここに至るまでには、ちひろさんの営業努力が不可欠であった。
本来イベント関係者向けの優先販売されるチケットは数が少なく、その枚数を翠の家族に充てたために通常では彼の分を用意することができなかったのだが、ちひろさんによる根気強いアピールによって、俺達だけ特別に少しだけ多めに用意してくれたのである。
まあ、並大抵の言葉では不可能な事なのだから、弱小事務所故の恩情も少なからず入っているような気がするが……それを気にしても意味はあるまい、と素直に受け取っておく事にしたのだった。
「翠ちゃん、今日は頑張って――と、こういう言葉は駄目でしたね」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
きっと受験を経験した子供がいたのだろう、頭を掻いて苦笑する会長に、翠は微笑んで返事をした。
それから少し三人で他愛もない話をして区切りの良い場面に移ると、彼はおもむろに『例の話』を切り出す。
「さて、プロデューサーさん。話ですが…」
「わかりました。翠、悪いけど二人で話すために少し離れるから、それまでベンチで休憩しててくれ」
その言葉を聞いて、俺も本題に気持ちを切り替える。
そろそろ談笑は終わりだ。
時間が無い訳ではないが、この後も予定があるのだから悠長にする必要はない。
疑うこと無く明瞭に翠の了解する返事を聞いてから、ベンチと少し距離を取って彼と改めて向き合った。
「翠ちゃんに言わなくていいんですか?」
「大丈夫ですよ。翠ですから」
会長は訝しげに俺の行動を指摘するが、そんな彼の表情を俺は掻き消す。
普通であれば、どういう形であれ仲間はずれにされると少なからず不信感を抱かれるだろう。
しかし、俺と翠の間柄においてそんな懸念は微塵も持っていない。
彼女が俺についてどういう感情を抱いているかを知っているからこそ、だ。
「例の計画ですが、夜の部の観客に入れ替わる時間帯に入場ゲートの後ろで全て配布してくれますか?」
計画。
未熟な俺がルーキーの集大成として考えた翠のための一計だ。
それを翠に伝えないのは、発生するかもしれないリスクを回避するという理由であった。
そのリスクに関してああだこうだと言うのは無意味なので、今は割愛をさせてもらうことにする。
「わかりました。それと緊急ですがこちらにも少し人員が増えましたから、プロデューサーさんの負担も多くはなりませんよ」
「人員……というと?」
関係者であることを示す許可証を会長に渡して時間と配布場所を改めて伝えると、彼は察せない言葉を口にする。
人員とはどういう意味なのだろうか、そう聞き返すと、彼は頭を掻いて笑った。
「実は、私の他にも一般抽選で手に入れたウチの商店街の人が居ましてね、その人にもお手伝いしてもらえることになってるんです」
「おお、そうなんですか!」
何て幸運な出来事だろうか、と思わず彼に頭を下げた。
この合同フェスは全国からファン達が駆けつけるために競争率がかなり高いはずなのに、そんなチケットを手に入れた人が近くに居て、更に協力を申し出てくれるとは思ってもみなかった。
「なら、その人と一緒に先ほどの場所にお願いします。運営側には伝えておきますから、向こうの人に私の名前を出して頂ければ大丈夫です」
正直な話、莫大な数の観客に対して数人では『それ』の配布に限界がある。
そういう意味でも、一人でも人手が増える事は非常に喜ばしい。
「了解しました。あれは運んでおきますから、後で向こうで改めて会いましょう」
「ありがとうございます。それではよろしくお願いします」
事前に打ち合わせはしているので、話も深くは入らない。
それは比較的音が大きいこの場所で細かい話をしていると聞き間違えなどが発生するからである。
最後の確認を取ったところで、会長は少し離れた場所にいる翠に軽く会釈をしてここを立ち去っていった。
……計画は着実に進行している。
後は夜の部の観客の入場を待って行動を起こせば、全ての準備が完了するだろう。
「お疲れ様です、Pさん」
翠からすれば何やら俺が一生懸命仕事をしているように映ったのだろうか、労いの言葉をかけてくれる。
確かに一生懸命仕事はしているが、それは当然の事だ。
それでいて彼女にそう思われるのだとしたら、それは以前まではどちらかと言えば向こう側が発端となる受動的な仕事や計画が多かった故に、今回のプロデューサー主導で始まるこの話は俄然気合をいれているのが理由だろう。
今の俺はもう新人という立場に甘えている場合ではないのだ。
だから、負けないように全力で行く。
「ありがとう。じゃあ行こうか」
「はいっ」
体で次の予定を指し示すと、翠は寒空に負けない元気な声で返事をする。
ぬるくなって人肌になったペットボトルを取り出して指先を暖めながら、俺達は翠に縁深い人物に会うため、ここを発つのであった。
*
「あ、お母さん、お父さん!」
アイドルから少女に変わる瞬間を俺の目が捉える。
まだ日が高いと言える午後の時間。
予め連絡していた近所の小洒落た喫茶店には、翠にとってかけがえの無い人物である両親が彼女を待っていた。
両親も翠の姿を一度視認すると途端に嬉しそうな表情になり、椅子から立ち上がって小走りでこちらに向かってきたのである。
「翠ちゃんのお父様もお母様も、この度は遠いところから遥々お越し頂きありがとうございます」
正しくは少し前に翠は両親と会っているのだから、厳密に言えばつい最近会ったばかりだが、というべきなのかもしれない。
しかし、その時の翠はあくまで両親の娘としての翠である。
今回二人が会った時に彼らが歓喜の声を上げたのは、今の彼女がアイドルとしての翠だからなのだろう。
私的な一面を廃したアイドル・水野翠と接するのは、恐らく今回が初めてである。
やはり両親としては娘が遠い所で働くという事が無性に心配なのだろう。
そんな三人の大人として、家族としての再会をひと通り喜び合った所で、少し後ろで邪魔にならないように待機していた俺は前に出て頭を下げたのであった。
「…話は聞いた」
先ほどの跳ねるような声色から一転、父親が冷静にそう言うと、母親から着席するように言われて素直に応じる。
彼の声色で、容易に内容が想起された。
話とは、無論俺が母親に対して謝罪した時の内容……すなわち、翠が倒れた事である。
あの時は父親に話そうとする俺を母親が制して、直接伝えることなく終ってしまったのだが、彼の口ぶりからすると事実をはっきりと母親から聞いたのだろう、その表情は怒っているというよりも沈着した様子であった。
母親からそれを伝えられた時、彼は何を思ったのだろうか。
怒りか、悲しみか。それとも不信感か。
当時の感覚が戻ってくる。
怒られたとしても仕方がない事をしたのだ、どこまでも謝罪する覚悟はある。
突き抜けるのであれば殴られたって構わない、と意を決して彼の言葉を待っていると、父親は俺の貧弱な予想の範疇を越えた行動に乗り出した。
「……娘を、ありがとう」
父親の方が、今度は頭を下げたのである。
「え、あの…!?」
あまりの出来事に、俺や翠もその場で固まって態度に窮してしまう。
一体どうして彼が頭を下げる必要があるのだろうか。
実の娘を倒れさせてしまうという、怒るのも致し方ない事情にも関わらず、彼は気持ちに阻害されることなく俺に礼を言ったのである。
――そういえば、以前母親にこの話をした時も似たような事を感じた。
確か彼女は翠の状態を訊ね、そして何も不安はない、そう答えたのであったか。
不思議なことに、謝る時の俺の瞳が母親から見れば翠を心から思ってくれている、という風に見えたらしいのである。
そうして彼女と会話を続けていると、この母親が居たから翠はこんなに素晴らしい子に育ったのだろう、と結論づけたのだった。
もしかしたら、父親も――?
俺の心の中での思案を他所に、母親は彼の肩を持ってゆっくりと引き上げる。
父親の目は、見た目こそ厳しそうであるものの、その言葉を聞いた事で、どこか慈愛に満ちているような気がした。
「翠が倒れた時は、本当にお前を恨んださ。……でもな、翠からの話を聞いてると、とてもじゃないがお前を怒れやしない」
愛知に行った日。
俺は日帰りで東京に戻らなければならなかったが、翠は一日本当の実家で夜を過ごしたのである。
つまり、そこで彼女は父親に今回の顛末について詳細を話したのだろう。
そう続ける父親の顔に、怒りは全くない。
「自己の体調管理を怠った翠にも反省すべき点はあったし、お前も翠を大切にしていることは十分にわかった。だからこの場で改めて言わせてもらう」
――娘を、翠を、素晴らしいアイドルにしてくれて、本当にありがとう。
…その強烈な言葉は俺の脳を激しく揺さぶり、体内に尽きぬ程の幸福物質をまき散らした。
大事な子供を預けるという不安や顔を見れない寂しさ、不測の事態が起きたという憎悪がこの一年で彼の心の中を飛び回っていたのだろう。
それが、最終的に感謝という形に収まったのである。
……しかし、それで終わらせていいのだろうか。
少なくとも俺はそうは思わない。
彼がそう思っているからこそ、その言葉は尚早なのだ。
「…それは、また今度聞かせて頂けませんか?」
突拍子もない俺の言葉に、両親は真っ直ぐに瞳を向けてくる。
確かに、このタイミングは彼らの考える節目と捉えても何らおかしくはない。
年末という時期にしろ、大舞台前という時間にしろそうだろう。
だが、アイドル・水野翠はまだ完成していない。
この合同フェスを大成功で終わらせて初めて、彼らの思うアイドルはとりあえずの完成を迎えるのだ。
だから俺は言う。
「翠の歌を聴いて、感動して、それからまた聞かせて下さい。……節目を迎えるには、まだ少し早いですから」
二人組同士で座る配置なので、向かい側には両親が、そして俺の隣には翠が居る。
そんな隣の翠が、そっと微笑んでいることに気づいた。
「お父さん、お母さん、今日は来てくれてありがとうございます。ステージに上る私の姿を見て、楽しんでいって下さい」
子供が大人になる瞬間というのだろう。
俺の宣言に呼応されて発した彼女の言葉は、両親の娘という肩書きではなく、一人のアイドルとして、大人としての区別を付けていたようだった。
「…そうだな」
続いていた会話が途切れてしばしの沈黙が訪れている間、喫茶店特有の落ち着いた雰囲気がテーブルの上で踊っていたが、幕を下ろすように先に切り出したのは父親であった。
「過程は過程でしか無い。それが翠の立場なら尚更か。なら、俺にこう思わせてくれ――あのステージに立ってる奴は本当に俺の娘なのか、とな」
テレビ越しにアイドルの翠を見たところで、それは結局ファインダーを覗いて見えた一部分でしかない。
肉眼で、同じ空気の中で彼女と相対することで本質を理解したいのだろう。
彼の言っていることはすなわち、成長を肌で感じたい、という意味に他ならない。
「ふふ、期待していて下さい」
それに張り合うように、くすり、と笑って翠がそう言うと、両親も安心したように頬を緩ませた。
…恐らく、本番までの間に気楽に笑っていられるのはこの時間が最後である。
喫茶店を出て彼らと別れれば、そこに残されるのは無謀にも合同フェスに挑むプロデューサーとアイドルなのだ。
本番では、練習では絶対に味わえない異様なプレッシャーに全身を押されながらパフォーマンスをしなければならない、辛い戦いになるだろう。
だから、最後の休憩としてこの時間を楽しんで欲しい。
俺もまるで彼女の家族になったかのような、そんな和気あいあいとした空間の中で、俺はそっと翠を想ったのであった。
*
冬と聞いて連想される事と言えば誰しもいくつか思い浮かぶが、その中の一つとして、やはり太陽が沈む時間が早いというのが挙げられるだろう。
昼の時間帯にあった微かな暖かさなど明度と共にあっという間に消え失せ、残された冷たさがこの周囲を暗闇とともに覆い尽くしていた。
空はすでに黒色に染まり、訪れた観客たちも肌を刺す寒さをステージ上で舞う彼女の一挙一動に見入ることで掻き消している。
まあ、冬本番、一年の終わりとなれば暖かさを常に享受できる人は殆ど居まい。
「綺麗な声ですね…」
翠は目を閉じて、その音ひとつひとつを丁寧に頭の中に入れているようである。
「翠の先輩として、流石の実力だな」
悲しく揺れるバイオリンの煌めきが波に乗せられて、翠の前の順番であるアイドルの声が会場内に響き渡っていた。
姿は見えない。
ただ、ステージの裏側、観客からは完全に隠れた舞台裏で、準備されていた椅子に座りながら俺たちは彼女……水本ゆかりの歌声に耳を傾けていた。
流石に熱源がステージ裏の照明では余りにも頼りない。
とてもじゃないが厚さを感じないコートを着たまま、スラックスのポケットに手を入れる俺であった。
*
――時は、誰の制御も受け付けることなく走り続ける。
「ご両親とはどうでしたか?」
控え室に戻る最中、ちひろさんは俺に問いかける。
「ええ、いい時間でしたよ」
あの光景を包み隠さずちひろさんに伝えると、彼女はよかったです、と微笑んだ。
日が落ちるという現象は瞬く間の出来事で、入場ゲート付近での人の大津波に驚嘆しつつも無事『それ』の配布を終わらせた俺とちひろさんは、疲れた顔もせずに翠の控え室に戻っていた。
翠にその計画を知られる訳には行かないので、一度控え室で合流してから俺とちひろさんの二人で行ったのだ。
大変ではあったが、かといって麗さんも一緒に行くとなるとその間翠は一人になってしまうので、監督役も含めて麗さんを残したのである。
「本番も全力でできそうですね」
控え室のドアの前でちひろさんは言う。
例えそうでなくとも翠なら仕事として切り替えて全力で行けそうではあるが、同じ釜の飯を食べた彼女達の間柄だ、親子関係については何らかの共通点があるのかもしれない。
できますよ、翠なら。
端から見ればまるで根拠のない盲目的な信頼をちひろさんに告げると、俺は控え室のドアを叩いて開いた。
室内では、立って身振り手振りで話し合う翠と麗さんが居た。
「ただいま戻りました」
「やっと戻ってきたか。早速だが始めるぞ」
予め申請していた数のパイプ椅子が控え室には用意されていたので、ひとまず俺達は彼女の近くに座ることにした。
恐らく二人だけで先に調整する事項について理解を進めていたのだろう。
長テーブルには、飲料水のペットボトルや何かが記されたノートなどが置かれていた。
「では私の見てきた事で、調整可能な事案について報告する――」
彼女達も近くのパイプ椅子に着席すると、ペンを取って俺の方を見る。
その目に楽の感情は無い。ベテランの意地が垣間見えるほどに、真剣な表情であった。
……練習という概念において、麗さんの基本的な方針としては、極端に言えば本番までの時間は一ヶ月前であろうが一分前であろうが全て同じ練習時間である、というものがある。
それ故か、この時話す彼女の言葉も、冗談の一つも見せないで、今日見て感じた事を余すところなく丁寧に俺達に報告していた。
そうして話す彼女の手元には古ぼけたノートがある。
きっと何年も何回も使ってきたノートなのだろう、シミが付き、角が丸くなったそれは彼女の知識の結晶、人生のバイブルそのものなのかもしれない。
対する翠はメモこそ用意していないものの、聞かされた変更点について頷きながら改めて確認している。
二人は俺達がここに戻るまでにもある程度話し合いを進めていたのだから、翠から質問が出ることは殆ど無かった。
しかし、それでも気になる所というものは存在するようで、逐一翠が意見しては麗さんが立ち上がって問題の部分のダンスを披露して翠に教えていた。
…ちひろさんと俺もただ人形でいる訳にはいかない。
それぞれ感じた事、気づいた事を時折挟んでは議論になり、いつもの様子ではありえない口論にさえ発展しかけた事もあった。
しかし、俺達全員に言葉以上の悪意は存在していない。
誰もがただ翠のダンスをよりよい物にしたいと考えているからである。
「――よし、大丈夫だ」
あまり変えすぎても、覚えきれず本番に支障が出る。
ダンスについて軽く流すように微小な変更点を加えつつ、より大きく、より美しくするために洗練させていると、瞬く間に時間が燃焼されていく。
「うわ、もうこんな時間なのか!」
ふと時計を確認すると、俺は思わず立ち上がってしまう。
翠が変更点を飲みこんで完全に理解したのを全員が確認する頃には、もうスケジュール上の翠の順番がかなり迫ってきていたのである。
「焦らなくても問題はない。ちひろ、準備を手伝ってくれ」
「わかりました」
運営の人によるステージ・セッティングの時間を考慮しても、今私服のままで時間を過ごしていては些か不味いことになる。
麗さんの言葉によってそれぞれが動き出すと、翠の少女からアイドルへの変身に着手し始めた。
通常であれば必要となるヘアメイクなどのスタイリストとしての役割は、全て麗さんが請け負うことになっている。
そもそもレッスントレーナーなのに何故そこまで出来るのかが少し気になるものの、熟練の位置にまで辿り着くにはそういった知識や実力も必要なのだろう。
翠も信頼出来る相手に任せたいと考えているはずだ。
こうして急ぎでの準備が始まった訳だが、勿論この中で唯一の男である俺が着替えをする控え室の中に居る訳にもいかず、コートの中に収まる程度で必要な物を全て放り込んでから外に出たのであった。
*
運営の進行役を手伝うアシスタントから連絡を受けたこともあって、準備を完璧に行うと俺達は控え室のあるエリアからステージに続く舞台裏まで移動する。
舞台裏は必要最低限の人員のみが同行を許される最後の空間だ。
それは大人数で行っては準備を行うスタッフの通行に邪魔になるかもしれない、という運営側の判断だろう。
ちひろさんと麗さんは、快く俺達を送り出してくれた。
合同フェスは生中継でテレビ放送されているため、彼女達は携帯電話でテレビ視聴をするはずだ。
そんな二人の思いを背に受けて歩き出していると。
ふと、遠くから静かな音色が聞こえた。
――聞き覚えのある曲。
咄嗟に俺はコートに四つ折りにされて少し形が崩れた紙を取り出すと、それを破かさないようにゆっくりと開く。
「……ゆかりか」
その紙とは、出場者のリストや順番などのスケジュールが載せられた関係者向けの紙面であった。
リハ―サル前の打ち合わせの時に配布された物と同一である。
「ということは、次は私なんですね」
今パフォーマンスをしているのがゆかりとなると、間違いなく次は翠だ。
それを知っても翠は全く慌てること無く、ただ歩くことが今の仕事なのだと言わんばかりにそのまま歩みを進めていた。
時折挨拶と共に駆け抜けていくスタッフを眺めながら、舞台裏に向かって俺達は歩く。
忙しなく動くのはスケジュールをギリギリまで詰め込んでいるからなのだろう、たった今通り抜けて行った若い男性スタッフは新人なのか、何かの紙と前方を交互に見ながら必死な形相をしていた。
それもこれも、この合同フェスをより快適に、より品高く運営するための行動なのだろう。
全ては成功のために、ひとりひとりが皆休むこと無く動いている。
俺達ができることは、そんな彼らを労うために一々呼び止めるのではなく、合同フェスの名に恥じないパフォーマンスをすることだ。
一つ歩くごとに一つ捉え様のない何かを思い浮かべながら、かつ、かつ、と音を鳴らして俺達は足を前に出し続けていた。
「――なんだかこの通路、階段みたいです」
別段饒舌になる事もなく、二人で小さく響く歌を聞きながら歩いていると、視線を前に向けたまま不意に翠が呟いた。
通路なのに階段とはどういう事なのだろうか。
正直に言えば、俺はもう本番の事や今までの事の回想で頭が絡まっており、意味を推察する程の余裕がなかったのである。
恥も外聞もなく、そのままの意味を以て訊き返す。
そんな気の抜けた回答だったからなのか、翠は、ふふ、と笑って視線を上にあげた。
「思えば最初の頃からでしたね。私の事をシンデレラにすると言い出したのは」
彼女の言葉に、混雑していた意識の渦が切断される。
「…そんな事もあったなあ」
明瞭になった意識が、俺を苦笑させた。
シンデレラ。
何とも気恥ずかしい言葉なのは今でも重々理解しているつもりだが、どういう訳か俺は翠にそう言ってしまったのである。
そもそも、それらを口にするきっかけになったのは事務所の名前であって俺が考えた事じゃないんだ、と心中で言い訳をした。
とすればだ、彼女が階段と表現したのは絵本の中での話の事だろう。
舞台へと赴く翠を、城へと参るシンデレラと重ねあわせたのだ。
「でも、話通りのシンデレラじゃなくなってしまったな」
絵本の中の彼女は階段を昇る時、隣には誰もいないが、現実の彼女は違う。
舞台では一人だが、その隣には見えずとも俺が居るのだ。
「その通りでなくてもいいんです。Pさんが居る、それが私をシンデレラにしてくれた魔法なんですから……そうでしょう?」
はは、と小さく笑ってやる。
「まあ、そういう話でも悪くないか」
不意に翠の頭に手を置こうとして、強引に引っ込める。
せっかくセットした綺麗な髪を無遠慮な手で崩したくはない。
翠は俺が当初描いていたそのシンデレラにはならなかったし、俺も理想の魔法使いにはなれなかった。
だが、それも含めて、俺達が昇る階段なのだろう。
漫画のようにトントン拍子と進むには程遠いものの、階段を上がって目指すは舞踏会。
そこで参加する人全てに翠の存在を知らしめて初めて物語は成立する。
「…それは、終わったらお願いしますね」
俺の所在不明の手に気づいた翠が、こちらを向いてにこり、と笑う。
「任せとけ」
はっきり言って緊張が消えることは全くないのだが、彼女の笑顔だけはそれでも俺を沈めてくれたのだった。
*
曲の終わりは、出番への接近という事実となって目の前に表れる。
転調からのラストのサビは、ゆかりの持つ圧倒的な声量によって絢爛に修飾され、この声を聞く誰もが心を震わせる、華々しい終わりを迎えていた。
「……リベンジ完了、か」
ゆかりの言葉を聞きながら俺は小さく呟く。
別の音に掻き消されたのかこの声は翠には聞こえていなかったようで、隣に座る彼女は目を閉じてそっと静かにその空気を感じていた。
――別の音。
その音とは、声でも、楽器から放たれる音でもない。
人の両手でつくり上げる、壮大な拍手であった。
ゆかりの歌声に負けず劣らず、周囲の空気を震わせ、そこら辺一体がひしめき合っているかのような異様な大きさの音だ。
壁によって若干音が減衰している事を加味してもかなりの音量が俺達の耳に入ってくる。
きっとゆかり本人が味わうその拍手は俺達の今感じている物よりも遥かに膨大であることだろう。
ライブと言うよりもむしろオーケストラのコンサートのような、全てを褒めちぎらんとする音達は、ゆかりの心を果てしなく満たしているに違いない。
…そんな彼女について考えていると、成功、という文字がふと頭に浮かんだ。
ゆかりを語る上では、決して忘れることの出来ない悲しい物語がある。
期待を持ってアイドルの門を叩き、必死に練習して、そして上層部の画策により受ける必要のなかった屈辱の限りを味わい、どん底に叩き落された。
しかし尊敬する人間によって再び立ち上がり、諦めることなく続けることで、再登場を果たすことが出来たのである。
これは間違いなくサクセス・ストーリーと呼ぶべき存在だろう。
彼女が何を感じてここまで過ごし、これからどんな事を考えて過ごしていくのか、本人でも担当プロデューサーでもない俺には到底推測できようにない。
だが、完成したということに変わりはないのだ。
紆余曲折の末、彼女の物語は一つの完結、一つの区切りを迎えることが出来たのである。
ならば、翠はどうか。
確かにゆかり程の強い意志は持ってなかったのかもしれないし、耐え難い屈辱というのも翠はまだ経験していない。
この先起こるであろう失敗や挫折も、アイドルとして生きる限り幾度と無く彼女を襲うのだろう。
大きくなればなるほど、それらの規模は一層広くなっていく。
ごく僅かの人にしか影響を与えなかったこの前のトラブルも、彼女が成長していけば損害を被る人は莫大な数になるのだ。
それらを未だ身をもって知らないということは、それだけで人間として考えるなら平凡と言われても仕方がない。
しかし、彼女にはアイドルを通じて得た沢山の思いがある。
寂れた事務所の中で、ごく小さな人間関係の中で生まれた彼女の純粋な心は、鋭くはないが人を惹きつける何かがあるのだ。
この俺達の軌跡がどういう閉幕を迎えるのか、それはもうすぐわかってしまう。
成功か、失敗か、続行か、終了か。
あらゆるエンディングの形を思い浮かべながらも、願わくば彼女の笑顔を失わない結果になりますように、と心に浮かべた。
「――あ、翠ちゃん」
天を仰ぎ、来るべき時間を物言わず待っていると、不意に細い声が聞こえた。
この声を間違えるような事は絶対にない。
「……お疲れ様です、ゆかりさん」
翠は目を開けて、ステージから戻ってきた水本ゆかりに深々と礼をした。
傍目にはただの挨拶のようにしか見えないが、翠は誠心誠意を持って彼女を労っているつもりなのだろう。
ゆかりは、彼女の担当プロデューサーに肩を抱かれ、かつて見たことのないぐらいに疲弊した表情であったからだ。
実時間にしてたった少しだけの物であろうとも、大勢の人に視線を浴びせられながら、気温などの悪い環境条件の中で全身全霊で以て歌い尽くせば、そうなるのも不思議ではない。
更に、ここは彼女にとって半ばトラウマの源に近い場所だ。
無事乗り越えたという安堵感も、彼女を疲労困憊にさせた原因だろう。
翠もそれが解っているから、仕事人としての礼に加えて、本人自身の思いを込めて頭を下げたのだった。
彼女のパフォーマンスはもうこれで終了を迎えた。
なのでこのまま控え室に戻ってひとまずの休息を取るのではないかと思っていたら、何やらゆかりがプロデューサーである彼に何かを囁くと、彼女は隣にある椅子に座り、大きく息を吐いてぐったりと固い背もたれに体重を預けたのである。
疲れた体でここにわざわざ座る必要性は感じられない。
とすると、そうしないのには何らかの理由があるのだろうか。
彼はゆかりの肩から手を離すと彼女から遠ざかり、反対側である俺の隣の椅子に座った。
アイドル同士、プロデューサー同士で隣に座った状態である。
ゆかりのプロデューサーの表情は決して楽観的とは言えないし、かといって怒りに震えているという訳でもなかった。
どこか神妙な面持ち、というべきだろうか。
ステージの照明は一旦落とされて次の順番である翠のパフォーマンスの準備がされ始めている。
その最中、彼は少しの間遠くに焦点を合わせていると、ふと俯き呟いた。
「…これがゆかりの実力だ」
既にステージではパフォーマンスが終了した事から、観客たちのざわめきや物を運ぶ音などが周囲に散っている。
それでも、彼の言葉は何故かすっと胸に入り込んできたのだ。
――その言葉で、彼の思いが全てわかったような気がする。
きっと、後悔という文字がずっと彼の頭の中にあったのだと俺は思う。
例え同じ事務所の中でも、担当プロデューサーが違えばそのアイドルと接する機会というのはそこまで多くはならない。
それが彼ほどの巨大事務所で、更に経営に執心な上層部であったなら尚更だろう。
休みの日に事務所に遊びに来てくつろぐ、だなんて事が実現する訳がない。
だからこそ、彼は悔やんだ。
距離で言えば近くに居たのに、守り、育むべきゆかり達を見殺しにしてしまったのだと感じてしまったのである。
無論、彼に責任はない。
責めるべきは、彼女達にそんな無理無茶無策の指示を出した上の者達であり、フォローすることを放棄した彼女達の元プロデューサーだろう。
しかし、それでも彼は酷く後悔した。
その事務所に居た人間の中で、誰よりも彼女を心配したのだ。
理由については察する他ないのだが、恐らく彼のプロデューサーとして働く意義に繋がっているのかもしれない。
成り行きですることとなった俺とは全く逆の何かであろう。
彼には強い意志があった。
リベンジを果たさせてやりたい。
あんな心にもない非難を受けることのないような、最高のアイドルにしてみせる。
……彼女に見せる無愛想な表情の裏には、煮えたぎる魂がふつふつと命を鼓動させていたのだ。
「次、頑張ってね」
まさに必死のパフォーマンスを終えた後に楽しく雑談など出来るはずもなく、現れるべくして現れた沈黙の、そんな無言を区切るかのように一つ、ゆかりは言った。
本人だって疲れているはずなのに、出てきた言葉は翠を鼓舞するものであったのだ。
俺は、彼らに何も言えない。
まだそんな高みを経験していない俺が軽々しく意見する事は、彼らの積み上げてきた実績や苦しみを侮辱する事に他ならないからだ。
だから、ただ黙って彼の雰囲気を感じた。
幾千、いや、幾万の思いを彼らは交わしてここまで来たのだろう。
俺達は、そこに辿り着けるのか。
彼らの持つ信頼関係を、俺達が上を行くことは可能なのだろうか。
「……はい」
そんなゆかりの姿を一瞥してから、翠は小さく頷いた。
翠も俺と似たような事を考えているのかもしれない。
何故なら、集中することの難しさ、努力することの意味を彼女は知っているからだ。
故に、いつものように元気な声で返事をすることができなかったのである。
そんな声を聞いたゆかりは、物言わずそっと翠の手を握る。
突然の事に翠は少し驚いたが、それをするゆかりの表情を見て何かを悟ったらしい、 翠の表情がきゅっと引き締まったような気がした。
そのまましばらく再びの沈黙が訪れていたが、パフォーマンスを終えた者がいつまでも舞台裏に留まっていは他の者の迷惑になるだろう、と判断したゆかりのプロデューサーはふと立ち上がると、ゆかりの肩を叩いて控え室に誘導する。
ゆかりもそれに抵抗せず素直に従い、翠から手を離すとそのまま舞台裏から立ち去って行ってしまった。
「…もうすぐなんですね」
二人の後ろ姿を見届けたことで舞い降りた俺達の沈黙は、翠の呟きによって掻き消された。
彼女はゆかりに握られた手をじっと見つめている。
ゆかりのパフォーマンス終了から数分もたてば、舞台もいよいよ完成に近づいていく。
舞台裏を通るスタッフの数も瞬く間に減っていき、あとはセッティングの微調整ぐらいなのだろう、恐らく表舞台では暗い中必死に位置を動かしているに違いない。
「ああ、もうすぐだ」
隣に座るドレス姿の翠を一瞥すると、俺はぼんやりと仰ぎながら返した。
――本当にこの一年は色々あった。
思えば、仕事一つ取るのにどれだけ心労が溜まったのだろうか、と不意に記憶が蘇る。
ちひろさんから渡された営業先のリストを穴が空くほど見て、初夏の頃で暑くなり始めていた空の下、あちらこちらへと走り回っていたっけな。
翠も同様で、女子高生からアイドルへ、そんな急転直下な怒涛の一年を思い出しているのかもしれない。
「でも、これが終わりじゃないからな」
しかし、これはただのプロローグである。
あくまで、翠がアイドルという物語の開幕にたどり着くまでの外伝に過ぎないのだ。
一年を締めくくり、来年から始まるアイドル二年目において更なる飛躍を約束するためには、まずはこの序章を終わらせなければいけない。
いつか来るであろう翠のアイドル人生の終わりは、まだまだ先なのだ。
遠くを眺めていた翠は、俺の声を聞いてこちらを振り返る。
俺がそう言うと予想していたのか、翠は驚きもせず、怒りもせず、ただ平凡に、素直に、純粋に、くすり、と笑った。
そして彼女は言う。
「勿論です。…あなたが射た矢は、こんな所では止まりませんから」
らしいな、と、俺もつられて笑ってしまった。
――司会者の声が会場に響き渡ると、案内のスタッフが翠を誘導する。
そこに俺がついていくことはできない。
ステージに行けば、彼女だけだからだ。
スタッフの指示により立ち上がった翠は、ステージへ歩き出す前に踵を返してこちらを振り向いた。
ここで交わすべき言葉は、弱音でも意気込みでも虚勢でもなければ約束でもない。
「…いってらっしゃい」
下らない画策を講じはせず、ただいつものように俺は言った。
これからも、ずっと続いていけるように。
これからも、彼女の隣に居られるように。
俺の素朴な言葉を聞いて彼女は嬉しそうに微笑み、返事をする。
「――いってきます!」
空色のドレス姿で笑う彼女は、ずっと少女的で、それでいてアイドルそのものの顔であった。
*
明かりのないステージに一つ、ピアノの打音が流れ始める。
同時に、ざわざわとしていた観客の声がピタリと止まった。
闇の中で、演奏が広がりを見せていく。
ピアノがベースを、ベースがドラムを、ドラムがシンセを誘導する、落ち着いた伴奏が、冬の夜空を彩り始めた。
たった五つにも満たない少ない音源で、シンプルな音色を響かせている。
相変わらずステージに照明は灯されていない。
伴奏を聞く観客たちも、何事か、ステージの故障かと周囲を見渡し始めていた。
それでも止まらずに伴奏は続く。
まるで観客のことなど全く気にしていないかのように流れるピアノは、絶対的な孤独感を生み出していた。
それが十数秒続いただろうか。
伴奏が僅かな溜めを作ったその瞬間、突如ステージの照明が全て明かりを灯したのだ。
…その映しだされた光景に、会場が一瞬どよめく。
一体何があったのか、という感想を抱いたに違いない。
それもそのはず、先程まで見え隠れしていたはずの鉄骨が見えた生命感のない舞台が、いきなり真新しい洋館へと様変わりしていたのだから。
その中のスポットライトが、手を胸に抱いた翠を映す。
黒き夜空の中で、空色のドレスが一際異彩を放つ。
響く音色に乗せられて、アイドル・水野翠のパフォーマンスが始まった。
ゆらり、ゆらり。
一つの楽器が増えたかのような、伸びやかで、しっとりとしていながらも感情を持った強い声。
ピアノやギターと手をつなぎ、一緒になって歌を紡ぐような、暗い夜の寂しい雰囲気を十二分に彩っていた。
…俺自身、こんな彼女の声を聞いたのは初めてかもしれない。
やはり雰囲気による補正がかかっているからなのだろうか、レッスン室やレコーディングスタジオで聞いた時よりも、遥かに感情が強く込められている。
そう感じてしまうのは、遠くでゆっくりと舞う翠の表情を舞台裏からは見ることが出来ないのに、声だけで、彼女が何を思っているのかがありありと伝わってくるからだ。
ロック・バラード特有の強く、寂しさを持った音階に合わせるように、翠はリリックをありのまま観客に手渡していく。
ギターを抑えて、ピアノと鈍く響くベースが中心のAメロから、次第に音色が加速し始めるBメロに移る。
悲しみがメインとなっていた感情が、新たな展開を迎えるためにスピードを増していく。
前の雰囲気を残しつつ物語の主人公の気持ちが変わり始めたのを、観客は見逃してはいなかった。
じっと佇んでメロディを聞くだけだった観客が、右に左に、体をゆっくりと揺らし始めたのだ。
それはリズムの鼓動であり、ドラムの刻印、ベースの波であった。
観客の心が、翠の歌によって乗せられた証拠だ。
その歌に『乗る価値がある』と思わせたのである。
前よりも早いテンポでBメロが進んで徐々に音調が上がっていくと、そのメロディも終わりを告げ、ついにサビが訪れる。
ピアノの勢いが更に増し、それを支えるようにドラムや先程まで抑えられていたギターが途端に強くなる。
サビは、流麗な劇場であった。
ステージの照明やレーザーが舞台を未知の物に姿を変えさせ、宙に浮かぶ空色のグラデーションが、淋しげな洋館の部屋の中で流星群を導き出す。
流れ、舞い、訴える。
翠は仕立てあげられた現実の絵本の中に入りきり、絶えぬ歌を続けた。
すると、ここで翠にとって思わぬ変化が起きる。
――暗かったはずの観客席から、ぼんやりとした青い色が突如出現したのだ。
そしてぽつんと揺れていたそれらは、瞬く間に観客席を覆い尽くしたのである。
…その正体は、青色に光るサイリウムだった。
観客の手に持っていたサイリウムが、この時振られるようになったのだ。
しかし、何故このタイミングで観客が振り始めたのか。
俺はその理由を、考えるまでもなくはっきりと理解していた。
――計画。
実は、このサイリウムが現れる現象は、俺の計画によるものであった。
もう分かるとは思うが、合同フェス以前、リハーサル前の打ち合わせの時に、俺はこのステージをインパクトのあるものにしようと提案した。
その時にこの計画についても運営の人に話しておいたのだ。
そして合同フェス当日、予め運営側から許可をもらって、夜の部の入場ゲートに俺とちひろさん、そして会長とその偶然手伝ってくれる商店街の人が集まり、ゲートを通る入場者にサイリウムと応援のためのチラシを頒布したのである。
そのチラシに記載したのはたったの一言で、『水野翠のパフォーマンスを楽しんで頂けましたら、その時はこのサイリウムを振って下さい』というものだった。
余計な恩情は必要なく、ただ純粋に観客たちに判断を仰いだのである。
計画とは、単純に言えば『翠の味方を増やす』という目的のために作られた。
ゆかりの例があることを考慮すれば、見る者が敵対的であるかどうかというものは本人の精神的負担や恐怖に著しく影響を与えているのは間違いない。
だとすれば、どちらに転ぶかわからず歌うよりも、はっきりと味方であると判別出来たほうが翠もやりやすいのではないか、という事である。
ならば本人に伝えなかったのはどうしてかというと、もしこの計画が失敗、つまり誰も渡されたサイリウムを降らなかった場合、計画を知っていたら翠はそれを見て失意に陥る可能性があったからだ。
振れば味方、振らなければ敵と考えるよりも、翠のために振ってくれていると捉えたほうがリスクが少ないのである。
普通であればこんなことはまず起こり得ない。
観客全員が同じ青色のサイリウムを持っている事などありえないからだ。
そして、振られたサイリウムの色は全て青色。
だからこそ、例え翠に伝えなくとも彼女ならその意図や意味を絶対に理解できるのである。
舞台で舞う彼女は、その光景を見て一層動きを大胆に魅せていた。
――舞台裏の僅かな隙間から覗くことができる会場は、かつてない程に異質な雰囲気を醸し出していた。
そこはかとない一体感、ブレることのない全体感が俺の心を貫いていく。
冬の闇夜に、綺麗な青が形を作る。
それは翠の纏うドレスに凪がれるように右へ揺れ、天高く振り上げた手に集うように左に揺れ。
歌声に乗せて、会場の一面を彩っていく。
それは、まるで風に凪ぐ光の絨毯。
彼女によって編み出された――翠色の絨毯であった。
「ああ……ああ……!」
その光景を眺めていると、捉え用のない莫大な感情が溢れ、声が漏れ出る。
俺の心に波打った感動が、涙となって世に顕現したのだ。
ぼやけ始める視界が、より一層彼女の歌を心に取り込み始めていった。
その声に意味は無い。意味を持てない。
どう表現すればいい?
ただの女子高生で、強くあろうとしても自信が持てず、元気の裏に莫大な不安を纏わせていた少女が、今、確実にアイドルに変身しているのだ。
幾度と無くすれ違って、互いに果てしなく悲しみ、それでも一緒に前に進んできた人生がこの景色となって映しだされている。
尽きず溢れ出る感情を抑えられないまま、やがて俺は激しく揺さぶられる無意識が一つの確信となって心に宿った。
……間違いなく彼女は観客を魅了している、と!
未知の世界を観客達に知らしめる一番が終わり、また静かにピアノが静寂を抑えると、翠は集中を途切れせること無く二番を歌い始める。
一番と似たようなリズム展開にも関わらず、観客が振る青の毛糸はほどけない。
もう心配はない。
もう不安はない。
「…君が主役だ」
そう呟く俺の瞳は、翠色の絨毯で彩られた会場をただ無心に心へ焼き写していた。
*
「ふう……いくら部活で慣れているとはいえ、東京でのこの時期は冷えますね」
「はい、お茶どうぞ。体を温めてね」
ソファに座る翠にちひろさんが温かいお茶を渡すと、彼女は心底嬉しそうな表情をして飲み始めた。
既に数時間、この部屋の暖房で暖められた俺達とは違うのだからそんな顔をするのも無理はない、と残りの冷茶を胃に流しみながら俺は彼女達を眺めていた。
――もう今年も終わりという頃。
まだまだ弱小事務所の所属である俺達に仕事納めという概念が無いのだと知り若干の絶望感に心を苛まれながらも、相変わらずパソコンの液晶やスケジュール帳と睨めっこをする今日。
いつも通りの仕事をする俺達と同様に、翠も――盛大な歓声に見送られたのが昨日であったにも関わらず――いつも通りに事務所に現れたのだ。
微かに予想していたとはいえ、そんな調子で大丈夫なのか、と心配にも思ってしまうが、彼女はちひろさんと何気ない会話をして楽しんでいるようであった。
…あの日。
次第に音源が消失し始め、再び孤独になったピアノの音がついに姿を消した時、観客席からは期待以上の歓声が巻き起こった。
成功したのだ。
翠は、合同フェスにふさわしい人物であれたのである。
その声援を背に受けながら再び舞台裏に戻ってきた翠の姿を俺が見た時には、彼女は目一杯に涙を溜め込んでいた。
自身の歌に流されたのか、それとも無事終わったことに感極まったのかは分からないが、舞台裏でただ感動していた俺を見つけるやいなや胸に飛び込んで来たのだ。
その時、微かにデジャヴを感じた。
……確か学園祭の時だったか。
ライブが終ってテンションが上った翠は、普段ならありえないだろうに俺に抱きついてきたのだ。
あれはきっと、嬉しさの形だろう。
しかし、今の翠は俺の胸元で小さく声を上げて泣いた。
メイクが崩れるだろうに、そんなことは一つも気にしないで、ただ嗚咽を漏らしながら俺の鼓動を聞いていたのである。
翠がアイドルから少女にふと戻った…魔法が解けた瞬間だ。
薄く綺麗な仮面を剥がして現れた彼女の表情は、ただの少女であった。
そんな翠の素顔を見て俺は、おかえり、と一つ言い、彼女の開いた背中に手を回して翠を抱くと、心が落ち着くまでそっと彼女の頭を撫でた。
これもきっと、嬉しさの形なのだろう。
その涙は、悪い物ではない。
それだけははっきりとわかっていたので、余計なことはせずその時間をただ過ごしていた。
それからはというものの、まるで休む暇が無かった。
合同フェスの日と同時に発売した翠のデビュー・シングルは当日こそ売上は伸びなかったものの、翌朝のニュースや新聞の芸能記事で合同フェスの事が取り上げられると、瞬く間にCDが売れていき、期待薄で入荷数を少なくしていた都内の一部店舗では売り切れの貼り紙を出さなければならなかった程だ。
問い合わせも、勝手に休業しているにも関わらず昨日は俺の携帯に、そして翌日である今日には事務所の電話にも一時絶え間なく着信していた。
おかげで来年の始めですら予定は埋まり、一ヶ月先までは合同フェスに関する話題で翠も引っ張りだことなっている。
無論三が日くらいは愛知に帰らせて家族の時間を取らせつつ、一方で愛知の仕事をさせるつもりではいるが、それも束の間で、終わればすぐに東京での仕事が待っている。
それ程に、新人があの場に立つということが異様であるということと、観客の心を掴む事が難しいのだ。
そう考えると、翠の出した結果による影響は十分に納得できるものであった。
「今日の仕事は…テレビ局でゲストでしたね」
僅かながらに暖まったであろう翠は、小さな鞄の中から落ち着いた色のスケジュール帳を取り出すと、今日の日程の欄を指でなぞり、俺に確認する。
これも急遽決まった物で、朝のワイドショーにてゲストとして生出演が決まったのだ。
本来であればオフであったろうに、無残にも俺のスケジュール帳に新し目の黒いインクでその事が記されている。
翠の疲労を考慮して予定を決めあぐねていたが、彼女の了解により入れることにしたのだ。
「時間はまだ余裕があるけど…送ろうか?」
つい先程届いたメールをマウスクリックで返信ボタンを押した所で、パソコンをデスクトップ画面に変えてから翠に訊ねる。
今日の予定であるテレビ局は距離的にはそう遠くはないが、俺もかつてない忙しさからの現実逃避がてら送るのも悪くないと考えていた。
しかし、彼女は俺の心を見抜いていたようで、いいえ、と一つ答えて続ける。
「一人でも大丈夫ですよ。それに、一緒に休憩したいですから」
……残念ながら、俺の休憩は随分先になりそうだ。
「元気ですね、翠ちゃん」
がちゃん、と相変わらず歪な音をあげて閉まるドアを眺めながら、ちひろさんはトレイを胸に抱きながら微笑んだ。
翠はこの件で自信がついたのか、近場であれば一人で仕事先に行くと言い始めた。
当然ではあるが、気象条件が悪かったり遠かったりなどは絶対に俺が送るようにしているし、そうでなくともアイドルが一人街中をうろつくのはあまりよろしくないので、これからも俺が積極的に送迎するつもりである。
しかしそれでも一人で行くと言ったのは、それがあんまりわかっていないのか、独り立ちしたいお年頃なのか。
「逆にこっちはしおれていくばかりですけどね」
仕事と聞けばどことなく力が体から漏洩する程だ。
「ほら、大晦日はお休みなんですから頑張りましょうよ」
ひとまず連絡を頂いた営業先を今年中に全部回ってから、ようやく俺達の仕事納めがやってくるのである。
「はあ……頑張ります。それじゃ、俺も営業行ってきますね」
ふと壁掛け時計を見れば、動くべき時間に差し迫ろうかという頃になっていた。
俺はパソコンに起動しているプログラムを全て終了させると、印刷した資料を整理して鞄に詰め込む。
「はい、車のキーです。いってらっしゃい」
「いってきます。帰りは翠と一緒に戻ってきますね」
別の場所に保管されている車のキーをちひろさんから受け取ると、汚れの目立ち始めるコートを羽織って事務所を出た。
ここは俺の家ではないのに、こんな人として当たり前の挨拶をする事がどことなく楽しいように思える。
*
「はあ…寒い、寒い」
外気に晒したままの素手をこすりながら階段を降りて地上に立つと、裏に回って決められた駐車スペースに行く。
そこには見慣れた車があった。
もはや運転し慣れた古臭く性能の低いかつての白さを失った社用車だ。
雪こそまだ降っていないものの、外は現代人には耐え難い寒さがたむろっていた。
乾燥した冷気が肌を撫でる度、体が無意識に振動する。
これを風情と呼ぶべきか不便と呼ぶべきか、そんなくだらない事を考えながらキーをさし、そのまま車に乗り込んだ。
車内も当然ながら気温が低く、エンジンをかけるとすぐにエアコンを最強にする。
とにかく営業に回っている内に車を暖めて、昼ごろ乗り込んでくるであろう翠が寒さに震えないようにしないと。
この時期に風邪を引いてしまったらかなりの損失だし、俺も悲しいからな。
それに大仕事を終えてもオフを取らないで平常運行となればまた体調を崩す可能性だってある。
場を改めての打ち上げもまだ行なっていないのだから、今日か明日にでも時間をとろうか。
車のエンジンが始動すると共に車内に鳴り響く音質の悪いラジオからは、昨日開催された合同フェスについての話題が取り上げられている。
もしかしたら翠の事も聞けるかもしれない、と期待しつつ、ブレーキペダルに足を置いた。
「営業先は…と、このルートだな」
今日の予定先を古臭い車に似合わないカーナビに入力して選択する。
余裕を持って移動しても、このぐらいの件数なら十分な時間を確保できるはずだ。
そして何より、目的地を巡っていればその内暖かくもなるだろう。
シートベルトをしめていると、ふと翠の声が頭に響き渡った。
――おはようございます。お疲れ様です。
いつも聞く言葉であり、慣れ親しんだ言葉だ。
「……よし、頑張るか」
願わくば、俺はいつまでもその言葉を聞いていたい。
そんな小さな繋がりを、そんな当たり前の日々をこれからも続けるために、俺は今日も営業を始めたのであった。
――了
「改めまして……あけましておめでとうございます、Pさん」
この寒さですら、今日であれば心なしか気持ちよくなってしまう正月のある日。
いや、正確に言えば三が日の二日目、元旦の翌日である。
空は正月にふさわしい晴れ晴れとしたものでいて、ここを訪れる人全てに本年の幸福を授けてもらえそうな雰囲気すら感じられた。
俺達は今、人で賑わう神社の中に居る。
というのも、今日は新春の特別番組で生放送に先程まで出演していたからだ。
この神社は有名な初詣スポットらしく、老若男女問わずあらゆる年代の人間が足繁くここを訪れては賽銭箱や出店を行ったり来たりしており、通常では閑散とした神聖な雰囲気の神社もここ最近に限っては遊園地にでもなったかのようであった。
「あけましておめでとう、翠」
今現在である午前にロケ地であるここに来て、共演者と歩きながら新年の目標を掲げ合ったりたりおみくじの結果を争ったり、また出店を見て回ってぶらぶらするなどの仕事とは思えない何とも和やかな空気をお茶の間にお届けしていた。
三十分の枠で存分にこの地域の魅力を語れば、今日の仕事は終了である。
共演者やスタッフに挨拶をした後はそれぞれ解散となり、殆どの人が次の仕事のために移動する中、俺達はもう予定がないので二人取り残されたという形である。
カメラがあると人は彼女や他の共演者を芸能人として視認するのだが、一度それらが全て無くなってしまうと、この喧騒の中では彼女が翠であることを確信する人はいなくなってしまった。
人混みに参って道から外れた場所に俺達が移動しても誰も見向きもしないあたり、やはりイメージや連想というのは人の判断に大きな影響を与えているのだな、と思った。
「せっかく来たんですから…初詣、しませんか?」
「翠はもう初じゃなくなってるけどな」
くく、と引き笑うと、翠は、もう、と息を吐いた。
当然ながら翠の言いたいことはわかっている。
何も初詣というのは個人にこだわった話ではない。
誰と行ったのか、という感情的な側面も存在するのである。
時間や思い出を共有する感覚。彼女にしてみれば、こうして二人で詣でることが初詣なのだ。
「まあ、念の為に……と」
「ひぁ」
鞄から帽子を取り出して翠に被せると、驚いたのか彼女は面白い声を上げた。
放送をするにあたって許可は取っているものの、それは仕事に対してのものだけだ。
それ以降での行動で神社内を混乱させてしまうのはいけないことだから、と軽い変装をさせたのである。
「じゃあ行こうか」
「はい……ふふ」
帽子の唾を抑えて頭に深くかぶると、影の入った顔の中、視線を俺に向けて翠は笑う。
はっきり言ってしまえばこの程度じゃ完全な隠蔽は不可能なのだが、俺が初詣という場面に全く似つかわしくないスーツ姿である点を考慮すれば、プライベートのデート中であることなど誰も思わないことだろう。
無論、俺だってその通りなのだが、彼女だけは違うようで。
「はぐれないように、ですから」
腕は組まずとも横にピッタリと引っ付いて歩く翠の姿は、上品であるようで、どうにも子供染みていたのであった。
「熱いから気をつけてくれよ」
出店で購入した湯気とソースの香りが漂うたこ焼きを翠に差し出す。
焼きたてのそれからは大層涎が湧き出てくるほどに美味しそうな雰囲気が出ていた。
――例えこういう特別な場であろうとも、することは他の人と大差がない。
神様に苦笑しつつも二度目の参拝を行なって、二人でおみくじを引いて、結果を見せ合ってまだ見ぬ今年を予想する。
そして飲み物と出店で食べ物を買って、おもむろに食べ歩きを始める。
神様にお参りをするというよりかは初詣というイベントを楽しむような気さえ感じていた。
「ありがとうございます――はふっ」
熱いたこ焼きを一口で丸呑みするなど到底不可能で、翠は柔らかく焼けた皮からついばむように口に運んだ。
「はは、美味そうに食べるなあ」
目を閉じて熱さとおいしさに感心する彼女の表情は、周囲に蔓延る寒さも相まってかほんのりと紅潮していた。
以前グルメ番組でリポーターを務めたこともある翠だが、食べ方に気をつけたり上手い言い回しをしようと考えていたりする風もない。
それが嘘偽り無い自然体であるという印象を視聴者に与えられるのだろう、おいしいです、という翠の言葉はとても素直であった。
「俺も腹が減ったな。次食べていいか?」
そんな姿を見ていれば、空いていようとなかろうと、無意識下で胃が鼓動をするに決まっている。
いや、実際に朝食を少しか食べずにここまで来ており、俺の満腹度はたっぷり仕事を終えた後の晩御飯前位にまで低下しているのだから、食べたいと思うのは無理もないだろう。
「いいですよ――あ」
渡していた六個入りのたこ焼きケースを俺に再び返そうと手を伸ばしたかと思えば、すんでのところで翠はその手を引っ込めた。
何かを思いついたのだろうか。
「どうかしたか?」
楽しそうな表情をしていた矢先に急に考えこみ始めたのだから、当然彼女の思案している内容が気になってしまい、顔を覗き込むようにして訊ねた。
「……よし」
「よし?」
恐らくこの神社は、初詣シーズンが終わるまでずっとこの喧騒に包まれながら時間を過ごすのだろう。
そんな賑やかさから隔離された翠が推察できない掛け声を呟くと、その瞬間、右手に持ったたこ焼きを俺の口に近づけたのだ。
爪楊枝によって持ち上げられたたこ焼きが顔に近づくことによってより強いソースのいい香りが鼻を刺激する。
一体何が起こったのか頭が理解する前に、翠はたったの一言で説明してみせた。
「はい、あーん……です」
……俺の顔が自覚できる程に赤くなったのは、今日の寒さのせいにしておきたい。
*
「あら、ちょうどいい所に」
「お母さん?」
初詣独特の雰囲気を存分に楽しんだ後、俺達は翠の家へと向かうと、玄関にて出会い頭に彼女の母親と遭遇する。
今日は翠の両親はどちらも休日で、仕事に出かける翠を見送る時も『今日は一日ゆっくりするの』と母親は言っていたのだが、今の彼女の様相はまるで余所行きであった。
「……ふふ、聞いてよ翠。あのね――」
こうなるまでに至った理由を母親は恥ずかしげもなく言ってのける。
実は、俺が迎えに行って仕事に向かった後、父親から旅行に行こう、と言われたらしい。
近場の温泉地に日帰りなのだが既にツアーも予約していたらしく、断る理由もない母親は快諾して即座に準備を始めたのであった。
「もう、お父さんったら、『久しぶりにお前と二人で居たい』なんて言われちゃったら断れないじゃない、ふふ」
母親の表情は、かつて見たことのない程の浮かれっぷりである。
それも夫婦共に良好な関係であることの象徴に違いない。
思うに、結果的にいきなり誘うことになったのも、父親もかなり勇気の要ることだったからなのだろう。
あの体格の良い強面の父親が照れくさそうにするという場面が全く想像できないのだが、これは母親だけに見せる一面なのかもしれない。
「ということで今から出発して帰りは遅くなるから、翠はお留守番よろしくね」
丁度いい所、というのはこういう理由であった。
当然翠にもその事は知らされていなかったらしく、彼女は母親の話を聞いて顔をひきつらせて小さく笑っている。
彼女にもこんな表情をすることがあるのだな、と蚊帳の外に逃げ出した俺の意識が一つ呟いた。
まあ、突然ではあったが両親が旅行で家を開けるから娘に留守番を任せる、という事自体におかしな点がある訳ではない。
時期を除けば事情としてはよくある理由だろう。
その後一つ二つ会話をしていると、気恥ずかしさを必死に隠して体面を保とうとしている父親が家から出て来ると、あとは頼んだぞ、という言葉を残してこの家を後にしていった。
父親の足取りがやけに軽々しかったのは言うまでもない。
「……ええと」
瞬く間に過ぎていった両親を遠い目で見送っていた翠は、困ったように呟いて俺を見るが、その頬はどこかこわばっていた。
「仲のいい両親だな…」
残念ながら俺にはそう答えることしかできない。
実際仲が悪いよりかは良い方がいいだろうし、妻を改まって旅行に誘うのに必要な勇気を得るのが難しいことは、独身の俺にも何となく解るからだ。
だからこそ、彼らの娘である翠の気持ちが居た堪れないのである。
しかし、突然であったとはいえ一人で留守番をすることぐらい、どの過程でも普通に起こり得る事だから、翠は今日一日ゆっくり休んでもらおうではないか。
家の中にご飯代を置いていると母親が言っていたし、翠も日常の家事ができない訳もない。
誰も気にしない一人の時間がもらえる、と考えれば随分良い話だ。
「じゃあ俺は――」
「あの!」
帰るから、という別れの言葉を告げようとした俺を、翠は語気を強めて遮った。
「どうした? 明日の仕事のことか?」
明日も地元のテレビ局で仕事が入っていて、それの確認だろうか、とスケジュール帳をスーツのポケットから取り出す。
しかし、翠は「違うんです」と否定する。
では何なのだろう、と続きの言葉を待つ俺に現れたのは久しぶりの感覚だった。
「よかったら……Pさんも一緒に、留守番してくれませんか?」
かつて俺の身を襲った微かな危機感。
無力化できたはずのそれは、震え続ける心臓を加速する一因となった。
*
――すみません、お待たせしました。
翠の部屋に招かれるやいなや、彼女は俺を残して立ち去っていってしまう。
そして後に戻ってきた時には、翠は二人分の飲み物と茶菓子が載せられた盆を持っていたのである。
「わざわざ悪いな」
「いえ。大丈夫ですよ」
にこり、と笑いながら、こん、こん、と小さな音を立ててテーブルへと彼女は順に置いていく。
戻っていったのはこれらを用意するためであったようだ。
プロデューサーとアイドルという仕事上の関係である以上に、人として互いに親密になっているはずなのだが、それであっても彼女は礼儀を忘れはしていない。
仕事先で購入したペットボトルを鞄の中にしまうと、俺の隣に座る彼女の横顔を見る。
少し視線を下げてテーブルの上のコップを眺めながら、何かを思案している様子だった。
さしずめ、何から話そうか、という事を考えているのだろう。
二人きりで話すことが過去どれくらいあったかというと、もはや数えられない程存在する。
しかし、それらは一つ一つが大事なもので、鮮明で、印象強く記憶に残されているのだ。
だから話が被らないように翠は話題を気遣ってくれているのだろう。
「それにしても、翠の部屋に入るのは久しぶりだけど変わってないな」
俺に対してそこまで配慮しなくともいいのに、と苦笑する一方で、ふと天井を仰ぐようにして呟いた。
彼女の部屋は一年経った今でも明確な変化は表れていないようだ。
ベッドやテーブルなど、大きな家具は初めて彼女の家に踏み込んだあの日に刻みつけた記憶と何ら相違はない。
「ですが私は随分と変わってしまいましたね。誰のせいでしょうか?」
「悪かったよ」
この部屋に、この家に、この世界には、俺たち以外に誰もいない。
そんな監視カメラから完全に逃れた状況が、二人の心の骨格を着実に溶かし始める。
それは翠の頭へと移した俺の手の所在にはっきりと表れていた。
「……本当に、変わってしまいました」
されるがままに髪を撫でられている翠は、俺の手の力に頭を軽く動かされながらそう呟く。
声色が、アイドルのものでは失くなっていた。
「変わったなあ。俺も、翠も……事務所も」
大きな変化が目の前に現れたのは、ついぞ昨日の事であった。
――事務所が大きくなりますよ!
ちひろさんからの連絡で、この小さな世界は崩壊へと道を歩み始めたのである。
事務所の場所は変わらない。
事務所の内装も変わらない。
ただ、来年度からは新たに数人のアイドルがシンデレラガールズ・プロダクションに所属することになったのだ。
合同フェスやテレビなどで活躍を見せる翠を見て、色んな所からこの事務所に応募が来たというのである。
別段応募などしていなかったのだが、この事務所で記憶から消されつつある社長からちひろさんへそう連絡が届いたらしい。
まだ顔も書類も見ていない少女達。
翠のように、辛く厳しい世界でも羽ばたいていく未来のアイドル達が来る。
それは、たった数人だけで作り上げられた拙くとも美しい世界が失くなるのと同義であった。
無論、事務所にとっては嬉しい事であるのに違いはない。
事務所としても活動初年度という今年はそれぞれのキャパシティなどを考慮してスカウトによる一人を専門的に育てていくという方針だったが、合同フェスによって翠の影響力が著しく上昇した事や、俺がプロデューサーとして無難なパフォーマンスを発揮できるようになった事で社長も事業拡大を宣言したのだろう。
しかし、翠にとっては違う。
例えるなら、弟か妹ができた姉の気分。
ごく小さな人間関係の中で歯車が咬み合って大きくなってきた翠にとって、後輩という存在は良くも悪くもその世界に一石を投じる存在なのだ。
そして、それは俺の立ち位置にも影響を与える事になる。
何故ならば、プロデューサーも新しく加入するという話は聞いていないからだ。
普通の方法で入社しなかった俺がこの単語を用いるのも変な話だが、普通の就職方法であれば、既に内定という形でいずれかの人材に手をつけているはずである。
まああの社長のことだから、去年同様誰かをいきなりスカウトする事だってあり得るのだけども。
ともかく、まだ見ぬアイドル候補生達を担当するプロデューサーが俺以外に現れなかった場合、去年のように翠に付きっきりで居られる保証はまずないのだ。
翠も、それが十分に可能性として存在していることを理解していた。
さす、さす、と撫でる架空の音が、二人の鼓動に反響する。
「……Pさんは、私のプロデューサーでいてくれますか?」
独り立ちという事もある種、予知夢めいたものだったのかもしれない。
社会人としてあるならば、自分で動かなければらない。それが上の人間であればあるほど顕著になっていく。
まさに翠がその立場に立たされつつあるのだ。
「当たり前だろう」
新しくプロデューサーが入ってこないということは、すなわち俺が翠の担当を外れる事もないはずだ。
セルフプロデュースという形を取るには、翠はまだ幼すぎる。
俺にとって翠という存在は部下であり、娘であり、愛すべき人でもある。
そして事務所に居る皆は全員翠の味方で、不安がる必要も、寂しがる必要もないのだ。
「絶対に俺は翠の傍に居るし、ちひろさんも、慶さんも麗さんも、みんな翠のことが大好きだから」
「え――」
不意に翠の遠い方の耳に手を掛けると、俺は彼女を肩に抱き寄せた。
彼女の驚く声と共に、長い髪が俺の黒いスーツの上に擬態する。
「きっと後輩になるアイドルも今の翠の姿を見れば尊敬してくれるさ。だから、その気持ちまで変わる必要はないんだよ」
いつもならありえない行動だが、この癒着していく感情が歯止めの役割を放棄させた。
「Pさん……」
俺の胸元に転がるようにして密着した翠は、戸惑うように俺の名を呼んだ。
先程まで感じていたであろう本来の緊張とはかけ離れた意味のない不安を、俺は翠の体を通じて、言葉を通じて受け入れる。
混乱もあるだろう、葛藤もあるだろう。
「こうしているのだって、俺がしたいと思った事だし……翠もしたいと思った事だろうしな」
…だが、少なくとも水野翠が水野翠であろうとする限り、俺は翠の全部を好きでいるつもりだ。
「……頭の中、覗かないで下さい」
「お互い様だよ」
彼女の白く小さな手が、俺のスーツに皺をつける。
それと同時に、翠の体がより強く俺にのしかかってきた。
その重さは、決して軽薄なものではない。
信頼、親情、愛情という離れられない大切な鎖であり、その重さこそが、翠から俺に与えられた支柱的役割の依頼そのものなのだ。
「せっかく午後からは休みなのに、何もしてないな」
俺にしか出来ない、そう考えている。
故に、この言葉に笑みを込められるのである。
「……ん」
返事はなく、翠は顔を俺の肩に当てて小さな声を上げただけだ。
いや、それが返事なのだろう。
彼女がしてきたように俺も自分の頭を傾けて、固い髪を彼女の美しい清流に触れさせる。
「暖かい……」
俺達は人間であり、ハリネズミではない。
近づくことの心地良さは、翠にとっても俺にとっても最高の感覚なのだと知る。
結局、果てることのない未来を語りながら、いつの間にか俺達は微かな眠りに落ちたのであった。
*
「休みなのに邪魔をして悪かったな」
気がつけば、空には黒の粒子が一面に撒き散らされていた。
「いえ、楽しかったです」
首が痛いのは恐らく眠った時の体勢だろう、視界が心なしか傾いているような気がする。
翠も例外ではなく、何度か首を回して痛みを和らげているようであった。
夕方。
もう新年ともなれば、次第に明度が長引き始める季節なのだが、今日に限っては午後から雲が蔓延り始めたからか、寒さとともに暗さが辺りを覆っている。
――何時間経ったのだろう。
微かで、僅かで、それでいて限りなく大切な時間を過ごした俺達が再び目を覚ました時には、時計の短針は想像以上に下に落ちていた。
せっかくですから、と翠から晩御飯の誘いも受けたが、残念ながら俺はこれから再び仕事をこなさなければらないので断ることにした。
直接会う営業ではないので期限は今日中なので無理に急ぐ必要はないのだが、予想以上に翠の家に長居しすぎたのだから仕方あるまい。
だからその償いは東京でするよ、と言うと、翠は屈託のない笑みを見せてくれた。
「それじゃあ、また明日」
明日も地元で仕事が入っているので、俺は手を挙げて別れを告げる。
「はい、今日はありがとうございました」
彼女も境界を越えたお願いはしない。
それは俺のしている事が翠自身のためでもあるのだと理解しているからだろう。
お互いに手を振り合って、俺は翠の家を後にした。
――帰路は贅沢にもタクシーを利用するので、俺は翠の家の最寄り駅へと歩いて行く。
いくら正月と言えども働く人が居ない訳ではない。次第に人通りが増えていく風景を見て、駅が近づいていくことをしみじみと感じた。
その刹那、俺の体は振動し、寒いという感情が体を駆け巡る。
春に近づいているのだとしても、時刻による気温低下はやはり身に堪えるものだ。
ぶるぶる、と震える俺の体は、この季節を鮮明に体現していた。
「……ん?」
しかし、その振動は俺の体だけが震源でないことを知る。
体の震えが一時収まった後も、薄いポケットからは未だに振動が続いているからだ。
その振動に心当たりがあってポケットから取り出した文明の利器は、俺の手の中でも暖を取るかのように震え続けていた。
想像通りの携帯電話。
傷だらけで塗装も禿げた、俺のプロデューサーとしての人生を刻んだ携帯電話だ。
微かにヒビが入り始めている携帯のサブディスプレイには、翠の名前がドットで表現されている。
もしかして忘れ物でもしてしまったのだろうか。
いや、もしそうなら電話をしてくるはずだ。
振動に心当たりがあっても内容に心辺りはない。
ためらう必要はないのでカチリと音を立てて開いてメールを見ると、一言のメッセージと添付ファイルの画像が一つだけのシンプルな物だった。
何故今に添付ファイルを送るのか全く理解できないので、確かめるためにもその画像をダウンロードし始めると、画面上にのそのそと動くインジゲータが表示される。
一体何の画像なのだろう。
期待半分、不安半分で待つ俺に、受信完了の文字が背中を押した。
――これからもよろしくお願いします。
「……はは、情けない顔」
その画像には、翠にもたれて格好悪く眠る俺と嬉しそうに微笑む翠のツーショットが映っていたのだった。
――了
453: 再開 2013/07/02(火) 21:42:30.19 ID:iyM0Mdx3o
*
初期設定の着信音が鳴った事に気づくと、ディスプレイの文字を見る。
そこには『青木 麗』と表示され、それを元に発信相手を判断した。
「麗さんか…どうしたんだろ」
今日の彼女の予定といえば、相変わらず翠とのレッスンであった。
昼過ぎの今なら、彼女達は昼食の休憩を終えて練習を再開しようか、といった頃合いだろうか。
それにしても珍しい事が起きたものだ。
携帯電話番号とメールアドレスはそれぞれ交換しているが、こうして連絡した事はレッスンの予定変更やスケジュールの相談等以外では全く無かった。
その連絡さえも俺がほぼ毎日翠に会いに行っているせいかその都度口頭で連絡出来てしまっていて、実際に使われたことはあまり記憶に無い。
本人も公私の区別は付けていて、この連絡帳を使う時は何か緊急のことぐらいだろうな、と笑って言っていた。
454: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:43:41.85 ID:iyM0Mdx3o
では何の用だろうか。
そんな疑問を浮かべって通話ボタンを押す。
「……プロデューサー殿」
もしもし、という俺の言葉を無視して、麗さんは静かにそう呼びかけた。
その瞬間から、咄嗟に違和感が頭を支配する。
落ち込むという感じともまた違う、どこか沈んだ声色の麗さんだ。
俺の知る限りでは聞いたことのない声だった。
「麗さん……麗さん? どうかしましたか?」
以降発声しない麗さんをますます訝しんでこちらから何度か声をかけると、麗さんは押し潰されそうな声で、すまない、と呟いた。
455: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:44:09.27 ID:iyM0Mdx3o
……この時、既に嫌な予感が全身の神経を通っていた。
普通である様子が今の麗さんからは一切感じられない。
それは本当に本人なのかどうかすら怪しいと思ってしまう程だ。
シナプスが、不快な感情を伝達させる。
聞きたくないという感情が一瞬にして脳に蔓延る。
もしも聞いてしまったら。よくない感情が沸き起こってしまいそうな。
しかし、彼女は続ける。
「翠が……倒れた」
あまりに突然過ぎて、鼓膜が意味を通さなかった。
456: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:44:36.76 ID:iyM0Mdx3o
「……え?」
俺の反応は、極めて正常であったように思う。
理解できなかったのは当然なのか、あるいは理解を拒否したのか。
それでも彼女は振り絞って言葉を出す。
「倒れて――病院に運ばれた」
聞かなければいけないのに、聞きたくないという意思が押し寄せる。
どういうことだ。
レコーディングもして、無事終わって、褒めて、笑って。
昨日だって、レッスンに立ち会った時は翠は俺に笑いかけてくれて。
仕事どうですか、疲れてませんか、って心配してくれて。
彼女のほうが大変なのに、気遣ってくれて。
……それが、どうして。
457: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:45:04.62 ID:iyM0Mdx3o
「すまない……すまない。私の目が曇っていた」
搬送先の病院名を告げた後は、麗さんはひたすら悲痛な声で謝罪した。
だが、そんな言葉は全く脳に伝わってこない。
ただ今どうなっているのか。どうしてこうなったのか。
何があったのか。
そんな疑問ばかりが目の前を覆っていた。
「……すみません、切ります」
居た堪れなくなって、俺は一方的に通話を切ってしまう。
怪我なのか体調不良なのか、症状を聞くことも無く、持ち上げた手を下ろした。
――目の前の闇を振り払うには、確かめるしか無い。
手元から落ちそうな携帯電話をかろうじでポケットに放り込むと、俺はスーツを破る勢いで走り始めたのだった。
458: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:45:34.52 ID:iyM0Mdx3o
*
「まあ大事をとってもニ、三日安静にしていればすぐ良くなるでしょう」
彼女の診察を行った医師は、一つ息をついて翠の状態をそう表現した。
「……そ、そうですか」
急いで来た癖に翠が倒れた理由を何一つ知らなかったため、心底安堵し、弾む鼓動が徐々に落ち着きを取り戻し始める。
「とりあえず今日はここで休ませられますから、薬の方も出しておきますね」
医師はカルテらしきものにボールペンを走らせつつ、時折パソコンを操作した。
とりあえず、アイドル生命に関わるような……翠の命に関わるような自体にならなかったことが俺を安寧に導いた。
459: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:46:05.13 ID:iyM0Mdx3o
――翠は、軽い過労により誘引されたウィルス性の風邪と診断された。
麗さんも救急車に同乗して当時の状況を説明し、改めて状態を確認したところ、救急救命士や搬送先の医師である彼はそう判断したという。
喉は腫れ、熱もやや高く、放っておけば更なる悪化を招いていた可能性があるとも言っていた。
ひとまず点滴治療を行なって熱は下がっていくだろうという話だが、疲労などは依然として色濃い。
疲労と体調不良のダブルパンチが今回のアクシデントを引き起こしたのであった。
「アイドルが大変なのはわかりますが、水野さんもまだ未成年です。くれぐれも無理をさせ過ぎないように」
医師から今後の治療法などの説明を受けた後、お見舞いに行こうと去る間際、医師は俺に釘を刺す。
まるで異常な程の練習を強制させる悪徳プロデューサーと言わんばかりの冷たい言葉だった。
無論、彼にそんな悪意はない。
人命を救う立場の人間だからこそ、純粋に彼女を心配したのだろう。
「……はい。気をつけます」
当たり前だ。そんなこと言われなくても翠は俺が一番わかってやれている。
……そう言い放ってやりたかったが、今の俺にはその資格がなかった。
460: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:46:51.51 ID:iyM0Mdx3o
*
こつ、こつ、と形が潰れつつある黒い靴が床を鳴らす。
白い床。白いソファ。白い制服。
どこにでもあるような、まるで色を失った寂しい世界を俺は歩いていた。
翠には個室を用意してくれたようで、医師からは321という番号が告げられていた。
この階の病室は全て個室となっているのだから、この病院が多数の民衆の生命をカバーする大規模な施設であることは明白である。
ただ、ひたすら歩く。
頭の中にある番号の下へ、たどり着くために歩く。
……そんな道を歩いていると、嫌でも自分の姿がありのまま映された。
461: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:48:13.16 ID:iyM0Mdx3o
今回のアクシデントは誰の責任なのか、と自問する。
…言うまでもなく、俺だろう。
元々無理のあるスケジュールでレッスンを強行しなければならない状態に持ち込んだ事が原因なのだ。
学園祭のライブでも似たような過密スケジュールだったにも関わらず無事乗り越えてしまったので、俺も心なしか油断してしまったのだ。
何より、どうして気付けなかった?
一番近くで見ていたはずの俺が、何故彼女の兆候に感づかなかった?
あれほど近づいたのに、何故目に入らなかった?
俺は、翠の白く綺麗な皮膚だけを見ていたというのか。
462: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:48:38.79 ID:iyM0Mdx3o
…彼女は元気だった。
前日も、前々日も。一週間前も、その前も。
レッスンでくたびれても、俺に微笑みかけて言葉を返してくれた。
そして次の日には練習の成果を見せつけて、更なるレベルの向上に励んでいた。
疲労を問うても、彼女は大丈夫と答える。
具合を問うても、彼女は万全と答える。
まるで、それ以外の答えは認めないかのように、翠はそう主張していた。
俺は、彼女を追い詰めていたのだろうか。
螺旋を描く罪の意識が、全身を嫌らしく舐め回していた。
463: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:49:18.61 ID:iyM0Mdx3o
俺と翠は、しっかりと繋がっていると思っていた。
彼女は俺のことを好きだと言い、俺も彼女を良く思っていると言った。
遥か昔の時代を語り、お互いの知らなかった心の奥底を晒すことで、信頼し合ったつもりであった。
だがそれは、虚像…あるいは俺の妄想だったのである。
もし翠は素直に疲れていることを俺達に申告していたら?
練習内容を再チェックし、余裕のあるパートから負担を少なくし、また休憩時間やオフも多めに取るように変更しただろう。
もし俺が翠の言う事を疑って、真剣に体調を調べていたら?
すぐさま麗さんと話し合い、無理矢理にでも休暇を取り入れさせただろう。
…それができなかったのは、彼女が俺を頼らなかったから。
そして、俺が彼女の虚勢を本当の姿だと誤認したからなのだ。
自身を顧みないで練習した理由については不明だが、もしも馬鹿げた妄想を述べさせてもらえるのなら――。
「サンニーイチ……と、ここか」
俺の視界に321という三文字の数字が印字された看板が入り込んでくる。
医師に指定された番号と合致し、ここが翠の病室だと判断して奈落へ沈んでいく暗い意識を消し去る。
464: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:49:56.90 ID:iyM0Mdx3o
重苦しい戸。冷たい取っ手。
全く翠に似つかわしくない、こんなところに居るべきでない…簡素な扉だった。
あのライブと比較すれば、天と地程に鮮やかさに差がある。
右手を裏返し、ノックをする手つきに変える。
どんな状態であるにしろ、絶対に休暇を入れよう、と決意する。
真面目で練習熱心な翠のことだから、もしかしたら休むことに異議を唱えるかもしれない。
だからこそ意地でも休ませなければいけないのだ。
翠の意識の高さに自惚れた結果がこれなのである。
多少彼女の意に沿わない形になろうとも、それだけは貫き通す。
…まあ、今は何よりも翠の完治が先だ。
左手には病院の売店で購入した飲み物やデザートなどを幾つか入れたビニール袋を携えている。
今は休んでいいよ、と労いつつ、何てこともないような他愛もない話でもしようか。
そう思って、小さくノックをする。
……それから静かに開いた扉の先には、信じられない光景が広がっていた。
465: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:50:23.60 ID:iyM0Mdx3o
*
正直に言えば、自分の目が本当に自分の物なのか疑わしくなる程、眼前に現れた彼女の姿というものは異様であった。
そう、異様。
本来あるべき姿でない様子だ。
もしかしたら彼女は翠に似ているだけの別人なのかもしれないという疑惑が一瞬頭によぎるが、少なくとも俺の意識は彼女を翠だと認識していた。
「あ……Pさん」
『立っていた』翠が俺の姿を視認すると、ぺこりと頭を下げた。
声色には、若干の威勢の良さが残っている。
「ご迷惑を…けほ、おかけして本当にすみません」
汗などで汚れたいつもの練習着姿ではなく、入院患者が着る真っ白い綺麗な病衣を纏っている翠は、そう言って俺に謝罪する。
そんな翠の言葉にすら、反応できない俺がいた。
……何故だ。
何故翠は壁に手をついてまで練習の続きをしているのだ。
まるで意に介していない、現実を受け止めていない彼女の様子に、俺の中の何かが切れた。
466: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:51:13.30 ID:iyM0Mdx3o
「……なあ、翠」
ゆっくりと俺は近づく。
「けほ…はい、なんでしょうか」
一度咳き込んだ後、にこりと笑って翠は俺を迎える。
翠は一体何を考えているのか、もうわからなくなってしまった。
倒れたのは自身の体力を鑑みていなかったからだろう。
病衣を着ているのは、安静にして治療をするためだろう。
手が届く位置にまで近づくと、俺は無意識に翠の肩を掴んだ。
瞬間、彼女の顔が歪む。
決して軋むほど力を入れている訳ではない。
苦しませようと掴んだ訳ではない。
なあ、痛いんだろ?
なあ、辛いんだろ?
彼女の痛覚を思うと、顔の表面が急速に沸騰した。
「――なんで練習してるんだ!」
噴き上がった熱のこもった感情が、怒号となって周囲に放出される。
初めてだ。
俺の知る限り、こんな声色をして翠に話しかけた事は一度もない。
同様に彼女もそうだろう。
一体何が起こったんだ、という表情で、困惑と恐怖が入り混じった顔をしている。
だから俺は怒った。
467: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:52:01.14 ID:iyM0Mdx3o
言葉を続けることもなく、肩を掴んだまま彼女を無理矢理ベッドに寝転ばせると、おもむろに近くにあった簡素な椅子に腰を下ろして翠を見つめた。
熱も下がっていくだろうという状態であろうとも、運動などご法度だ。
それに痛みや怠さが完全に引いているという訳でもあるまい。
「…今の翠の状態は、君が一番わかっているはずだ」
先ほどの口調とは反転して、なるべく穏やかに声をかける。
沸騰した感情がオーバーヒートを起こさないように、黙々とした表情の裏で必死に頭を回転させていた。
腹が立つからと言って、本能のまま喋っていい訳がない。
それが許されるのは、せめて中学生の喧嘩ぐらいまでである。
俺はプロデューサー。
新米で、新人で、未熟で、無知だけど。
翠の人生を引き受け明るい未来に導いていく、彼女だけの魔法使いなのだ。
混濁して絡まっていく怒髪衝天の狂いを、そのままにしてはいけない。
「……っ」
俺によって強制的に倒れこまされた翠は、露骨に俺から目を逸らす。
無言なのは、俺の問いを肯定しているからだろうか。
無理をして練習したって何の収穫も無いことぐらい、賢明な翠ならわかっているはずだ。
なのに……どうして彼女は体に鞭打って練習をしているのか。
468: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:53:07.07 ID:iyM0Mdx3o
俺の中に集う疑問は、翠の蚊の鳴くような声が解決する。
「…練習しないと…けほ、間に合いませんから」
そういうことか、と心の奥底で少しだけ納得する。
そして、この時ほど『真面目』という言葉を恨んだことはなかった。
翠の性格から推測するに、恐らく弱音を吐いてしまってはフェスで失態を犯してしまうという脅迫概念に追われていたのだろう。
疲労が溜まって倒れたというのに頑なに練習を止めないその姿を見れば、彼女の思いを想像するには難くない。
ただ、問題はそれが間違いだということだ。
真面目という概念は、見方を変えれば愚直である。
進むべき道、思うべき願い、目指すべき頂をしっかりと定めて歩くことはむしろ素晴らしいことだが、それらが狙い通りに運ぶという保証はどこにもない。
そういった壁が立ちはだかった時に必要なのは、今自分が取り得る行動の中でどれが一番合理的で建設的なのかという問題提起なのである。
しかし、翠はそれをしなかった。
合同フェスという大きな壁を目の前にして、ある種の思考放棄をしてしまっていたのだ。
真面目や練習熱心という言葉を盾に、ひたすら突き進むことだけが唯一の選択肢だと勘違いしてしまっていた。
それが今の事態を招いた種火と言える。
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469: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:53:57.89 ID:iyM0Mdx3o
「…ほら」
ベッドテーブルに載せたビニール袋から、スポーツドリンクを取り出して翠の顔の近くに置く。
近くで観察すれば、きっと喉が赤く腫れ上がり、狭まっていることがわかるだろう。
返事として改めて聞いた翠の声は、以前のような美しさを失っていた。
「…ごめんなさい」
相変わらず視線をこちらに向けないまま、翠は小さく罪を認めた。
――いや、本人もわかってはいるのだと思う。
それでも折れることが許されなかった雰囲気や重圧が、彼女の周囲を酷く曇らせていたのだ。
もし理解していなければ、俺の言葉に耳を傾けてはいないのだから。
「喋るな。…痛いんだろ」
ベッドに横になっている翠は無言でゆったりと頷いた。
初めから俺に体調が優れない事を申告してくれていたら、初期治療でここまで酷いことにはならなかったのに。
彼女の弱る姿を見て、やり場のない怒りがくすぶる。
それは異変を打ち明けなかった翠に対してでもあれば、それを察せなかった過去の俺に対してでもある。
そして同時に、打ち明けてくれるほどの信頼関係を構築できなかった俺の行動にも腹が立ったのだった。
結局、無意識の内に俺は自惚れていたのだ。
少なからず好意を抱かれ、はっきりと信頼していると口にされ、その気にさせられただけなのである。
……思いをあえて言葉にして伝える意味。
それを理解していれば、もっと早く気付けていたのかもしれない。
470: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:54:37.53 ID:iyM0Mdx3o
「…悪かった」
「そんな――ごほっ!」
俺の言葉に反論しようとした翠の言葉は、咳によって強制的に中断される。
咳も役立つことはあるらしい。
少なくとも、喋ることに対しての抑止力という点では彼女へ有効的に影響していた。
「だから喋らないって…ほら」
近くに置いたまま手を付けていないペットボトルを改めて手渡す。
翠は上半身を亀が如き遅さで起こすと、パチリ、と封を切った。
――あの元気な少女がここまで弱るとは予想だにしなかった。
無論、誰だって病気になるとこうなることは考えなくともわかることだ。
しかし、彼女の言動や姿勢、今までの軌跡がその常識に霧を吹きかけていたのである。
翠はドリンクを少し口に含んで苦しそうに飲み込むと、ふう、と息を吐いた。
この調子だと、呼吸にすら苦しんでいるのかもしれない。
余計な事を喋らせる前に、俺も退散したほうがいいのだろうか。
471: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:55:15.67 ID:iyM0Mdx3o
「喋らなくていいから聞いて欲しい。とにかく今日から最低三日は休養とする。ちひろさんや麗さんには俺の方から言っておくから、自分のことだけを考えるように」
既に冷えた頭で近々の予定を組み直す。
電話口ですらあれだけ憔悴した表情を安易に読み取れたのだ、実際の所は麗さんも酷く落ち込んでいるに違いない。
ベテランだからこそ、こういう事態に陥った時に冷静に切り替えて欲しいものだが、そうするためにも、話し合いを設ける必要がありそうだ。
ともかく、翠に仕事の事を考えさせないようにしないと、また無理をしてしまうに違いない。
ちひろさんには明日になるだろう退院後の翠の状態を少しでもいいのでこまめに診てもらうようにお願いすることにした。
彼女も今仕事で忙しいのは俺も承知しているが、俺が翠に会えるのはこうして外に出ている間だけだ。
実家での翠を見られるのはちひろさんだけなのだから、申し訳ないが止むを得まい。
となると、電話で打ち合わせするよりも三人で一度きちんと集まって連絡し合うほうが絶対に良い。
翠が搬送されたと聞いたのは午後を少し過ぎた頃。
今もまだ日は落ちていないから、もしかしたら今日中に設けられるだろうか。
472: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:55:53.91 ID:iyM0Mdx3o
説明をしている間、翠は悔しそうな素振りを見せていた。
迷惑をかけてしまったことへの罪悪感か、あるいは疲労に耐え切れなかったことへの不満か。
どちらにせよ、今持つべき感情ではないことは明らかだ。
「…急ぐ気持ちはわかる」
もはや当たり前のようになりつつある手つきで俺は翠の頭に手を置いた。
喋るな、という命令のせいだろうか、上半身を起こしたままの彼女は俯いて何も言わない。
「明日も朝から来るから、ゆっくり休むこと。…何か欲しいものはあるか?」
軽く何回かだけ頭を撫でると手を離し、立ち上がって足元の鞄を持ち上げる。
命じておいて喋らせるのもどうかと思うが、今日一日はこの病室で過ごすことになるのだから何か入り用があるのかもしれない。
何が必要かと考えれば、きっと小腹が空いた時に食べられる食品類や時間をつぶす雑誌類だろうか。
念の為、事前に買っておいたゼリーなどをビニール袋から取り出して翠に見せていると、彼女は細切れた声で呟く。
――Pさんを、と。
473: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:56:21.30 ID:iyM0Mdx3o
「…そうか」
ビニール袋から手を離して元の椅子に座り、改めて彼女と向き合う。
お望み通り、翠の傍に居ることにした。
それで彼女の気が休まるなら、いくらでも俺の時間を使うといい。
…思わぬことから生まれたこの空白の時間は、俺達だけで埋めることになった。
474: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:57:14.91 ID:iyM0Mdx3o
*
「…改めて申し上げる。本当にすまなかった」
事務所に着くなり、俺の姿を視認した麗さんはかつてみたことのない程の角度で俺に頭を下げた。
こちらも寒い中事務所に入ってまずは暖まりたいと考えるばかりだったので、突然の行為に狼狽えてしまう。
「おかえりなさい、プロデューサーさん。コーヒーを入れますのでソファにどうぞ」
ちひろさんはそんな麗さんの肩を持って彼女を起き上がらせると、にこりと笑って給湯室へと向かっていった。
「座りましょうか」
「…ああ」
こちらを悲哀の目で見る麗さんにひと声かけて、ソファに誘う。
対面する彼女にはいつもの機敏さは全く見られなかった。
午後になってから時間が経ち、空が暗くなりつつある事務所。
数カ月前の明るい夕方もすっかり姿を消して、小学生が遊びから家に帰るぐらいの時間にもなれば、辺りからは自然と夜が出始めていた。
病室での時間を過ごした後、ちひろさんに電話を入れて、急遽打ち合わせをセッティングしてもらった。
俺は今回の件を麗さんから聞いた時、翠の事に集中するがあまりちひろさんへの連絡を忘れてしまっていたのだが、麗さんは俺へと同様に彼女へも報告してくれていたようで、比較的すんなりとこの時間を設けることができたのである。
475: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:57:48.04 ID:iyM0Mdx3o
――翠の病室で過ごした時間はたった半日にも及ばなかった。
喉を痛めているのでまともに会話すら出来ない上、饒舌に喋る程の気力も失われているようであったからだ。
本人も、俺と会ってしばらくは体調不良であることを頑なに否定して健康さをアピールしていたものの、指摘されて認めた途端に病人らしく静かになってしまった。
…認めることの大変さは、俺もよくわかっているつもりだ。
そうすることは、すなわち失敗を自覚するということに他ならないからである。
翠は仰向けになって布団を被り、物言わずじっと天井を見ていた。
やはり、心の奥底では孤独感があったのだろう。
辛いことを誰にも言えない状態が続けば、精神も摩耗していってしまう。
布団から外に出した翠の手に俺のそれを重ねることで、いつのまにか彼女は目を閉じて意識を深層に沈めていた。
それは病気だからか。
あるいは、恐怖心だからか。
どちらにせよ、次からは本意でもって俺と接してくれることを願うばかりだ。
476: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:58:26.88 ID:iyM0Mdx3o
「すみません遅くなりました。どうぞ」
麗さんに何と声をかければいいのだろう、と迷っていると、ちひろさんはフォローするが如く俺達の前に現れ、コーヒーをローテーブルに置いた。
「ありがとうございます。寒かったから余計に美味しく感じますよ」
それに口をつけて早速胃に流し込む。
俺はいつも砂糖を入れているので、言わなくてもちひろさんも理解して砂糖を適量入れてくれている。
いつもの味が口に広がると、いよいよ事務所に帰ってきたな、という安心感が体に伝わった。
一方麗さんはというと、目の前に置かれたコーヒーをただ見つめていた。
今の彼女は見ていられない。
ある意味、翠よりも深刻であった。
しかし、前を見なければいけない。
失敗して打ちひしがれるのは自由だが、責任ある立場である以上は、俺も麗さんも、逃げることは許されないのだ。
477: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:59:00.42 ID:iyM0Mdx3o
俺は温めて体を落ち着かせると、スケジュール帳とペンを取り出して、話を切り出す。
「…今回の件は、少なくとも麗さんだけの責任ではありません。一番近くで見ている私が気付けなかったんですから、言い方は変ですが仕方がないことでしょう。むしろ、体調不良であることを隠し通してきた翠の演技力に感心すべきですよ」
褒めることじゃないですけど、と付け加えて笑ってみせる。
今唯一できる精一杯の冗談だ。
自分で言っていても、本当に驚くばかりであった。
体に異変があれば、どれだけ取り繕おうとも無意識の内にどこかでほころびは出る。
それすらも体の内に隠して俺達を欺き続けた翠の精神の強さは、まごうことなき本物である。
何よりも、喉を痛めて声を出すのも辛かろうに、それでも麗さんに気付かせなかったという事実が色々な意味で俺を唸らせる。
…それを今回以外の面で出してくれればな、と思うのだった。
「では改めてスケジュールの方変更して行きましょう。とりあえずは三日間は必ずオフにします。それからですが――」
あの時翠に伝えた事を、一字一句間違わずに伝える。
消沈しきっていた麗さんも、俺の言葉のおかげかどうかはさておき仕事をする程度の気力は戻ってきているようで、メモを取っていた。
「不幸中の幸いですが、翠の次の予定はフェスのリハーサルだけなので相手先にも迷惑はかかりません。休ませることに集中させたいと思います。…麗さんはどうですか?」
静かにメモをとっていた彼女に質問をする。
担当トレーナーなのだから、彼女なりの考えもあるのだろう。
場合によっては俺の案よりも良い物を出してくれるに違いない。
「…いや、大丈夫だ。それでいこう」
しかし、存外素直に麗さんは俺の意見に賛同した。
まあ、翠の担当プロデューサーとして、翠の性格を考えた上で作り上げたものだからこそ麗さんは異論を呈さなかったのかもしれない。
俺も、胸を張って翠のプロデューサーだと言えるようになりたい。
そのためにも落ち込んでいる余裕はないのだ。
478: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:59:49.50 ID:iyM0Mdx3o
それからも、翠へのレッスンの方針や内容の吟味、今後こういった事を引き起こさないためにどうすべきかを話し合ったことで、結果的に白紙だったメモ部分の殆どが黒色に塗りつぶされてしまっていた。
今回の件は、俺達全員にとっても悔しさの残る事である。
それだけに対策という部分にも熱が入っていたのだ。
麗さんも例外ではなく、こまめな状態観察について詳しく意見を出してくれた。
彼女の経歴の大部分を俺は未だ知らないままではあるが、過去にだって一人や二人、失敗したこともあるのだろう。
肝心なのはリカバリーであり、フォローである。
若干特殊な素質とも言える翠のため、臨時でも責任強くいてくれていた。
それもこれも皆、翠のことが大切だからだ。
信頼しているからこそ、こうして話しあえている。
…それだけに、翠が俺達を信頼しきってくれなかったことに一抹の悲しさを覚えるのだった。
479: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:00:40.12 ID:iyM0Mdx3o
「――とまあ、こんな感じです。最後に何か意見はありますか?」
訊ねると、両者とも首を横に振った。
問題ない、ということだろう。
「わかりました。麗さんも急なのに来てくれてありがとうございます。…大事なのはこれからですから、よろしくお願いします」
「…勿論だ。全身全霊を持って尽くすことを誓おう」
話し合いを経て、麗さんの目つきも変わっていた。
それは翠が彼女と出会った時と同じ。
変化を感じ、底に落とされたことで湧き上がる気力。
俺の意思が少しでも彼女に伝わってくれることを願うばかりだ。
「ちひろも…この度はすまなかった。嫌な思いをさせて」
麗さんは少し温度の下がったコーヒーを一気に飲み干してから立ち上がると、ちひろさんに対しても頭を下げた。
ながらの行動でも、ありきたりな行動でもない。
ゆっくりと、落ち着いて、それでいて強い意志で腰を折ったのだ。
それは俺へ行った物とは少し違うような気がした。
具体的にどうなのだ、と問われると回答に窮するのだが、俺と麗さん、ちひろさんと麗さんの関係の違いによるものなのだろうか?
「…いえ、無事ですから」
それに対してちひろさんは静かにそう答えた。
にこりと笑ってはいるが、事務所で仕事をする時はいつも一緒にいて彼女の顔を見ているのだから俺にはよくわかる。
さっきのちひろさんの笑顔は、作っている。
480: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:01:15.75 ID:iyM0Mdx3o
それがどうしてか、この場で訊く蛮勇はない。
しかし、理由や思惑について過去にも少し考えたことがあったので、一層疑問は深まっていくばかりだった。
もし、タイミングがあれば――。
「麗さんもよかったら翠の顔を見に来てやって下さい。練習したがってますから」
…いや、やめておこう。
翠のために使う時間を、別の…言い方を顧みなければ、どうでもいい事のために使わなければいけない義理はない。
少なくとも、それをすることが正解ではないだろう。
「わかった。今度ちひろの家に寄らせてもらうよ」
「…ちゃんと来る時は連絡してくださいね?」
はは、と麗さんは笑う。
久方ぶりに見る彼女の笑顔だった。
絶対的に見ればたった一日や二日ぶりなのだが、あまりの空気の重さに、認識している時空が弄られてしまっていたのだ。
481: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:02:19.01 ID:iyM0Mdx3o
「今回の件は本当に申し訳なかった。この事は真剣に反省し、次がないように全力で仕事にあたることを約束する」
事務所の扉の前で麗さんは改めて謝罪する。
とりあえずの帰宅先である彼女の所属する会社に車で送ろうと提案したのだが固辞されてしまったので、こうして事務所前で見送ることにした。
麗さんも重々気をつけてくれるようだし、翠も…練習への気持ちに対してだけは問題なさそうだ。
「それはフェスの結果で判断させてもらいますよ」
「…キミも随分偉くなったものだな」
そう言って、二人で笑いあう。
正直に言って、心から笑っていられる状況ではない。
しかし、関係改善のためには笑顔が絶対に必要なのだ。
だから、無理をして笑うという程でもないが、少しぐらいは気持ちを底上げしておかないと不意にボロが出てしまいそうなので俺は笑った。
明日の予定は翠を迎えに行くことから始まる。
それからは流動的だが、翠の意思を尊重したいと思う。
482: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:03:43.44 ID:iyM0Mdx3o
――冬の訪れには、翠だけの特別なイベントが待っている。
それなのにこうなってしまった事は残念だが……いい機会だ、俺はこれを存分に利用することにする。
麗さんが帰った後の事務所の中には、ちひろさんはかたかたとキーボードを鳴らす音だけが舞っていた。
いつもの光景。
少し違うのは、寒さが扉を貫通しており、事務所の中でも厚着をするか動いていなければ体がどんどん冷えてくる冬の独特の季節性だろうか。
俺はカレンダーを見る。
12月2日。
間に合うかどうかはわからない。
だが、翠が心から俺を信頼してくれるように、あの日のための準備をしたいと思う。
483: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:04:28.47 ID:iyM0Mdx3o
*
「ああ、あなたがちひろの言っていた?」
名前を告げて十数秒。
玄関の扉から一人の女性が出てきて、俺の顔を見るやいなやぴょんと跳ねる声を上げた。
――事務所から電車で数十分。
近からず遠からず、電車通勤の距離としてはなかなか優秀な距離に位置する年季を感じさせる一軒家。
割と古い町並みの中に上手く溶け込んだ、ある種風情を残しつつ平成の雰囲気を併せ持つ家に俺は来ていた。
ここは、翠が現在寝泊まりしているちひろさんの実家だ。
だが、その当人はここに居らず、彼女は今日も事務所で仕事をしている。
どうして俺がここに居るかというと、予め連絡していた通り翠の見舞いに来たのだ。
ちひろさんに日時を伝えると、彼女の母親に言ってくれていたようで、つい先程インターホン越しに名前と所属、目的を述べるとすぐに反応してくれた。
母親はウェーブがかった茶髪で、それほど歳を召してはいないように見える。
しかし態度は比較的落ち着いていて、それでいて元気そうな声色をしている。
思ってみれば彼女とちひろさんにも何か類似点があリそうな気がした。
484: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:04:59.00 ID:iyM0Mdx3o
「改めてご挨拶させて頂きます。シンデレラガールズ・プロダクションに勤めております、千川ちひろさんと同僚のPと申します」
彼女の口ぶりから察するに、ある程度はちひろさんから俺のことについて話してくれているらしい。
木製の艶のあるテーブルに対面して座ると、母親はへえ、と言っていた。
リビングルームにはインテリア小物が棚に数多く並んでいて、どこかの国の装飾品類が異彩を放っていて目を引かれる。
俺の実家はというと、家具はあるものの贅沢品などは少なく、こことはおおよそ対照的であった。
決して裕福ではなかったが、かといって明日に困る程貧乏であった訳でもない。
きっと両親が質素を良しとする性格だったのだろう。
子供心では金がないのだと思っていたものの、いざ大人になって仕事に忙殺される日々が続くと、あまり家の中にお金を使う気も失せるというもの。
この歳になってようやく、両親の気持ちというものが垣間見れたような気がした。
その後はしばらく母親とちひろさんについての事務所内での仕事ぶりを質問され、それに答える時間が続いた。
様相といえば、もはや尋問というべき食いつきっぷりである。
やはり実の子供、それも娘とあれば行動が気になるのだろう。
卒業して未だ音沙汰ない俺の両親に比べれば、随分と羨ましく思えた。
485: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:05:30.19 ID:iyM0Mdx3o
*
「ああ! そういえばそうだったわね!」
翠の部屋はどちらでしょうか、という俺の問いに、彼女の目が覚める。
ぽんと手を叩いて、忘れてたわうふふと笑う母親に俺も苦笑せざるを得ない。
当然ちひろさんの母親と与太話をしに来たつもりではなく、目的は翠のお見舞いなのだ。
ここ数日に関しては、完全休養という訳あって俺は翠と会わない時間が以前より多くなっていた。
とはいっても、翠の方から些細な事でもメールが来るので状況は粗方把握はしている。
しかし、彼女の顔が見れないのはどこか寂しく感じるのだ。
最近では毎日顔を合わせるぐらいの頻度で合っていたので、たかだかこんな短期間でさえそう思ってしまう。
いよいよ俺も翠にとり憑かれたかな、と心の中で嘆息した。
「二階の空き部屋を貸してやってるのよ。今は多分起きてると思うから、案内するわね」
母親はそう言って椅子から立ち上がると、リビングルームを退室する。
この家の構造的には他の一軒家のタイプと変わらない一般的なもので、リビングルームを出ると玄関の近くには二階へと続く螺旋状の階段がある。
それを手すりと持ちながら上がる母親の後ろを俺も歩く。
家の匂い。
ちひろさんの着けている香水とはまた違った心地良い匂いがする。
それぞれ家によって違ったっけな、と昔友達の家に遊びに行った時の事を不意に思い出して笑ってしまう。
こうして他人の私生活を行う家にお邪魔することなど翠をスカウトした時以来だったので、どうにも感傷的になるのである。
それだけ密度ある時間を過ごしてきたのだ。
例え胡乱な感情で入ったこの仕事も、今となっては悪い気はしない。
486: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:06:02.88 ID:iyM0Mdx3o
「ここよ。…後で飲み物も持ってくるから、ごゆっくりね」
二階に登ると、二人が並行して通れる程度の廊下を少し歩いて、一番奥の部屋に案内される。
木製の戸にはセロテープで何かを貼り付けていた痕跡があった。
きっとこの部屋は遠い昔息子か娘かの部屋だったのだろう、とても古い跡が歴史を感じさせた。
「はい。何から何までありがとうございます」
幾許か観察した後、母親に頭を下げる。
仕事で関係を持っている少女とはいえ、他人を家にしばらく生活させるなど並の人間は許可できまい。
とても広い心を持っているのだな、と素直に感心した。
母親が下に降りたのを見届けると、改めて扉を注視する。
いつも会っていて昨日もメールで色々話していたのに、いざこうして時間を空けて会うとなると、無意識に緊張してしまう。
遠距離恋愛で久しぶりにあう恋人の感情はこのような感じなのだろうか。
俺と翠の関係は決して恋人と呼ぶべきものではないんだけども。
なし崩し的に感情を伝え合ったとはいえ、俺達は仕事仲間であることに変わりはない。
そう言い聞かせることで、少しづつ高まる心拍数を抑えることにした。
指の関節で扉を叩くと、こんこん、と綺麗な音が鳴る。
扉が枠にきちんとはまっている証拠だ。廊下と扉の向こうに響く音に揺れがない。
487: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:07:14.04 ID:iyM0Mdx3o
*
「…お久しぶりです、Pさん」
しばらく待つと、向こうから扉を開けてくれた。
絶対安静としつこく言い続けた結果か素直に聞いてくれたようで、翠の髪は片側だけボリュームが失われている。
きっと今日も寝て過ごしていたのだろう、顔つきも病室での頃に比べても幾分と穏やかだった。
何より、翠の発する言葉が初めて会った時のような涼しげでかつ芯のある綺麗な声に戻っている事が、俺にとって嬉しかった。
ビジュアルも勿論大切だが、声が失われるともうアイドルとしてはやっていけない。
風邪ぐらいで大げさな、と言われるかもしれないが、ある意味俺達に起こった最初のアクシデントなのだ、過剰に心配するぐらい許して欲しい。
「はは、何だか少し直接会わないだけで久しぶりに思うよ」
つい先程思ったままの事を言う。
微かに感じていた不安……やつれているとか、心が折れているとかいう未来にならなかった事が俺を安堵させる。
「不思議ですね。…メールで繋がっていても、近くに居る気がしないんです」
ちらりと部屋の中を覗くと、ベッドの枕元に翠の携帯電話が転がっている。
今日も見舞いに行くことの連絡を含めて何度かメールを交わしているのだ、雑談の文面とか、他に時間を潰す方法とかを考慮しても、彼女は俺とのメールをちょっとは楽しんでいたのだろう。
翠の表情にも、笑みが溢れる。
しかし、それは単純に嬉しいとか、幸せとか、そういった固定的な感情ではないように思えたのだった。
488: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:07:51.49 ID:iyM0Mdx3o
「…翠らしいな」
部屋に入れてもらうと、翠は俺をベッドに座るように案内した。
借りている部屋には、フローリングの床にベッドが一つと丸テーブルが一つ、クッションが一つ、そしてクローゼットや収納棚が一つと実に簡素なものだった。
その内テーブルやクッションは翠が実家から持参したものらしいので、ベッドや収納棚は元々この部屋に置かれていた物なのだろう。
化粧品や日常で使用する消耗品類が、使う頻度順にきちんと整頓されていることがパッと見ただけでわかる。
彼女の几帳面とか真面目とかいう性格がここぞと表れているのがどうにも面白かった。
「…そんなに見ないで下さい。何だか恥ずかしいです」
「ん、ああ、ごめんごめん」
借りているとはいえ、今は翠の私生活の全てが秘められたプライベートルームなのだ、周りを観察されて平気である訳はないだろう。
プライベートルームといえば、翠をスカウトして両親に説明した際にも一度翠の部屋に入った事がある。
あの時は俺も翠のことをあまり知らなかったし、ただの仕事をする上での関係者としてしか見ていなかったので何とも思わなかったのだが、今では少し事情が違う。
改めて変わった心で見てみると、如何ともしがたい羞恥心が俺をゆるやかに襲ったのだった。
…大人のくせに情けないな。
489: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:08:26.77 ID:iyM0Mdx3o
「最近はどうだ? 何か変わったことはないか?」
偶然にも、俺の家に翠が来た時と状況が似ている。
ベッドに隣同士で座っているこの距離が、自然と緊張を和らげた。
「お陰様で体調もよくなりましたし、ちひろさんのご家族の方にも良くしてもらっていますよ」
何だか新しい両親が出来たみたいです、と翠は笑う。
それを本当の両親が聞いたら複雑な気持ちになるだろうな、と考えると俺も無意識に笑ってしまった。
「あ、それと、昨日は麗さんが来てくれました」
「おお、そうなのか」
正直に言えば少し不安ではあった。
直接的な関係性は薄いとはいえ、麗さんは間近で翠が倒れるのを見てしまったのだ。
そういう状況が彼女二人の間に何か変な軋轢を生んでしまっているのではないか、という懸念が頭の中にあったのである。
「麗さんが悪いわけではないのに、すごく謝ってもらって…私も申し訳なかったです」
しかし存外よそよそしさと言った部分は無く、温和に元通りの関係に戻っているようだった。
「その後は自宅でのトレーニング法を改めて教えて頂いたり、栄養のある食事を教えてくださったりしましたよ」
真剣に反省しているからか職務を全うすることに集中しているからかはわからないが、麗さんも謝った後はトレーナーらしい話題を提供していた。
「麗さんも真面目だな。ずっとそんな話だったのか?」
「…あと、甘い物を幾つかもらって一緒に食べたりしました」
なるほど、ああ見えて麗さんも甘いモノは好きらしい。
490: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:09:01.66 ID:iyM0Mdx3o
*
――改めて謝りたいと思います。本当にすみませんでした。
ちひろさんの母親から頂いたジュースとケーキを食べながら、メールで話しきれなかった今日の新鮮な話題を交わし合ったが、それも時間をすぎれば大体出尽くした。
その後は独特の静寂が俺達を包んだかと思えば、翠は体を俺に向けて頭を下げたのである。
……何度謝れば彼女は彼女自身を許すのだろうか。
俺は翠も麗さんも責めるつもりはなく、ただ心配しているだけなのだ。
それが怒っていると取られるのは少し残念である。
「これからはもっと頑張りますから、どうか見捨てないでくださると……嬉しいです」
「…見捨てる訳ないだろう。俺も、ちひろさんも。勿論麗さんもな」
すっと手を上げて、彼女の頭の上に置く。
まるで素振りをした時点で予想できたのか、いつものように可愛らしい声は上げなかった。
「ふふ、Pさんも慣れましたね」
「…お互い様だ」
身長差で俺を見上げる翠はくすりと微笑む。
それが良い事か悪いことかは置いておくとしてもだ、彼女との友好的関係を築くために大きな功績となっているのには間違いはないだろう。
後ろを向いて考えてみると、これを選択した当時の俺はよくもこんなことができたものだ。
常識で言えばまずこんなことにはならないのにな、とただ笑うしかなかった。
……なら、そんな馬鹿げた選択をしたついでだ、もう少し歩を進めてみようではないか。
491: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:09:31.53 ID:iyM0Mdx3o
「…翠、明日は何の日か知ってるか?」
ジュースを飲む翠に、一つ訊ねる。
「明日ですか? ええと…何かのイベントでしょうか」
本当にわからないといった態度で、グラスをテーブルに戻した後に頬に手を当てて逡巡しても、どうやら明確な回答は出て来なかったようだ。
まあ、急にこんな事を聞かれてわかる人はそう多くはないか。
カレンダーにも明日には何も記載されていない、ただの365日の内の一日である。
しかし、彼女にしてみれば真実は異なる。
俺は訝しげな表情の翠を他所に、持ってきていた普段から使っているドクターバッグからあるものを取り出すと、おもむろに彼女の手に置いて、こう伝える。
――誕生日おめでとう、翠。
明日、12月5日は水野翠の誕生日なのだ。
492: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:10:22.22 ID:iyM0Mdx3o
「え、え?」
「はは、自分の誕生日を忘れるなよ」
彼女の頭を撫でる。
予想通りというか、意地が悪いが思い通りの困惑ぶりに、俺も思わず笑ってしまった。
しかし、彼女の反応にも理由がないわけではない、
そもそも俺は翠と誕生日といった関係の話をした事がなかったのだ。
学園祭の時も、俺の家に来た時も、生まれの話はしても、誕生日の話はしていない。
故に、俺が翠の誕生日を知っていた驚いていた、というのが真相だろう。
「私の誕生日、知っててくれてたんですね……嬉しいです」
彼女の手には、一枚のチケットが握られていた。
それを胸に当て、かつて無いほどの美しい笑顔を見せている。
チケットとは、郊外にある有名なレジャーランドの一日フリーパス券である。
そのレジャーランドでは一年中季節にあったイベントが催されており、夏にはプールも併設され、性別、年齢層、入園者の構成を問わない万人受けするアトラクションを多数取り揃えた日本有数の巨大施設なのだ。
翠の手に一枚あるチケットは、俺の手にもう一枚同じ物がある。
「本当はフェスの後の約束だったけど、ちょっとはやいプレゼントだ。……楽しみにしてろよ」
「…ああ!」
それを見せると、彼女も即座に理解したようだった。
493: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:10:54.91 ID:iyM0Mdx3o
約束。
その言葉を訊けば、瞬時にあの時の視界が脳裏に映し出される。
――また今度、デートに行こう。
俺の寂れた部屋での言葉だ。
我ながら恥ずかしい事を言ったものだ、と思うが、今日ばかりはこの言葉に感謝をせざるを得なかった。
何故なら、フェスに向けての日々の過酷なトレーニングが今回の騒ぎを引き起こしてしまったのは自明だからである。
フェスの前という時期ではあるが、思い切って気分転換をして欲しい、そんな思いで誕生日プレゼントとしてこのチケットを翠に渡したのだ。
当の本人はというと、少女が更に幼くなったような自然体で無垢な笑みを浮かべて、幸せそうな目でチケットを見ていた。
勿論デートに行けるという嬉しさもあるのだろうが、俺が誕生日を覚えてくれていた、という意味合いでの嬉しさもあるのかもしれない。
好きという感情は非常に複雑で、この文字程難しい表現もそうそうない。
自分に降り掛かった現象が、どんな内容かだけではなく、誰からのものかという点によって印象が大きく違ってくるからだ。
誕生日プレゼントを家族からでも友達からでも、あるいはただの知り合い程度の人間からでも、翠なら心から喜ぶだろう。
しかし、もらった相手が俺だったら。
…彼女の表情にはそんな恋心が微かに含まれているような気がするのは、俺のフィルターの所為なのだろうか。
494: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:11:22.38 ID:iyM0Mdx3o
「…でも、いいんでしょうか。本番も近いのに……」
ひとしきり喜んで感謝の言葉を口にしていた翠は、不意に静まり返ってそう呟いた。
翠の言う通り、一ヶ月の境界線はとっくに通り過ぎてもう残り三週間というべきところまで来ている。
にも関わらずフェスのことを忘れて遊ぶのはどうか、と翠は考えていた。
……それが問題なのではないか、と俺は思う。
勿論、本番に備えて必死に練習をするのは悪いことではなく、むしろ全てにおいて推奨されるべき事である。
しかし、それを信じて突き進んだ結果、彼女は自身の力量を顧みず倒れてしまったのだ。
俺は、それが怖い。
今回は運良く過労も酷くなく、数日安静にしただけで風邪の症状と一緒に体から追い出すことができたが、いつもそうだとは限らない。
いつか己の力を…己の精神を過信して、取り返しの付かない事態に陥ってしまうのではないか。
そんな不安が、ここずっと俺の頭を占領しているのである。
495: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:11:59.70 ID:iyM0Mdx3o
翠は、自分を知っているようで知らない。
むしろ自分の全てを知っている人の方が少ないのだが、懸念すべき点は、翠は心が強い、という部分にある。
意思に背いて倒れるということは、体が意思に追いつかなかったという事に他ならない。
たまたま今回は軽い過労という結果に落ち着いたものの、これを反省せずに繰り返せばまた同じ事になることだって十分に考えられる。
それどころか、『もうあんなことにはならないから』という根拠のない自信めいた何かが彼女に植え付けられれば、この仮定以上の事態になる時が来るかもしれない。
何故ならば、彼女は一人で抱え込むからだ。
たとえ辛かろうと、痛かろうと、それを外に漏らそうとはしない。
不安をいくら口にしても、真の苦しみは伝えない。
それは彼女が己の立場を理由にして自身を追い詰めているからである。
だから俺や麗さん、ちひろさんに不調を訴えなかったのだと推測している。
一度は心配をかけてしまった。だからもうこれ以上は心配を掛けたくない。
――そんな思いが、より危険な事態を引き起こすのだ。
496: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:12:30.73 ID:iyM0Mdx3o
「翠はさ、我儘ってどう思う?」
先程とはうってかわって不安そうな表情をする翠に、俺は突然問いかける。
「……我儘、ですか?」
「そう、我儘。ああしたい、こうしたい。それを伝える事だな」
一見前の話題と全く関係ないような話題を振られて、翠はきょとんとして俺の言葉を跳ね返す。
数秒のラグを経て彼女が理解すると、膝に落とした手に握られているチケットに視線を向けて考え始める。
我儘には、良い時と悪い時がある。
己の力量をわきまえないで、自分の意志を最大の根拠に据えて行動することは、悪い我儘だ。
「…よくない事だと思います。我儘は周囲を混乱させるだけで、得にはなりません」
しかし、その日その時で移り変わる状況の中で生まれる変化のために自身が適応した結果、周りを変えていこうとするのは良い我儘なのである。
もしあの時我儘を言っていたら、翠が倒れることもなかったのだから。
「そうでもないさ」
再度翠の髪を梳く。
ぺたんとした髪が滝のように俺の手を流すと、翠はくすぐったそうに目を閉じた。
497: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:13:12.04 ID:iyM0Mdx3o
この質問を通して彼女の考え方が俺の中に映し出される。
…翠に足りないのは、自己主張と言う名の我儘だ。
彼女は、『意見』を言うことが場を乱してしまうのだと考えている節がある。
それが仮に同級生や友達といった対等な立場であれば、翠も向上のために率先して意見を言っただろう。
「俺達の指示に従って、頑張ってくれるのは嬉しい。……でもな」
しかし、この場は年上ばかりである。
自分の中だけで完結して力を身に着けていく習慣が子供の頃に備わった事に加え、指示をする人間が軒並み目上の人間でかつ本人が表向きでは信用しているから、言い出すことが出来なかったのだ。
髪を撫でる手を下ろすと、翠は俺の目を見つめた。
その表情は先程ともまた少し違っているが、それが喜怒哀楽のどれに位置するかはわからない。
翠がどう考えているのか。
俺の予想というのはあくまで想像の範疇にすぎず、真実を表してはいない。
だからこそ、俺は翠に本心を伝えて彼女の中心を探る。
その本心の伝える方法というのが我儘であり、自己主張であり、また自己表現なのだ。
「――ぶつかってきてくれたほうが、信頼を感じることだってあるんだ」
暖簾に腕押し、糠に釘という程のものではないものの、それでも彼女はどうしても受け身になりすぎている部分がある。
それも見方によっては利点だが、こと人間関係においては欠点にもなり得るのだ。
498: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:14:12.35 ID:iyM0Mdx3o
俺は彼女に対して常に本心を伝えているつもりだ。
多少隠すことはあっても、本意はいつも言葉に含めている。
だが、翠はどうだろう。
ただ頷いて受け入れることだけが、信頼に繋がるのか。
翠が俺を信頼しているとよく口にするのは、信頼しなければ自分の行いの正当性を間接的に主張できないからではないのだろうか。
決して伝えはしないが、今回のデートというのはそれを打開するための一つの方策であった。
499: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:15:01.52 ID:iyM0Mdx3o
「我儘が、信頼…」
ぽつりと翠は呟く。
罪悪感が無い訳ではない。
少女としての翠が心からデートを喜んでくれているのに、俺はプライベートの服を着ていると見せかけて、中にビジネススーツを着ているのだ。
しかし、翠のそういった点を改善するためにはこの場が必要だった。
きっかけもなく、ある日突然直接面と向かって言ったところで、表向きは頷いても本心はそれに従わない。
それは、心の何処かで主張をすることに歯止めをかけているからである。
素直であることはいいことだ。
しかし、心を隠蔽して耐えるということも、端から見れば素直と取られてしまう。
自分を隠して相手に本心を晒せるか?
相手に隠して自分を伝えることが出来るか?
今の翠に足りていない部分はそこだ。
意見して、我儘を言って、要望を伝えていくことが、ひいては本心を伝えると言っても過言ではないのである。
「だから俺は我儘を言うぞ。日々の辛い仕事を忘れて翠とどこかに遊びに行きたい、てな」
「それはどうかと思いますが…」
ここにきて翠の冷静なツッコミに苦笑する。
――だが、その表情に曇りはなかった。
500: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:15:48.22 ID:iyM0Mdx3o
「……では、私も言わせて下さい。明日、Pさんと一日中遊びたいです」
普段通りの静かな、それでいて芯のある美しい声が俺の耳を撫でる。
「おお、一日中か……俺も気合いれないとな」
一日中とは大きく出たものだ、と笑う。
そう言ってくれるのも、俺がこの話をしたからだろうか。
明日のデートでは、俺は翠を仕事仲間の担当アイドルとしてではなく一人の女性として扱うつもりだ。
かつて俺が翠に伝えた言葉が本心であるとすれば、その行動こそが俺の本心となる。
それを受けて、翠はどう対処するか。
彼女がアイドルという立場を忘れて、俺の立場も忘れて、対等な関係として我儘や意見を言って、その日を楽しんでくれたら。
……それは、本物の信頼へと繋がるはずだから。
「…フェスのことを忘れて?」
「フェスのことを忘れて、です」
冗談めかしてお互い笑いあうこの空気がやけに久しぶりなように思えて、何だかとても心地よかったのだった。
501: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:17:27.44 ID:iyM0Mdx3o
*
「ちょっとプロデューサーさん。翠ちゃんに何を吹き込んだんですか?」
翠の見舞いに行った後は事務所に戻って普段通り仕事をしている午後。
企画書作成のためにパソコンと長らく見つめ合っていると、不意に横からボールペンでつんつんと突かれる。
その方向を見ると、疑心暗鬼になってこちらを可愛らしく睨むちひろさんの姿があった。
普段怒らないせいか彼女が頬を膨らませるのが意外に思えて、何だか面白かった。
「吹き込んだって…どういうことです?」
今日のことを回想すると、確かに吹き込んだと言われればある意味吹き込んだようにも思える。
しかし、決して間違った知識を教えたという訳ではないのだから、ただ単に伝えたと表現するべきだろう。
ちひろさんは俺の回答に対し半目でしばらくこちらを睨むと、一つ大きな息を吐いた。
「…さっきお母さんからメールがあって、翠ちゃんが何だか今まで見たこと無いくらいそわそわしているんですって。それって今日プロデューサーさんが私の家に来た後のことですよね?」
わざわざ該当のメールが表示された画面をこちらに突きつけた。
文面には、嬉しそうな顔をしていること、様子を見に行くと落ち着きが無い事、プロデューサーである俺のこと、そして俺と翠の関係に対する母親なりの余計な推測云々が記入されていた。
ご丁寧にも、文章の最後には『アイドルとプロデューサーなんてもしあったら禁断の愛よね、キャー』などと言った文字がカラフルな絵文字と共に添えられている。
全く、どうしてこうも母親という人種は好奇心が旺盛なのか。
いや、あるいは女性という区分にすべきだろうか。
どちらにせよ、ちひろさんもその光景を見た母親の考えを看過することはできないと判断したのだろう。
彼女の訝しむ視線の意味がようやく理解できて、そっと溜息を付いた。
翠よ、そんなに嬉しいのか。
……そして、それこそ隠すべきではないのか。
502: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:18:07.06 ID:iyM0Mdx3o
いい加減な回答をする前に、思考にクッションを挟む。
当然ではあるが、翠が俺に対してどう思ってくれているのか、そして俺の家に来たこと、明日デートをすることなどは全てちひろさんには秘密にしてある。
まあ出かけること自体は他の事実に比べれば比較的健全であるはずだが、それを白状してしまうと更なる尋問が待ち受けているような気がするのだ。
そうでなくとも、以前翠の髪を撫でている姿を既にちひろさんには目撃されている。
ちょっとでも匂わすような事を言ってしまったら、すぐさまマンツーマンの独裁的裁判が事務所で開かれるに違いない。
かといって誤魔化せば、後で絶対にボロが出る。
翠があんな状態になってしまっては、まず確実に口が滑るだろう。
ではどうすればいいか、といくらか案を練ったところで答える。
「明日、翠は誕生日じゃないですか」
その言葉に、ちひろさんは目を大きく見開き、あ、と小さく漏らした。
ちひろさんはどうやら忘れていたらしい。
有能な彼女にもこういうことはあるのだな、と『やだ…私ったらなんてこと』と呟く姿を見て思った。
ここ最近の激務があれば、そうなるのも仕方のない話かもしれない。
どうしよう、と言っているちひろさんに対し、俺は続ける。
「それで明日も休養ですし、せっかくだからプレゼントで欲しい物を買わせてあげようということで出かけるんです。もしかしたら、それで楽しみにしてくれてるのかもしれませんね」
あくまでよそよそしく言う。
知っているのにこんなことを答えるなんて、白々しいにも程がある。
503: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:19:57.95 ID:iyM0Mdx3o
プロデューサーさんも結構気が聞くんですね、とちひろさんが小さく呟く。余計な一言である。
「……そうだ、買い物が終わったら、私の家で誕生日パーティをしませんか?」
おお、という声が無意識に出る。
なるほど、そういう手もあったか。
俺はチケットの事で頭が一杯になっていて、翠の誕生日自身へのお祝いという物がすっかり抜け落ちていたのである。
そういう意味で、ちひろさんの提案は願ってもない事だった。
「いいですね、やりましょうか。でも家の方は大丈夫なんですか?」
ただでさえ部外者であるちひろさんの母親に迷惑をかけているのだ、更に場所を借りるとあっては申し訳が立たない。
「大丈夫ですよ。前にも言いましたけど、お母さんったら孫どころか娘みたいに接してますから…」
そう判断して言ったのだが、対するちひろさんははっきりしない声色で答えてみせた。
実のところ、ちひろさんの胸中としてはさぞ複雑だろう。
例えて言えば、弟か妹ができた姉の気分。
俺の目から見ても、母親は翠によくしてくれているのがわかるくらいだ、ちひろさんから見れば余計に印象強く見えたに違いない。
この歳で嫉妬ということもないが、実の娘から見れば母親の翠への愛娘っぷりはどうも直視し辛いのだろうか。
「はは…なら大丈夫みたいですね。とりあえずケーキだけでも買っておきますか」
「それは私が買っておきますよ。サプライズのほうが二倍も嬉しいでしょうし」
衣装を翠に見せた前回の時も含めて、ちひろさんも中々粋な事をするものだ。
総合すると、俺が翠と出かけている間にちひろさんはケーキを購入して帰宅。
その後誕生日パーティをするという事だ。
504: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:21:01.31 ID:iyM0Mdx3o
「なるほど…了解です。プロデューサーさんはいつ頃私の家に来ますか?」
「ちひろさんの準備が完了する頃合いに合わせますよ。…まあ、夜がいいでしょう」
彼女の中では買い物だが、実際はレジャーランドで遊ぶのだ。
翠自身が一日中遊ぶといっているのだから、そう早くは帰宅できないだろう。
「私も仕事がありますからね……なら、20時でどうですか?」
普段ならちひろさんは提示された時刻よりももう少し遅くに事務所を後にする。
翠の誕生日パーティのために、少し早めに切り上げてくれるようだ。
俺としても、20時に帰宅するのであれば、と当日の行動を逆算する。
県外に行くと言っても立地上アクセスはかなり便利だし距離的にもそこまで遠くないので、開園から向こうに着いたとしてもかなり遊べるだろう。
「わかりました。では明日お願いしますね」
晩御飯を食べないようにしても20時であれば間食程度でごまかせるだろうし、丁度いいと判断して了承する。
じゃあ今からケーキ予約しておかないと、と受話器を拾うちひろさんを見ながら、俺はふと申し訳なさが沸き起こる。
翠の心情も、いつかは露わになる時が来る。
…その時が来てしまうのが、俺は怖かった。
519: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:03:33.40 ID:FQdnm0A+o
*
「うお…思ったよりかなり大きいな、ここは」
晴天の冬空の下。
車から降り立った俺は、駐車場からでも見えるレジャーランドの建造物の屋根を見て思わず呟く。
翌日。
俺は朝にちひろさんの家に行って翠を車に乗せると、あとは高速道路を通って件のレジャーランドにやって来たのだ。
天気予報は裏切らず無事に快晴となったことで、肌を撫でる風は冷たいものの心地良い日の出となったのであった。
途中でコンビニに寄って車中でつまむお菓子やジュースを買った後は運転しながら今日の事について談笑しながらここに辿り着き、今に至るという訳だ。
朝早くから出発したおかげで、多少移動時間はかかるものの入園開始時刻の少し過ぎ位に到着することが出来た。
駐車場に足をつけて早々、窮屈な車内から開放された反動で無意識に大きく背伸びをすると、何故か翠も同じタイミングで背伸びをしてしまう。
それに気づいた俺達は見つめ合うと、勝手に笑みが零れた。
なんて事のない些細な物なのだが、示し合わせたかのように同時に背を伸ばす互いの姿がどうにも面白かったのである。
くすりと笑った後は、同じ歩幅で歩き出した。
520: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:04:08.75 ID:FQdnm0A+o
「もう…Pさんがチケットくれたのに知らなかったんですか?」
身長差から、微かに見上げる翠は一つ息を吐く。
そう言われると耳が痛い。
そもそも俺はこういったレジャーを楽しんだ経験があまりない。
無論学校の行事で行ったことはあるが……、家族とでさえ数は劣る程だ。
ごめん、と頭を掻きながら苦笑すると、翠も同じ表情を取る。
「…ですが、好都合かもしれませんね」
「好都合?」
車からレジャーランドの正門まで歩きながら彼女は言う。
むしろ一般的な理論で言えば男性側からエスコートできない事に呆れるシーンであると思うのだが、翠はそんな素振りも見せないで微笑む。
「その方が、たくさん楽しめて…たくさん思い出に残りますから」
見上げている翠の顔からは、アイドル特有の雰囲気は何も感じられない、純粋な少女の笑顔。
だからこそ彼女は輝いているような、そんな気がした。
521: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:04:53.15 ID:FQdnm0A+o
「最初は何に乗りたい?」
数多の入園者と共に通ったゲートでもらったパンフレットを二人で覗きこむ。
位置が悪いのか、雪のような新品の白いキャスケット帽を少し触りながら翠は考え始めた。
当然だが、ある程度の変装と言った類の事はしなければならいという認識は持っている。
もしも彼女が誰もが認める有名アイドルだったならサングラスも必要だったろうが、そうであってもせっかくの楽しいオフなのに周りの目を気にかけさせるのは些か不躾だ。
そのため、翠には普段のイメージとは違ったファッションをしてもらう事で手を打ったのである。
慣れない帽子を気にするのはそのせいだ。
髪型もトレードマークのポニーテールから普通のロングヘアーにしている。
…まあ、普段とは違う印象の翠を見ることが出来て、俺としては役得なのだけども。
522: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:05:33.35 ID:FQdnm0A+o
「…ジェットコースターでもいいですか?」
「最初にそれを選ぶか」
数秒ほど間を開けて、翠は該当の場所を指差しつつこちらを見た。
指先に記された文字を見るとどうやら本格的なジェットコースターらしく、あちらこちらへと縦横無尽に駆け巡る写真が記載されていた。
まさか翠がそんなものを、しかも最初に選ぶとは流石に予想ができなかった。
翠自身も俺と同様にそこまでこういった場所に来たことがあまり無いと言っていたので、てっきり優しいアトラクションからから行くと思っていたのだが、存外彼女は気力満点らしい。
その瞳は期待に満ちて、さながら未来への希望を感じさせる程だ。
「よし、じゃあそれでいくか!」
正直に言ってジェットコースターに乗った経験はあまりない。
かといって、テレビで芸人が騒ぎながら乗るようなタイプの恐怖を煽るものでもないだろうし、俺でも大丈夫だろう。
…何より、高校生に負けるのは悔しいしな。
「ふふ、ありがとうございます」
そんな俺の表情を察したのかどうかはわからないが、翠は一つ笑う。
最初が肝心とも言うからな。
ここらで『らしい』ところを見せようか。
そう思って、パンフレットに従って歩き出したのだった。
523: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:06:07.52 ID:FQdnm0A+o
*
翠にとって運動というのは比較的親和性のある存在だったようで。
そして、ジェットコースターという存在は中々に彼女の好奇心を駆り立てる物だったようで。
「…だ、大丈夫ですか?」
ベンチで勢い良く座り込んで真っ白になりかけている俺を翠が心配そうに覗きこんだ。
「あ、ああ…ジェットコースター楽しいもんな」
青い空を呆然と見上げて呟く。
入園して一時間は経過しようとしている今。
このレジャーランドにいくつかあるジェットコースターを即座に制覇した後、クッションで優しい乗り物に乗った後、二周目に入ったところで俺の心臓が限界を迎えた。
普段から強い人だと思ってはいたが、恐怖やスリル耐性すら強いとは全く思わなかった。
そして俺とは対照的にどんどん元気良くなっている翠に感心すら覚える。
「すみません、調子に乗りすぎて…あ、飲み物買ってきますね」
「いや、俺が買いに――」
行くから、と言う前に、翠は足早に自販機のある方向へ走って行ってしまった。
「…情けないな」
あまりに非情すぎる現実に、ただうなだれるしかなかった。
524: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:06:38.63 ID:FQdnm0A+o
翠の姿を少し巻き戻して回想する。
いつも仕事として接する時は、自然体ながら真剣な表情で真面目に取り組む優等生。
たいそれたことはせず、二人でただ時間を過ごすだけの時は大人くて尚且つ恋慕に思いを寄せる少女。
そして、完全に仕事と切り離して遊んでいる時は品がありながらも元気な女子高生。
この一年を通して、俺は翠という存在について三つの顔を見ることが出来た。
それのどれが本当の翠なのかと問われれば、間違いなく全部そうである。
彼女の特性は、高い気品を持ちながらも接する人間に対して壁を作らず、不愉快のない自然体で居られることだ。
その結果、仕事で共演することになった人などの仕事に関わる人間とも気分を害させずに交流することで良い関係で居られ、それが理由で新たな仕事を回してくれることだってあった。
また、人当たりの良さで地元の商店街の方々とも親身になって応援してくれるまでになっているのだ。
それは言うまでもなく利点である。
もしも翠が自堕落で体裁を守るだけに集中するような人間だったら、今頃事務所を辞めて元の生活に戻っているだろう。
努力家で、素朴で、綺麗な翠は、堂々と最高の存在と言える。
いい事なのだ。
いい事なのだが。
…それ故に、俺は困っていた。
525: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:07:04.92 ID:FQdnm0A+o
このまま、この先も同じままで居られるのだろうか。
今の時点では、公私の区別はしっかりつけて、言うべき言葉、すべき態度というものがはっきり出来ている。
しかし、翠の感情が爆発する可能性だって今後無い訳じゃないのだ。
常識で考えても、今の関係がずっと続くとは思えない。
人は、常に欲求を持つ。
故に人類はあらゆる分野で進化を遂げてきた。
同様に、彼女もアイドルであると同時に一人の人間なのだ。
今はただ隣にいるだけで満足している翠も、一年後、半年後……いや、あるいは一ヶ月後にはもっと深い関係を望むようになるかもしれない。
好きという感情がエスカレートしてしまっては、確実に悪影響となる。
そうなってしまえば、どうあがこうとも無事で済ませられはしないだろう。
どんな手段でもってしても、必ずケリを付けなければならないのだ。
…そうすることで、彼女はきっと傷つく。
立ち直るならまだいい方だ。
最悪なのは、それすら抵抗し、明確な境界線を持つ彼女がいつしかそれを失ってしまった時。
アイドル・水野翠は終焉を迎えてしまうのである。
526: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:08:09.61 ID:FQdnm0A+o
多面性は、言い換えれば不安定と同じだ。
それぞれ成長させていけば、どこかで足の悪い土台に乗ることになる。
まさに、今がそれに近い。
もし初めからきっぱりと断ってちゃんとした境界線を引いていれば。
育てることを放棄して、感情を管理していれば。
「お待たせしました……と、どうかしましたか?」
ペットボトルのお茶を二本携えて翠が戻ってくると、訝しげに俺を見た。
彼女にはまだ調子が悪いと見られているのだろう、俺にペットボトルの片方を渡すと、翠はゆったりとした動作で隣のベンチに座った。
「いや、ちょっと昔の翠を考えてた」
ありがとう、と言って自販機の中で暖められたお茶を飲む。
寒空のおかげで、懸念に駆られた寒い心がとても暖かくなった。
「昔の私……ですか」
両手で暖かいボトルを転がしながら、翠は空を仰ぐ。
こんな楽しい場所に居ても尚、二人だけで話す時のこの雰囲気は健在だった。
527: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:08:39.38 ID:FQdnm0A+o
「…不思議、というのが改めての感想でしょうか」
彼女はぽつぽつと語る。
遠くを見つめ、思いを馳せる姿はまるで少女でない――何十年も生きた大人の姿だった。
「思えば私もよくここまで来れたと、我ながら驚いてます」
「そういえば最初は自信がなかったって言ってたな」
隣に座る翠は視線をこちらに向けた。
「はい…、私のようなただの人がいきなりアイドルに誘われるなんて全く思いもしませんでしたし、それが最初は不安でしたね」
誰もが持つ感情、そして彼女だけが味わう感情だ。
それを弓を引く事で間接的にだが伝え、俺に決断をさせた。
――間接的だって?
「でもPさんに期待してもらって、熱心に私を見てくれて…だからこそ、頑張れたんだと思います。本当に、有難うございます」
俺は翠の事を、芯の強い真っ直ぐな人間だと考えていた。
今彼女が言っているような不安も、ただ誰もが感じる感情だと思っていた。
…しかし、それは本当にそうなのだろうか。
間接的、という言葉に頭が強く揺さぶられる。
思い返せば、翠の方から先に判断や決定、あるいは提言をしたことがあまり無いような気がする。
一番強く印象にあるのは学園祭での彼女の言葉だが、それの前後では記憶に無い。
528: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:09:19.58 ID:FQdnm0A+o
「翠はいつだって頑張ってて偉い。だからここまで来れたんだよ」
遥か昔、俺は翠にこう言った事がある。
――『もう少し肩の力を抜いていい。もっと頼ってくれていい』。
その時は確か…初めてのオーディションの時だったか。
俺の言葉に呆れつつも、そんなプロデューサーさんなら相談できそうです、と言っていた。
そういえばあの頃は名前じゃなくてプロデューサーと呼んでいたんだな、と関係の変化に感慨深くなるが、見るべき点はそこではない。
……相談できそうです、と言って、今まで相談されたことがあるか?
「だから、これからもやっていこう。俺は君の隣に居るから」
ひたすら記憶を掘り起こす。
不安を打ち明けられた事はあった。
しかし、それすらも俺が励ますだけで問題は表面上解決したのである。
最近でもそうだ。
翠のネームを決める際に、自らは意見せず俺の判断を仰いだ。
ただの少女として俺に何かを言う時はあっても、アイドルとしては滅多に言わないのである。
彼女は自らで完全な意思決定を行わない。
イエスノーでは答えても、5W1Hでは答えない。
それは俺の質問の仕方が悪いのか?
今までの翠への対応を顧みても、曖昧なままで分かりかりそうにない。
「…ありがとうございます。私もずっと、あなたの隣に居ますから」
一体俺のこの感覚は何なのだろうか。
不安でもなければ期待でもない、何か別の感情が心の中に静かに宿っていた。
529: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:10:10.77 ID:FQdnm0A+o
「…ふう、もう大丈夫だ。ごめん、行こうか」
そんなことを延々と考えていると、かつて体に巡っていた疲れが吹き飛んでいたことに気づく。
確かにそういった各々の問題を片付けるために今日という日を作ったのは間違いではないが、何よりも翠の気分転換が一番の目的なのだ。
ひたすら考えたところで良い結果が生まれるとも限らないし、今は翠のために時間を使おう。
「次はどこ行きたい?」
「私が先に決めたので、今度はPさんが決めて下さい」
翠からパンフレットを受け取って、アトラクションの一覧を眺める。
意外に翠はスリルに耐性があるからな……。
「よし、じゃあここに行くか」
せっかくだから、どれだけそういった物に強いのか見てみたい気もする。
「お化け屋敷ですね、わかりました」
明るい園内にも関わらずやたらおどろおどろしい装飾がある場所へ、俺達は行くことにした。
530: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:11:31.90 ID:FQdnm0A+o
*
「はい、ポテトとハンバーガーな」
「ありがとうございます。こういう所で食べるのは嬉しくなりますよね」
楽しかったといえば、完全に嘘となる。
腕に残る彼女の柔らかいそれが、今もなお纏わりついていた。
お昼時。
園内のフードコートには同じ目的でやってきた来園者が多く駆けつけており、店内は勿論、寒いはずの屋外もごった返していた。
正午よりも早めに来た俺達が危うく外に放り出される位に盛っていた店内の小さなテーブルに座ると、翠は俺の顔を見て笑った。
どうにも、俺の座り方が老けているらしい。
――午前最後のアトラクションとして俺が選択したのはお化け屋敷である。
大人にもなると所詮作り物だとついつい斜に構えてしまうが、思いのほか内装や演出はよく出来ていたのだった。
何故このアトラクションを選んだかと言えば、今までのジェットコースターで精神的に劣勢に立たされていたから、せめて何かで一泡吹かせたいと思ったからだ。
年下の翠が楽しんでいるのに大人の俺がひぃひぃ言ってるのは、どう考えてもみっともないじゃないか。
……いや、その考え方自体がもはやみっともないのを通り越して情けないのだけども。
531: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:12:37.66 ID:FQdnm0A+o
お化け屋敷では、翠は狭い通路を俺の少し後ろからゆっくりと付いてきていた。
おどろおどろしいサウンドと暗闇が彩るスリル的感覚を、彼女は少し強張らせながら歩いている。
ちらりと見える彼女は楽しさ半分、怖さ半分といった所だろうか。
表情も元気であるように見せかけて、暗闇の中でも少し眉が下がっていたような気がしていた。
普段そんな表情をあまり見せない彼女がこうした顔をするのを見れただけでも、ここに来た甲斐があったのかもしれない。
…退屈なことを言えば、豊かな表情はリポーターとしてもそこそこの才を見いだせそうだ。
喜ぶ顔も寂しそうな顔も、幸せそうな顔も落ち込む顔も、どれを切り取ってもそこはかとない綺麗さ、上品さがあるのだ。
そう考えてしまうのも、俺という特殊な立場だからなのだろうか。
一度昔の知り合いと会う機会でもあれば、翠について聞いてみてもいいかもしれない。
入り口から歩く俺達に待ち受ける様々な仕掛けを乗り越えて、何だか楽しむと言うよりも楽しませてもらった時間も、外への出口を以て終了…という時だった。
532: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:13:53.80 ID:FQdnm0A+o
アトラクション側の人間としては、もうすぐ終わりという安心感を与えた所で最後のスリルを味わってもらおう、という魂胆なのだろう。
狭い廊下の一部分だけが暗幕でカモフラージュされていて、俺達が通り過ぎようとするタイミングで血の色に染まったミイラ男が大きな音とうめき声と共に襲いかかってきたのだ。
「うおわっ!?」
「ひゃあっ!?」
これに驚かない人は居ないだろう、と少し前を歩く俺が大きく後ろに仰け反って翠と共に驚きの声を上げたその刹那、腕に何か予想外の感触が押し込まれてきたのである。
だが目の前の驚きに比べれば全く強い衝撃ではないので、意識は前のミイラ男にだけ集中していた。
そんな俺達のあまりの驚きぶりにむしろあちらのほうが驚いたのかもしれない、演じきった後そそくさと元の場所へ立ち去るのを見つつも、俺の心臓の音は収まること無くしばらく大きく音を立てていた。
533: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:14:33.35 ID:FQdnm0A+o
「相手の方が一枚上手だったな…」
やがてその場で安静を取り戻すと、暗がりの中俺は誤魔化すように翠に言う。
「…Pさんはあんな声も出すんですね、ふふ」
俺が驚いた時の声をからかう翠。
表情は暗くて見えなくとも、何となく感心しているのはわかる。
そんな彼女の声は、視界とは違って暗闇の中でもよく通るようで、恐怖を煽るサウンドの中でも耳に素直に入ってきた。
しかし、ここで俺は違和感に気づく。
…声がやけに近いのだ。
通常の距離感で聞く声の濃さではない。
明らかに近い距離で発せられているのである。
そして、加えて先程の掻き消された感触が思い出される。
恐怖がひと通り落ち着いてくると、あの時俺の腕に感じたよくわからないふんわりとした圧力を再び脳が認識したのだ。
嫌な予感と共にようやく現れた冷や汗が背中を下りつつ、翠が居た方向を振り向く。
「……どうして腕に抱きついているんだ?」
その感覚は的中していた。
左腕、丁度肘を包むように、彼女の体が強く触れていたのである。
534: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:16:52.15 ID:FQdnm0A+o
「み、翠?」
この時冷静に指摘が出来たのは、恐らく先ほどの驚きがあったからか、あるいは驚きが感情発現の許容範囲を大幅に上回ったからだろうか。
「せめて、ここを出るまでは…いいですよね」
橙色の外灯と細切れの白い布が暗闇を照らす、昼夜が正反対となっているこの屋敷の中で、彼女の瞳は揺れるように煌めいていた。
後ろにも前にも、他の来園者は居ない。
出口への光が僅かに見えるこの場所から向こうまではどの位の距離があろうか。
目測で見ても、20歩に届くか届かないかの距離だった。
たったそれだけの空間を、彼女は二人だけの物として宣言したのである。
限りなく公共的な場所で生まれた、ほんの少しのプライベート。
それを腕に抱きつくという半ば恋人的行動によって証明したのだ。
…それは変化の証。
もしかすると、翠はこういった願望があったのかもしれない。
それ自体は、言うまでもなく大体の人間が当然持っている感情だ。
しかし、それを今行ったという結果が、良い事か、悪い事かは俺には判断が出来なかったのだった。
535: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:18:13.07 ID:FQdnm0A+o
「…うん、美味しいです」
翠は小さな口で一生懸命ハンバーガーを齧っては、俺の緊張など露知らず、ゆっくりと咀嚼して味を堪能していた。
決して高級な食材を使っている訳ではないし、この値段の高さも施設特有のサービス料のによるものだ。
にも関わらず本当に美味しそうに食べる翠は一体何の味を楽しんでいるのだろうか。
俺の気持ちは一向に安寧の気配を見せない。
お化け屋敷を出た後、少し早めに昼食を取ろうと俺が提案したのも、今も尚その感触と彼女の綺麗な髪からくる爽やかな香りが皮膚を貫通して、心臓の鼓動を加速させているからだ。
「…全く、あの時の翠には驚かされたよ」
「あの時?」
ハンバーガーに上品という概念があるのかどうかは不明だが、それでも丁寧に食を進めている翠は首を傾げてこちらを見た。
「出口で…な?」
改めてその時のことについて翠に言うと、用意された紙のケースにハンバーガーを置いてから、やや恥ずかしそうに視線を下げた。
「勇気が要りましたけど……周りには誰にも居ませんでしたから」
出来るだけ長くやっていたかったんです、と翠は小さく微笑んで答える。
しかし、その表情は羞恥心と言うよりもどことなく充足感に似た何かが漂っていた。
「変わったなあ、君も」
出会った時の頃からすれば、今の翠の状態は全くと言っていい程の別人である。
まさか恋人的行動を殆ど知らなかった翠が、こうも積極的に動いてくるとは思いもしなかったのだ。
無論、嬉しくないはずがない。
立場を抜きにしてしまえば、好意を抱いてくれる相手がこんな可愛い女性だったら、昇天モノである。
536: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:19:11.37 ID:FQdnm0A+o
一体どこでそういう方向にシフトしていったのやら、と一つ息を吐くと、翠は少し笑って、とんでも無いことを口にする。
「ゆかりさんに感謝しないといけませんね」
俺の耳を疑うが、彼女の声はフードコートの喧騒の中でも透き通ってよく聞こえているのだから聞き間違えではない。
すると、だ。
「……もしかして、ゆかりの入れ知恵か?」
「はい、教えて頂きました」
良き大人として俺は一度あの娘を叱ってやらなければいけない気がする。
そう言ってまるで何事もなかったかのように微笑む翠を見て、俺は再び息を吐く。
つまり、あの時俺の腕に抱きついてきたのは、ゆかりの戦略的アドバイスによるものだったということらしい。
いや、確かに翠の恋愛方面の知識・経験量から推測してもそういう行動にはおおよそたどり着かないのは俺がよく解っているのだから、ある意味主犯がゆかりであっても驚きはない。
ところで、大きな問題点が一つある。
それは。
「ゆかりは……俺達の事を知ってるのか?」
俺達の事、というのは何も存在という意味ではない。
翠が俺に対してどう思っていて、俺が翠にどう答えたかという事だ。
「はい…というよりも、私の方が好きとだけですが」
その一言で強く安堵感が感情を支配する。
よかった。担当アイドルに恋するプロデューサーなどと言いふらしていた訳ではなかったようだ。
……あながち嘘でもないのが悩ましい所であった。
537: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:20:13.78 ID:FQdnm0A+o
何といえばいいのやら。
立場としては当然怒るべきなのだろうが、ゆかりならそんな秘密も守ってくれるから大丈夫だろう、とも思う。
アイドルが仕事上であろうとなかろうと異性として好きだという状況が危険なのに、具体的な対処をして来なかった俺に、危機感が足りなさすぎるのだろうか。
「話すのはいいけど……そういう話は危ないから無闇にしないようにな」
「…すみません」
こういう会話をしていると、翠を可哀想にも思う。
決して翠は周囲の環境が恋愛に盛んではなかったとは言え、一人の少女として恋愛にもそれなりに興味を持っていたはずだ。
であるにも関わらず、このように思想や行動に制限を掛けられるというのは精神的なストレスもかなり背負うことだろう。
背中を丸めて視線を落とし、あたかも落ち込んだような格好を取る翠を見て俺も焦ってしまう。
「ああ、いや、悪い訳じゃない。ただ、もし外部に漏れでもしたら大変なことになるから気をつけて、という意味で……って、俺に対しての事なのに俺が言うのも変な話か」
「…ふふ、確かにそうですね」
別に怒っているのではなく、単純に今後のスキャンダルの種が発芽するのを避けたいだけだ。
仮に俺以外の男性が好きだったとしたら、今の状態を話してから理論的に説得し、すぐにとは言わないが、徐々に霧散させるように命じていただろう。
しかし、なまじっかそれが俺に向いているので、そう簡単に無下にし辛いのであった。
…そう考えると、俺も男だったという訳だ。
538: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:20:39.45 ID:FQdnm0A+o
「ですが、今までそんな話に入ったことがなかったから……Pさんの話をゆかりさんと出来るのが楽しいんです」
「本人の前でそういう事を言われると流石に恥ずかしいな…」
特に我慢すること無く翠はそう言ってのけた。
数カ月前までは色恋を知らなかった彼女も、今では口にできる程に成長しているらしい。
翠の恥ずかしいながらも自信を身に付けた赤い顔が、それを表していた。
「…ちなみに、どんなことを話してるんだ?」
そこまで言われると、本人である俺も段々と気になってくる。
本来なら俺が立ち入るべきではないエリアだと思うのだが、下手にアイドルにとってのタブーに触れかかっているのだ、俺が知ろうとする行動も決して非難されるような事ではないはずだ。
何より、この二人でオフに出かけるという行為が、プライベートに踏み込んでも許されるような雰囲気を増長していた。
「そんな大したことではないんです。ただ――」
それにあてられたのか、恥ずかしそうにしていた彼女も今まで抑圧されてきた物が反動で拡散していくように、こまめに区切りつつも話し始める。
Pさんはどんな事が好きなのでしょうか。
どんな女性が好みなのでしょうか。
聞いているこちらのほうが恥ずかしくなってくるような事を俺に言う。
「ちょっとした仕草とか普段の仕事をする姿とか、Pさんに関わる色んな事を見て、知って、ゆかりさんから色々アドバイスをもらっていたんです」
…やがて言い終えて口を閉じると、振り切ったように俺を直視する。
その顔は上気していながらも、とても幸せそうだった。
539: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:21:52.75 ID:FQdnm0A+o
――ああ、なんだ。
心の中で、喉に絡まっていた灰色の何かが胃に落ちた。
ちゃんと信頼してくれているのだ。
本当に、俺のことを信用してくれていたのだ。
本人を目の前にしてこんなことが言えるなんて、信頼以外の何物でもないではないか。
心の中では俺を信用していないとか表面上とか、明確な所在もなく色々と疑ってしまったが、彼女は純粋な目で、真っ直ぐに俺を見てくれていたのだ。
それを知った時、彼女に対して疑心暗鬼ともとれるような様々な憶測をしていた俺が途端に恥ずかしくなった。
540: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:23:36.85 ID:FQdnm0A+o
「…気分転換だとかデートだとか、体の良い理由を挙げてここにきたけどさ。本当はそういう目的じゃなかったんだよ」
「え?」
フードコート内は、既に昼食のピークを過ぎて喧騒が失われつつある。
ただでさえ広いこの空間が余計に広く感じられ、それだけ俺達の空気というものが周囲と隔離されているような錯覚すら覚えた。
ジュースの入ったカップの氷が崩れる音を鳴らす。
ある意味で残酷な俺の言葉に、翠は黙っているしかないようだった。
障壁が瓦解したかのように、ここまでの経緯が次々と俺の口から出てくる。
その度に翠の表情が暗くなっていくのが話しながらでも読み取れた。
言い訳染みた理由だ。
本人の願いや思惑を全て踏みにじるような言葉達は、いとも容易く彼女の心に傷をつけていく。
それが癒えるのか、ずっと刻まれ続けるのかは俺にはもう判断できない。
ある意味、懺悔であった。
人と人が出会えば、必ず衝突する。
それ自体はどこの世界の誰にでも起こりうる話で、俺もここまで心を痛めたりはしない。
「つい最近の話だけど……倒れただろ、翠」
ただ、今回は違う。
翠の抱えている純白の感情を、仕事に蝕まれた汚らわしい意識によって蹂躙してしまったのだ。
低次元で見てしまえば単に目的が違っただけの事だが、こと彼女の立ち位置からすれば恐らく許されるものではない。
541: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:25:34.05 ID:FQdnm0A+o
「……っ」
翠が俯き、小さく唇を噛んだ。
それは先ほどあった感情とは全く正反対の物。
ここに来てからどれだけ長い時間が経ったのだろう。
密度ある濃い時間は、相対的感覚を失わせるのに十分だった。
そして、俺は言わなければならない。
それが俺に出来る彼女への償いなのだ。
「それで、いくら翠が俺達に責任が無いと言っても、俺は思ってしまうんだ――」
翠は、俺の事を本当は信頼していなかったんじゃなかったのか?
――そう告げた瞬間、突如机が衝撃を受け、軋むような悲鳴を上げた。
542: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:26:21.99 ID:FQdnm0A+o
「い……いい加減にして下さいっ!」
彼女は机を叩くと、酷く憤った顔で立ち上がって俺を睨んだ。
かつて見たことのない、未知の翠の姿だった。
その瞳は、微かに揺れていた。
外灯や影ではない、純粋な神秘の水が、そっと瞳に溜まり始めていた。
「み……翠?」
あまりに突然な翠の行動に、俺は椅子の木製の背もたれに体重を思い切り預けてのけぞってしまう。
周囲に居たもう数少ない他の来園者の中には、机を叩く声と翠の声に振り向く人がいくつか見られたが、我関せず、せっかくの楽しい時間を壊したくないとそそくさと去ってしまう。
一体何が起こった?
突然舞い込んだ事態に理解が追いつかず、ただ何も言えず彼女を呆然と見ているだけの俺に、翠は溜め込んだ物を吐き出すように続ける。
「…私、前にも言いました。あなたのことは本当に信頼しています、と」
確かに言った。
俺は、それが翠自身の歩みを正当化させるための暗示だと愚かにも疑ってしまった。
「信頼しているから、今の私が居るんです。……信頼しているから、あなたのことが――」
句読点が到達する前に翠は強引に言葉を切るが、俺にはしっかりと届いていた。
543: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:27:20.50 ID:FQdnm0A+o
きっと、好き、と言いたかったのだろう。
ここが公共の場であることが、それを躊躇わせたのだ。
変装をして、現状では他の来園者やスタッフにバレては居ない。
しかし、今の状態ではそうなる可能性もゼロではないのだ。
それを瞬時に判断して言葉を飲み込んだ翠は、決して感情的ではなく、むしろ驚く程に冷静であった。
彼女は続ける。
「…教えてください、Pさん。どうすれば、私を信頼してくれるんでしょうか?」
俺の背中に誰かが氷を大量に投げ込んで、心が強く軋み始める。
数十秒、お互いが見つめ合ったまま時間が過ぎる。
フードコートの店内を響き渡らせる場違いな明るいサウンドが、より一層俺達を隔離させた。
544: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:28:55.01 ID:FQdnm0A+o
彼女は俺を信頼してくれていた。
だから、辛そうな表情をして、怒りを露わにしているのだ。
「……翠が倒れたのは、疲れが抜け切らないまま更に練習をしてしまったせいだ。それを俺に言わなかったのはどうしてなんだ?」
だったら、何故俺に体調の事を申告しなかった?
元々俺がそう考えてしまうようになったのも、体調不良を誰にも言わず、我慢しようとした事が原因なのだ。
「もしもちゃんと俺に言ってくれていたら、翠が倒れることもなかったんだよ。…だから、本当は俺の事を信頼していないんじゃないかって思ってしまったんだ」
「それは……その」
もはや指摘するにおける障壁はどこにもない。
包み隠さず訊ねると、彼女はさっきの勢いなどとうに消え、言い淀んでしまった。
俺を見つめていた瞳も下を向き、再び黙りこくる。
報告しなかったのには、どんな理由があったのだろうか。
一旦口をつぐんだ翠が再び開くのは、コマ送りをするようにゆっくりと元の椅子に座ってからだった。
545: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:30:24.84 ID:FQdnm0A+o
「……怖かったんです。あなたに嫌われるのが」
再三の経験。
俺はまたしても、耳を疑った。
翠に言ってやりたい反論も、無理やりねじ伏せて続きを待つ。
「私は、本当は何をするにも怖くて、Pさんが居なければアイドルなんてできなくて」
彼女に纏わりつく永遠の闇は、不安であった。
それ自体は、何回か本人の口から聞いている。
「でも、Pさんが期待して応援してくれるから、今まで頑張ってこれたんです」
その度に、俺が居たから頑張れた、期待してくれているから頑張れた、と彼女はくり返し俺に伝える。
それがどういう意味を持つのか。
自分で結論を導く前に、翠は素直な感情を…本当の感情を打ち明けた。
「ずっと応援してくれているPさんを私が頼って負担を掛けてしまったら……失望されると、思ったんです」
「そんな訳が――」
「わかっているんです、そんなことは無いって!」
咄嗟に出てきた俺の反論を、翠は潰した。
翠の中で、大いなる矛盾がひしめき合っていたのだ。
そんなはずはないと確信しているのは、言葉通り俺に対する確固たる信頼があったからこそだ。
しかし、その裏でもしかしたら失望されるかもしれないという不安から、二つ対なる感情がせめぎあっていたのである。
「それでも……怖いんです。優しいPさんが私に愛想を尽かすのが」
始終俯いたまま、彼女は口を閉ざす。
546: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:31:49.46 ID:FQdnm0A+o
――翠の不安は、そもそもの原因として俺の評価のし過ぎであった。
俺が言っては説得力がないのだろうが、翠にとって、好きな相手に失望されることが一番の最悪な未来なのかもしれない。
すると、俺の頭の中にふと昔の思考が滑りこんできた。
『もしも馬鹿げた妄想を述べさせてもらえるのなら――』。
みっともない妄想だとすぐさま抹消したその推測は、不幸にも的中していたのだ。
幼い恋心は、唯一無二である自身の体よりも実像のないそれを恐怖したのである。
「…ごめんな」
ああ、なんて無様な擦れ違いなのだろう。
全ては俺の責任だった。
ずっと、翠のことを芯のある強い人間だと思っていた。
……それが、余計に彼女に架空のプレッシャーを与えてしまっていたのだ。
そして、翠の思いに真正面からあたらなかった事が、悲痛な矛盾を生み出すきっかけとなってしまったのだった。
547: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:33:06.38 ID:FQdnm0A+o
沈黙を続ける彼女を見て、俺は続ける。
「翠が初日からずっと頑張って練習して、毎日見違えるように力をつけてるから、俺は無意識の内に期待をかけすぎていたみたいだ」
必要以上の期待を受けて、必要以上の重圧を背負って。
背中よりもずっと大きな物を背負い続けて。
「…いえ、いいんです。あなたに期待されて、嬉しくないはずがありませんから」
そんな俺の言葉に、翠は小さな声で反論した。
精一杯のフォローのつもりだろうが、その気持ちがより一層俺を惨めにさせた。
「俺は翠と出会えて本当に幸せで、嬉しくて……舞い上がってたのかもしれない」
疑いようのない事実だ。
水野翠という人間をスカウトしてから、熱心に練習をする光景を見た時は思わず彼女をスカウトできた俺を自画自賛をしてしまう程に喜んでいた。
それは、事務所の運命を託す人間としての嬉しさだ。
だが今は違う。
純粋に一人の人間としての彼女と出会えて喜んでいる自分が徐々に生まれてきたのだ。
どちらかと言えば、確実にそれは悪い感情だ。
あくまで仕事のパートナーなのだから、そういった気持ちを持ち込むべきではないというのが、業界人としての義務なのである。
しかし、と俺は常識に反論する。
些細な偶然で出会えた彼女が、間違った判断とはいえ身を挺してまで俺のために頑張ってくれていたのだ。
――そんな彼女を、人として愛おしく思わないはずがないじゃないか!
548: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:34:16.68 ID:FQdnm0A+o
「翠のためと言っておきながら、関係ない、俺の個人的な目的で誘って本当にごめん」
ゆっくりと、俺は頭を下げる。
申し訳なさしかなかった。
そんな彼女を間近で見ておいて、どの口が『信頼してくれていない』などとほざけるのだろうか。
感情を見透かしたのか、翠は顔を上げ溜め込んだ瞳の水を手で拭ってから小さく笑う。
「例え関係のない目的だとしても、私は今日Pさんと遊べて幸せでしたから……気にしないで下さい」
結局は、俺の考えすぎだった。
まだまだ新人であるが故の、無意味な不安が行き過ぎていただけなのだ。
もしも彼女の本意に気付いて受け止めてやれていたのなら、倒れることもなかったに違いない。
今まで俺は、翠を導く立場だとずっと考えていた。
しかし、本当はそんな偉大な存在ではない。
俺は一人の少女をシンデレラにする格好いい魔法使いなどではなく、宮殿までの道をシンデレラの横で共に歩く、物語に描写されない、頼りない従者だったのだ。
549: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:34:51.13 ID:FQdnm0A+o
「ありがとう、翠」
何度間違えば気が済むのだろうか。
翠の担当プロデューサーが俺でなければ、もっと早く彼女をよりよい存在に仕立て上げられたのかもしれない。
だが、所詮それはイフの世界である。
数奇な導きによって同じ場所に会してしまったのが俺なのだから、俺なりのやり方で、俺なりの全力で、彼女と共に歩いて行きたい。
「だからこそ君に言う。喜びも、悲しみも、不安も、怒りも、全ての感情を俺にぶつけて欲しい、晒して欲しい。……例えそれが欠点であろうとも、俺が君を好きであることには変わらないし、もっと翠を好きになれるから」
痛みが無かった訳ではない。
彼女の涙という形で、少なからず傷つけてしまったのは紛れもない事実である。
しかし、それも決して悪い痛みではないようにも思える。
何故ならば、そのおかげで翠の心の奥底が露わになり、俺の心の奥底も晒せたからだ。
「好き……」
翠は小さく呟いた。
一体彼女と出会って何回その言葉を頭に浮かべたのだろう、全く想像もできないぐらいに、好意というやっかいな存在と相対してきたような気がする。
だがそれも今日で終わりとなるだろう。
お互いの視線が重なり合った時、生まれたのは軋みではなく癒合。
正真正銘、翠のパートナーとして、俺を見てくれているのだと確信した。
550: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:36:21.44 ID:FQdnm0A+o
あれだけ物々しかった雰囲気が、一瞬にして静かになる。
周囲に見える人物は数えるほどにしか居ない。
今から来る人は、少し遅目の昼食かデザート類を間食が目的だろう。
各々が手に持っているトレイには、透明なジュースカップや甘い香りを漂わせるスイーツが載せられていた。
「…初めて言ってくれましたね」
「初めて?」
この状況から次の会話をどう切り出そうかと言葉に迷っていると、翠はゆっくりと己の両手を重ねて、こちらに微笑みかけた。
「前に聞いた時は……そうでした、スカウトだとか言って濁されてしまいましたから」
「……ああ、そういうことか」
質問の前後が繋がり、意図を合わせるように相槌を打つ。
実時間では数日前の出来事でも、俺が覚えている過去の距離とは遥かにかけ離れて遠い昔のような錯覚をする。
少女・翠として俺の家に行きたいと言ったあの日、思いを告げた彼女に対しての俺の返答の言葉であった。
「…言い辛かったんだよ」
「わかってます」
当時の心境としては、担当アイドルに対して好きという言葉を用いることが不適切であるように思えて、表現を別の物に変える必要性に駆られたのである。
無論、今でも尚常識の範疇として誤解されるようなそういった表現は避けるべきという概念は持ち合わせている。
ただ、翠と顔を合わせる度、翠と会話する度、翠の頭を撫でる度、ますますのめりこむように惚れ込んでいっている自分が居たのだった。
「…出来れば忘れてくれると嬉しいんだけど」
「ふふ、忘れませんよ」
いたずらっぽく彼女は笑う。
その笑顔がまたもや少女的で、水を得た魚のような、鯉が泳ぐが如し快活さが表情に表れていた。
551: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:37:32.03 ID:FQdnm0A+o
「何だか本当に気分転換ができた感じがします」
一般的に昼食と言われる時間もとっくに過ぎ去り、既に二人ともトレイの上の食べ物は失くなっていた。
ごちそうさまでした、と手を合わせて呟いた後、翠は首を傾げて笑みを見せる。
俺の考えていた気分転換と今彼女が言った気分転換とでは意味合いがかなり違うのだが、ある種の修羅場を越えたのだから、もはやそんな些細な違いなど気にならなくなっていた。
「色々言ってしまったけど、改めてごめん。俺も気をつけるよ」
わざとらしく――もう過ぎたことだ、と大げさに頭を下げる。
普段であれば、それを真に受けて本気で制止しようとする翠も、ふふ、と冗談と受け取ってくれていた。
ある意味、これも信頼なのだろう。
冗談が通じる仲というのは一種の指標である、と俺は感じた。
「もう謝るのは終わりにしましょう。お互い様、ですから」
あれだけ怒りを露わにしていた翠も、すっかり落ち着いてそう答える。
謝ろうとすればキリが無い。
それは俺が麗さんに対して言えることでもあるし、俺と翠、両方に対しても言えることだった。
「…はは、そうだな」
これ以上深くは掘り下げないし、掘り下げる必要がない。
紆余曲折を経て信頼を勝ち取れたのだから、今度こそこれを信頼したいのだ。
552: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:39:13.91 ID:FQdnm0A+o
「――あっ」
頭を冷やすように、底に溜まり始めていた溶けた水とジュースの混ざった薄いブレンドをストローで吸っていると、翠は不意に思い出したように呟く。
「どうかしたか?」
何か言うのを忘れていた事でも思い出したのか、天井を見上げて少し考えるような仕草をする。
翠が俺の仕草を見てくれているというのなら、俺も翠の仕草を覚えてもいいのかもしれない。
それでからかってやったら、翠はどんな表情をするのだろう。
普段なら絶対に考えないような事もすんなりとシミュレートできる程に、今の俺の気持ちは羽のように軽かった。
彼女は重ねた手を解くと膝の上に置いて、真っ直ぐな目で俺を見る。
「…もしもあなたに申し訳なさがあるというのなら、一つお願いをしてもいいですか?」
ハンバーガーを詰め込んでいた箱を畳んでナプキン類と一緒に纏めているあたり、真面目と言うよりも綺麗好きか、整頓好きの気があるのだろう。
トレイの上をスタッフも喜びそうな位に整理にした翠は、俺にそう訊ねる。
何だか改まったような口ぶりだな、と俺は素朴に思った。
少女としてのお願いなら、これまでにも幾度と無く受けている。
これが、今度はアイドルとしても積極的に意見を言ってくれるに違いない。
そんな未来への期待と過去からの自信を胸に秘めて、耳に入れた翠の言葉は、おおよそ考えうる限り、素直で、純粋な願いだった。
――今日、私とあなたとしての最高の思い出を、私と一緒に作って下さい。
553: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:40:13.12 ID:FQdnm0A+o
下衆な企みが全て明るみに出て見事完遂された今、それを行う上での障害は何もない。
今こそ全力で翠に付き合う時だ。
おう、という短い返事と共に、何気なく差し出した俺の拳は、テーブルの中心で彼女のそれと触れ、通電したかのようにお互い笑っていた。
554: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:41:10.72 ID:FQdnm0A+o
*
「はあ……楽しかったですね」
やけに甲高い音を挙げてぶるぶると震わせながら、車は動いていく。
冬ともなれば、日の落ちが早いのは誰でも知っている。
まだ一般的な晩御飯の時刻でないにも関わらず、夜の街灯が点き始めるような、そんな夕方に俺達は自宅への道を走り出していた。
「気に入ってくれたか、それ」
車内には夕方のラジオが流れている。
高速道路を降りて、翠の現寝泊まり先であるちひろさんの家に向かって下道を走りだす最中、パーソナリティが軽快にトークを繰り広げられていた。
助手席に目をやれば、帽子を脱いだ翠がお土産として買ったレジャーランドのマスコットらしい独特なセンスを持つキーホルダーを手でぶら下げて遊んでいる。
そして翠の肌白い首には、行く時にはなかった小さなネックレスが付けられていた。
銀色が夕日に照らされて、彼女の持つ白い肌を艶やかに演出しているそれは、俺が選択した物である。
「ずっと付けることにしますね」
「いや、そこまでやらなくてもいいからな」
横目で俺を見て翠は笑う。
元々以前まではチケットが誕生日プレゼントという名目にしていたのだが、前日ちひろさんとの会話の中で、それとは別にプレゼントを渡した方がいいという結論が出たために彼女に選んでもらったのだ。
丁度高速道路に入る前、視界の端に大型のショッピングモールが映ったので、そのまま車をそちらへ向かわせたのである。
そういった類の事は一切伝えていなかったため、今日という日とレジャーランドの土産屋で買った物が誕生日プレゼントだとすっかり思い込んでいた翠は、その事を知ると甚く喜んでくれたのであった。
555: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:42:16.23 ID:FQdnm0A+o
「これからは……どんな事でも、私の全てをPさんに見せたいと思います」
ラジオから流れる音は、トークから昔に流行した懐かしい曲に移り変わっていた。
きっと番組内のコーナーなのだろう、あまり良いとは言えない音質ながらも微かな懐かしさを思い出させてくれた。
「ああ、勿論言いたくない事なら言う必要はないからな。ただ、言いたいことがあったら俺に遠慮しなくていい、という意味だ」
シートベルトを着用し、翠は綺麗な姿勢で粗末な助手席に座る。
タイヤからの衝撃はどこにも吸収されず、直接的に俺達の体を揺らしていた。
社用車で、ただの移動用の手段として設けられたものなので快適さを求めてはいけないのである。
「わかっています。それでもこうしなければ、きっとあなたはまた私を疑ってしまいますから」
ふふ、と車内にくすりとした小さな声が漂う。
最近…いや、今日のあの時を乗り越えてから、翠との距離感がぐっと近づいたような気がする。
物理的な意味ではなく、人間的な意味で、だ。
以前はこうした冗談を言うような感じではなかったはずだが……これも、彼女の本性なのだろうか?
「勘弁してくれ…」
そう言って、ひとつ嘆息する。
やけに突っかかってくる翠の姿を見ていると、何だか弱みを握られたような気分になった俺であった。
556: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:43:26.01 ID:FQdnm0A+o
*
――今日は、本当にありがとうございました。
ちひろさんの家の前、塀に沿って車を横付けする。
抱えるような荷物は何も無いのでそのまま翠と家の玄関まで歩くと、彼女は不意に振り返って礼を言った。
どれだけ翠のことを探っても関わっても、結局丁寧さという面では不変であるらしい。
可愛らしい笑顔を見せながらも本意の声は、暗がりの中でもよく聞こえた。
「俺も楽しかったよ。よかったら、また行こう」
「はい!」
大層嬉しそうに頷くと、それでは、と家に入ろうとする翠を俺は制止した。
「…何か忘れ物でしょうか?」
彼女にとっては今日はもう終わりで、解散して後はいつも通りの夜を過ごすと思っているようだ。
「いや、そうじゃないけどね」
止められた訳もわからず俺に訊ねるが、俺はあえて答えをはぐらかす。
では一体、と続けようとする翠を遮るように、俺は続けた。
「誰も、今日はここで終わりだなんて言ってないぞ?」
「え?」
ものの見事に巨大な疑問符を浮かべてくれる。
ちひろさんの家族を含めて準備する側にとっては、これ程嬉しい表情はない。
驚きが喜びに変わる瞬間こそが、サプライズの醍醐味だからだ。
「まあまあ、行けばわかるさ」
「お、押さないで下さいってば」
背後から翠の肩を掴むと、ぐいぐいと家の扉の方へ押してやる。
一応示し合わせた時刻は20時としているが、少し早くなってしまったために高速道路のサービスエリアにて予め連絡している。
ちひろさんにはそれに応じて帰宅時間を早めてくれたようで、準備も既に終わっている頃だろう。
見送るだけなのにどうして俺も着いてきているのだろう、という疑問を恐らく浮かべているのだろう。
一瞬怪訝な顔をしつつも、命令に従ってそのまま家に入った。
557: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:45:14.70 ID:FQdnm0A+o
玄関は、電気が付けられただけの寂しい雰囲気だった。
靴も全て収納されており、どうやら今日のために綺麗に掃除しているようである。
何度も繰り返した問いかけに俺が答えない事で諦めたのか、先程まで漂わせていた疑問符を解消させ、抵抗すること無く素直に俺の後ろを歩き始めた。
以前にも似たような事があったが、どうも俺やちひろさんはそういう演出が好きらしい。
子供っぽいかなと思いながらも、静かな足取りで翠の前を歩く。
行き着く先はリビングであった。
廊下とリビングを繋ぐ扉は、すりガラスが埋め込まれた木製の扉で、アンティーク調のおしとやかな雰囲気を持っていた。
しかし、今日だけは明るい空気にさせてもらおう、と扉の前に立ち止まると、その場を翠に譲る。
「開けてみてごらん」
「…わかりました」
懐疑は抜けないものの、俺の言う事なら、とでも言いたげた表情で翠はこちらを見た。
信じているがやっぱり怪しい、そんな妙な緊張感が彼女を少し強張らせていたので、大丈夫だよ、と笑ってみせると、決心がついたようで、一つ頷いてからドアノブに手をかける。
かちり、とドアを固定する部分が開放されると、小さな軋みと共に扉が開いていく。
明かりの点いたリビングが、段々と視界に広がっていく。
そして、視線が真正面を捉えたその刹那。
――けたたましい音と共に、翠に色鮮やかなラインが覆い被された。
558: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:46:59.53 ID:FQdnm0A+o
「ひぁ!?」
この音は、まさしく祝砲。
部屋の中に居たちひろさんとその両親が、絶妙なタイミングで翠にクラッカーを放ったのだ。
まさかの大音量に思わず手を引っ込め、口を大きく開けながら翠は目を白黒させた。
「ち、ちひろさん…?」
「ふふ、驚いた?」
まさにしてやったり、というような笑顔である。
これだけリアクションをしてくれたら、準備した方も満足というものだろう。
…俺も少し驚いたのは秘密にしておく。
しかし、主役はちひろさんではなく翠だ。
急展開にまだ状況が掴めていないらしい翠の手がちひろさんによって引かれ、そのままされるがままに背後のテーブルへと案内される。
「これは……もしかして、私の――」
食卓に並べられた食べ物を見て、ようやく事態が飲み込めたようだ。
信じられない、といった風に感嘆の声を上げて、再度俺の顔を見た。
「今日はまだ終わってない。そう言っただろ?」
「わ、私の……ために」
そう答えた瞬間、彼女の固まっていた表情は次第に融解していく。
「翠ちゃんもお腹空いたでしょう? 早速食べましょうよ!」
ちひろさんの母親が感傷に浸る翠を牽引して合図をした。
「せーの――」
思いに耽るのも構わないが、それはいつだってできる。
なら、今しかできない特別な時間を優先すべきだ。
お誕生日おめでとう、翠。
微かな火薬の香りが残るこの部屋で、甘美な魔法をかけてから、俺達は特別な食事を楽しんだのだった。
559: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:48:53.42 ID:FQdnm0A+o
*
「今回の監督不行き届き、誠に申し訳ありませんでした」
久方ぶりの愛知で、翠の母親に会った俺は真っ先に頭を下げた。
こうしなければならない事情といえば、言うまでもなく例の件である。
「なるほど、そんな事が……」
お菓子が美味しくなる時間帯、父親の方は現在仕事で出かけており、在宅しておられるのは母親だけであった。
休日にすれば、という話は勿論あったが、せっかく戻るのだから翠にはフェスの宣伝も兼ねて学校に出席してもらう事にしたのだ。
無論、以前から何度か出席はしているものの、この数日の間に合同フェスの参加メンバーがテレビにて発表されて公式的に宣伝が可能になったので、翠のメンタル面での休息も併せて丁度いい機会に、という事であった。
そして俺は、地元での活動に際しご縁があった方々に一年のお礼とイベントの告知ポスターの配布活動を行なったのである。
地元の商店街の方々やラジオ局、許可を得て学校にもいくつか貼ってもらえるということで、業者に頼んでダンボール一杯に印刷してもらったポスターはいとも簡単に消えてしまった事からも、翠の知名度の上昇を肌で感じたのであった。
また、今回愛知に戻ったのには別の大きな理由がある。
それは両親への謝罪だ。
大事な娘さんを預かる事において、何らかの障害を与えてしまったことに関しては弁明の余地はない。
当然隠し通そうと思えば通すことは可能だが、翠の両親に嘘をつくということは翠に嘘をつくようなものである。
加えて、いずれふとした拍子に相手に気付かれて要らぬ懸念を抱かれる事だって十分にある。
両親が怒っても致し方ない、とせめて気持ちだけは精一杯込めて謝ることにしたのであった。
倒れた時点で両親へすぐに連絡をしなかったのは、無駄に不安を煽るよりも、無事を確認して姿を見せてから謝罪した方がいいと判断したからだ。
…後ろめたい気分、というものもが少なからずあったのだけども。
560: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:50:34.59 ID:FQdnm0A+o
「…翠は、アイドルについてどう言っていましたか?」
母親は静かに、そして小さく切り出す。
ひとまず顔を上げると、神妙な面持ちの母親が居た。
恐らく、倒れた上で俺達の事をどう考えたのか、と訊ねたのだろう。
彼女に対しての回答を、出来る限り正確に伝えるために瞬間的に考えて口にする。
「自分のせいだ、と言って、周りを誰も責めませんでした。完治して練習を再開した後も、以前と変わらず今度のイベントに向けて熱心に練習をしております」
私どもも細心の注意を払って監督しております、という一言を付け加えるのを忘れない。
「なら私も安心です。これからも翠をよろしくお願いします」
「……え?」
仕事のために偽装していた目が、彼女の一言で剥がれ落ちる。
実の娘が遠い所で倒れたというのに、憤ることも声を荒げることもなく冷静に一つ頭を下げたのだ。
父親でもいれば殴られることも覚悟していたのだが、たやすく彼女は俺の予想を外してしまった。
「……失礼ですが、心配しないのですか?」
お前が言う資格などないだろう、と心の中で自嘲する。
しかし、どうにも気になってしまうのだ。
翠がああいった殊勝な性格になってしまったのは、もしかしたら両親の教育によるものだったのではないかという推測が立ってしまう。
「心配はしていません。あの子を今日見ても元気な目をしていましたし、何より翠の信じた人なら不安に思うこともないですから」
母親は、特に悩む様子もなく堂々と俺に答えた。
「翠が倒れちゃった時、あなたはとても心配して下さったのでしょう? プロデューサーさんの瞳から、翠を大事に思う心がよく見えます」
不思議な事を言うものだ。
いわゆる、翠が俺を信じている限りは私達もあなたを信じる、という事だろう。
「…ありがとうございます」
それにしても、俺の目からはそんな香りが漂っているのだろうか。
暗にわかりやすい顔と言われているのかどうかはさておき、本意であることは確かだ。
母親にそれを理解してもらえて本当に嬉しい限りである。
561: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:53:41.97 ID:FQdnm0A+o
「――それでですね。もしよろしければ、今度のイベントにご両親も見に行きませんか?」
とりあえず絶対に話すべき内容を終えて一安心してから、俺は改めて別の用件を持ち出した。
イベントとは当然合同フェスである。
本来であればかなりの人気を誇り入手困難な合同フェスのチケットも、関係者枠と言う事で一応入手は可能なのだった。
母親も入手は難しいのでは、という質問をしたのでチケットに関して詳しい説明をすると、行きたいという希望を明確に打ち明けてくれた。
「わかりました。お父様もご希望でございましたら、今日中に私の携帯電話にご連絡下さい。そこまでの移動も含め、こちらで手配致します」
「ええ、そこまでして頂かなくても…」
母親は両手を振って、遠慮がちに拒否の姿勢を表した。
しかし、大事な娘をアイドルとして雇わせてもらっているのだ、これくらいの負担でも少ないぐらいだ。
「翠さんを私どもに任せて頂いた内のささやかなお礼です。どうぞ遠慮無くお受取り下さい」
遠慮することはないのだ、と重ねて言うと、申し訳なさを顔に出して頷いた。
何と言うか、翠は母親を見て育ってきたのではないだろうか。
他人に迷惑を掛けまいとする姿勢は素晴らしいとは思うものの、それでは損をすることも多かろうに、と心の中で不意に呟く俺だった。
562: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:55:02.05 ID:FQdnm0A+o
「それでは、私はこれからまた仕事に参りますので失礼します」
出来るのであれば父親にも面と向かって謝罪すべきではあるのだが、母親はそれをしなくても構わないと言ったのだった。
両親の思うことは同じ、という意味だろうか。
特に何か別の思惑があるという雰囲気もないので、相手の提案を素直に受け入れることにした。
「わざわざ報告してくれてありがとうございました。当日、楽しみにしてますね」
玄関口で別れの挨拶をすると、丁寧に腰を折った。
先程はもしかしたら、というような事を思っていたが、高校生らしからぬ判断力や謙虚さといった特性は両親の教育ではなく、ある意味で親を見て育った結果と言えるだろう。
親と子はよく似るもの、年を経ても未だ美しい母親は、きっと高校生の頃は翠のように可愛らしかったに違いない。
「はい、こちらこそありがとうございました。またお会いできるのを楽しみにしています」
そう言ってこの場を後にする。
今日の愛知は快晴とは言いがたく、雨こそ降らないものの太陽光を遮られては気温もなかなか上がらない。
スーツの上から冬物のコートをしっかりと羽織ると、少しばかり背を丸めて俺は今度は翠のいる学校へと踵を向けたのであった。
563: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:56:15.07 ID:FQdnm0A+o
*
「どうだ、慣れ親しんだ学校の雰囲気は」
翠が在籍する学校は、私立の名に恥じない程の清潔さを誇っていて、俺と翠が廊下を歩く最中も清掃員があちらこちらで業務に励んでいた。
「当たり前ですけど、変わってなくて安心しましたね」
隣を歩く俺を見上げて、翠は笑う。
ここ最近はずっと練習漬けで、そして休養する間もちひろさんの家で過ごしていたのだから、ゆっくりと学校の空気を吸えていないのは当然である。
彼女の表情もどこか満ち足りて嬉しそうで、やはり三年間通ってきた校舎というものはいずれにせよ愛着の沸くものなのだな、と心の中で頷いた。
「……あ、さっそく貼られているのか」
放課後のこの時間、どこに行くわけでもなく校舎を散歩していると、ふと視線があるポスターにいった。
「自分の姿をこうして見るのは…何だか恥ずかしいですね、ふふ」
廊下の途中には、学校からの告知や部活動、委員会の活動連絡などが貼られた掲示板が幾つか点在している。
そこに、でかでかとカラフルな色合いでアイドル・水野翠が合同フェスに参加する旨のポスターが掲示されているのだ。
「これからは街中に翠のポスターが貼られるんだからな、今のうちに慣れておけよ」
「もう、わかってますよっ」
くすくすとからかうと、わかりやすく翠は頬を膨らませた。
今はあくまで仕事としての接触ではあるが、彼女の制服を着た私的な一面はそれはそれで面白いものがあった。
564: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:56:59.42 ID:FQdnm0A+o
「実は、朝に集会があったんです」
その言葉を聞いた時、何とも言えない懐かしさが己の身に湧き上がった。
集会。
日本の学生であれば誰もが否応にも参加を強制される全校集会である。
確か俺が学生の時も何の価値も見出だせないような話を壇上でされているのを聞き流していたっけな。
それすらも翠は全て傾聴しているのだと思うと、それだけで尊敬に値してしまう。
「そこで私の事を取り上げてくださって……アドリブでしたけど、何とかできました」
「…そんな話はしてないんだけどな」
学校側なりのニクい演出、とでも言うつもりなのだろうか。
業界人として一言述べさせてもらえば、普通は事前に説明しておくべきである。
そうでなくとも、プロデューサーたる俺には許可をとっておくべきだろう。
翠の所属がそういったやり方に嫌悪感を示す事務所であったなら、何らかの問題に発展しているに違いない。
決して学校も俺達を下に見ていた訳ではない。
ただ朝の職員会議で突発的にわが校の生徒を応援してあげよう、という提案が出ただけの話だろう。
まあ、宣伝の場を設けてくれるのは願ってもみないことなのでいざこざは置いておくことにした。
「みんなの反応はどうだった?」
ポスターを眺めている翠に訊ねると、少し困った風な笑みを見せる。
「大きな拍手を頂いたり、ある人は声援を送ってくれたりしましたね。…その子は先生に怒られてましたけど」
恐らく学園祭の時も聞きに来てくれた翠の友達なのだろう。
何度か俺も接触しているが、容易に彼女の姿が想像できた。
565: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:57:57.65 ID:FQdnm0A+o
「ああ、そうだ。この後弓道部に顔を出す予定なんですが、よかったらPさんも一緒に行きませんか?」
元々高校にまで来たのは翠の様子と学内の生徒の評判をいくつか知りたかったというだけで、明確な理由はない。
翠はどちらかといえば休息的な意味合いが強く、決して仕事と評される名義で訪れてはいないのだ。
なので、彼女が今日の放課後を友だちと久しぶりに出かけるなり遊ぶなりして時間を消費するのだと思っていたら、翠はそれを弓道に使うと言ってのけたのである。
残念ながらこちらに居られるのはおよそ一日だけで、今日の夜には俺が、そして翌日には翠も東京に行かなければならない。
にも関わらず弓道を選択するあたり、やはり俺とは根本的に違うのだな、とついつい苦笑してしまう。
もしも仮に俺が翠の立場であったとしたら、迷わず家で惰眠をむさぼるか、友だちとどこかへ出かけているのだから。
「翠の弓道着姿は久しぶりだな。勿論行くよ」
当然この日は学校に行く以外では完全に自由時間となっている。
いかなる選択肢であろうと俺にそれを咎める理由は無いし、むしろまた見てみたいという希望さえあった。
「ふふ、ありがとうございます。では行きましょうか」
にこりと笑ってから、翠と共に歩き出す。
勉強もスポーツもそうだが、間が空けばそれだけ実力というものは落ちていく。
彼女からすれば、昔からやって来たものだからそうそうブランクというものは感じさせないだろう、楽しみだという表情は自信をそれとなく呼応させていた。
いつかはアイドルの仕事も今よりずっと慣れて、手つきも朝飯前になるのかもしれない。
……そう考えると、翠の今の初々しさの残る表情が見れなくなるのではないか,
と少し寂しくなる俺だった。
566: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 21:59:09.91 ID:FQdnm0A+o
*
「アイドル効果、ってやつか」
顧問に己自身の紹介といくつかの話をすると、例外的に来客用のパイプ椅子を用意してくれた。
基本的に座るのは正座である道場では、正座の苦手な俺は比較的居辛い場所である。
なので、顧問に最大限の感謝をしながら、遠くにある的の前に立ってじっと見つめる翠の姿を眺めていた。
弓道場。
ほかの武道場と同様、弓道部員だけが使用出来る特別な施設。
俺はここで、静かに翠の弓を引く姿を見て一層惚れ込んだ。
ただ、今はそんなかつての弓道場とは全く姿が変わっていて、弓道場の扉にはいくつかの生徒が駆けつけていたのであった。
無論、生徒たちのお目当てはアイドルの水野翠だ。
もしも翠がアイドルでなければ一生縁の無かっただろう生徒も、この時だけは弓道という存在に深く入れ込んでいた。
しかし、翠はその様子にも全く動じていない。
翠は、ずっと昔…それでも一年以内の話ではあるが、その時と同じく、弓を静かに、ゆったりとした動きで引いていた。
これも、弓道をやって来たが故の効果なのだろう。
仮に弓を引いているのが俺であったら、恐らく変な視線がプレッシャーとなり、まともに集中できなかったに違いない。
そう考えると、俺って何となく子供っぽいのだろうか、と少し心配になってしまう。
まあ、曲がりなりにもそんな翠に尊敬されているのだから俺だって見限られるような子供ではないさ。
そんなどうでもいい心配を頭のなかにふとよぎらせる間にも、翠は淡々と弓を引く。
567: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 22:01:04.00 ID:FQdnm0A+o
じりじりと引き絞った弦から手を放す。
すると、最大限の力を持った弦が矢を押して、その矢が親指の上を通って的に向かっていく。
風の声が聞こえたそのその矢は瞬く間に彼女の元から離れ、見事的の中央やや下に当る。
放たれてから的にたどり着くまでに、三秒もかかっていない。
昔なら俺はここで喜び、マナーを無視して話しかけに言っただろうが、流石に今ではしっかりと学習をしている。
一切足を動かさず、視線を動かさず、ただ彼女を見る。
翠が矢を射ると、今度は彼女のすぐ横――弓道場から見て横、という意味で、翠から見れば後ろの――女子部員が射る準備をする。
的は四つあるが、弓を射る場合は個々で自由に打つのではなく、全員が綺麗に並んで順番に射ていた。
その姿を顧問が近くで見つめ、各々のおかしな動作や体の向きなどを個別に指導する。
そんなサイクルが、何度か続いた。
矢を射るというそれだけのために、弓を持ち矢をつがえ、持ち上げ腕を開いていく。
数十秒の厳格な準備を怠ることなく進めていく彼女達の姿は、えてして特段美しく目に映らせていた。
心は、目には映らない。
しかし、心の美しさは、実像なき雅として見る者の瞳に鮮明に訴えかけてくるのだ。
結局、部員たちが休憩に入るまで、俺は時間を忘れてただ真っ直ぐにその風景を眺めていたのだった。
568: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 22:03:40.54 ID:FQdnm0A+o
*
「翠にはブランクなんて関係なかったな」
帰り道。
夕日も既に落ち、冬特有の寒さと暗さが周囲を満たす頃、俺達は二人きりで彼女の自宅へと歩いていた。
とはいっても、俺は途中の駅で東京行きに切り替えるのでそれまでの距離の話である。
翠は時折手袋の上から白い息を吹きかけると、二、三度両手を唇の前でこすり合わせ、頼りない暖を取っている。
彼女のために何でもしてやりたい所だが、流石に季節までどうにかすることは出来ない、と厚着をする翠をただ見るだけで、何もしてやれないまま隣を歩いていた。
――少しの間部活動に勤しんだ後は、顧問の計らいもあって即席の交流会が開かれることとなった。
扉の向こうで翠の姿を見ていた生徒も靴を脱いで弓道場に入ると、俺の誘導の元に並んでもらい、各々の依頼とともにずっと練習していたサインを書いていったのである。
比較的怖そうな風貌の顧問からのまさかの提案に一瞬面食らったものの、弓を置いて休憩していた翠に相談すると大丈夫との回答だったので開くことにしたのだ。
…その顧問も翠にサインをお願いしていたのだけども。
「いえ、やはり以前のようにはなかなか…」
そうは謙遜するが、傍目には全くブレていない安定さを誇っていた。
顧問も翠にだけは一言二言述べるのみで、後は見ているだけであったのだから、実力はお墨付きだろう。
「謙虚は美徳だけど、卑屈はただの自虐にしかならないぞ」
外灯に照らされてきらきらと流れる髪の上に手を置くと、翠は俺の手を落とさないようにこちらを向く。
「…そうですね。Pさんと一緒に居る私が、素敵でない訳がないですから」
時折、翠はこうして冗談めかした事を言う。
中々面白い冗談だ、と頭皮をうりうりとしてやると、翠はくすぐったいような笑みをこぼした。
569: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 22:05:36.83 ID:FQdnm0A+o
お互いからかうように、時に笑いながら話を進めていると、いつの間にか通りすがりの泥棒が俺達の時間を盗んでいってしまったようだ。
「ん、もう着いたのか」
薄汚れた外灯が駅の看板を照らす、小さな駅だ。
しかし、ここからでも新幹線の発着する駅へは乗り継ぎで行くことができるので、俺はこの駅でそこへ向かう予定を立てたのであった。
「もう着きましたね」
俺の言葉を反芻するように翠は呟いた。
ほんのりと湿った唇からは、暗闇の中へ消える微かな息遣いが漏れる。
その顔は看板を見上げており、俺からは表情を読み取ることは出来なかった。
「今日は楽しかったな。…でも、また明日からレッスン漬けだから覚悟しておけよ」
はは、と笑う声は、冬の乾いた空に解けて大気と化す。
「はい。よろしくお願いします」
そんな偽物の脅迫に、翠はくすりという微笑みで返した。
参ったな。
澄んだ空気にあてられたか、俺の中身まで彼女に見透かされているような気がする。
570: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/09(火) 22:07:25.15 ID:FQdnm0A+o
「……翠」
――では、また明日。
そう言って暗闇の中に消えて行こうとする翠を、俺は不意に止めてしまう。
すんなりと別れると思っていたらしい翠は、即座にその行動を中止して振り返った。
最近では、悪い感情でさえも悪いと思わなくなってしまっていた。
ただ一つ、確実に言える事は、間違いなく悪循環への階段を一歩降りている、ということだ。
…いつもであれば、ここでこれからは自制していこう、だとか、気をつけなければならない、だとか考えて己の戒めるのだが、今はそれが出来なかった。
――いずれ霧散する運命を持った感情でも、今この時だけは、確かに存在しているのだ。
「家まで送るよ」
長袖からちらりと覗く時計を見れば、まだ予定していた新幹線までは充分に余裕がある。
本来なら何の価値もないデッドスペースだったそれも、翠と居れば、ダイヤモンドよりも美しい時の流れを演出してくれるに違いない。
ありがとうございます、と言った彼女の表情は、冬の寒空の中でも一層暖かく見えたのだった。
580: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:02:05.65 ID:VOU4ETEHo
*
太陽も真上に向かって昇り始め、それに伴って僅かに気温も上がってきたと肌が感じるような冬の午前は、翠のリハーサルのために費やされることになっていた。
合同フェスでは、各グループ毎にそれぞれリハーサルの日時が割り振られており、その時間内であれば自由にリハーサルを行なってよい事になっている。
それで俺達に割り当てられた時間は、開催一週間前である今日の朝だったという訳だ。
俺達の前の順番である早朝に充てられたアイドルユニットがリハーサルを終えるやいなや、運営のスタッフたちが一斉に舞台準備の張替えを行い始める。
このイベントではグループが次々とパフォーマンスを行う上にステージギミックも多彩に富むため、僅かなインターバルでスタッフたちが準備をする必要があるのだ。
本来であれば翠の前の順番はゆかりであるはずだが、リハーサルでも同じという事でも無いらしく、別の三人組のユニットが練習をしていたのだった。
彼女達は本番同様に衣装もしっかりと着ている。
黒が印象的なドレスを三人とも身に付けて、息のあったダンスで舞台を駆け巡る姿はまさにこのフェスの名に恥じないもので、荘厳で品格のある動きを見せつつも、冬の寒さを吹き飛ばすようなほとばしる熱さを感じた。
当日となれば、彼女達に勝るとも劣らない観客とアイドルが一体となったパフォーマンスが次々と出てくるのだろう。
いや、パフォーマンスと呼ぶべきではないのかもしれない。
観客が居てこそのアイドル達の披露なのだ。
そういう意味では、この会場全てが一つの作品なのである。
学園祭の時とはどう見てもスケールの違う会場の雰囲気に、俺が直接観客の前に出る訳でもないのに自然と心が震えてしまった。
581: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:02:46.81 ID:VOU4ETEHo
翠はというと、当日着るドレスは着用せずに普段の練習着姿で居るものの、広がるように作られたステージの上に立って、観客席となる地面を見下ろしている。
周囲には忙しなく動くスタッフたちの姿。
まるで隔離されたかのように、翠は落ち着いて眺めていた。
少し後ろから翠の姿を見ているせいで、彼女の感情は上手く捉えられない。
しかし、おおよそ推測するには心地よい緊張感を漂わせているのだろう。
ゆっくりと首を回して遠くの山々を見渡した翠は、何となく感慨深さを覚えているような気がした。
…その景色はごく限られたアイドルにしか味わえないものなのだから、今のうちにたっぷりと見ておけばいい。
「大丈夫か?」
俺は焦点を遠くに合わせてステージに立つ彼女の下へ歩み寄り、そう声をかける。
「一度やってみないとわかりませんが…レッスンで学んだことを、全力で出したいと思います」
こちらに気づいた翠はゆらりと振り返ると、少し考える仕草をした後に答えた。
実は、今の翠は普段のレッスンで使用している白のラインが入った青色のジャージを着ており、そのままではとても観客の前には出られない。
というのも、現在はステージの上に立ってシーンごとのダンスを手拍子ですることで、観客からの見え方のイメージ、ダンスの動きやすさや難易度などを考慮しながら軽い調整をいれているのである。
練習着なのは、翠の衣装は一品物で構造的にも衝撃に強くはないので、練習であろうとも気軽に着用していては万一の時に対処が難しくなってしまうからだ。
風貌に似ず華麗に体を一回転させると、どういう訳か、翠は微かに笑みをこぼした。
582: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:04:06.14 ID:VOU4ETEHo
――合同フェスで俺が提案したステージのテーマとは、幽玄であった。
そのため、空色のドレスに合うような装飾…非日常的で、幻想的なイメージをなじませるにあたって様々な物を搬入させることとなったのである。
駄目元で運営の人に話してみると、以前言っていたポリシー通り、やってみせましょう、と少しの間を置いてから心よく返事をしてくれた。
俺の提案を聞いた時の彼のあの表情はよく覚えている。
過去でも中々例を見ない…それも、新人であれば尚更なのだろう、聞き返した時の声がえらく素に戻っていた。
舞台は比較的大きく、ニつのグループ程度なら奏者を含めて同時に入場してもパフォーマンスに支障が出ない位にスペースに余裕がある。
これは広い敷地に入り込む数多の観客の中で、側面で見物する人から見えにくくなるというデメリットを解消するためであった。
そのため、ポップや動きのあるロック系のジャンルで参加するユニットにとっては、少しでも控えめにダンスをしてしまうと途端にステージに負けてしまうという懸念を生み出している。
恐らく、同じバラード系で勝負を仕掛けてくるゆかりも演劇さながらの大きな動きで目と耳両方に強く訴えかけてくるのだろう。
以前プロモーション・ビデオで見た切なげに歌う姿とはまた違った物が見れるに違いない。
そして翠だが、野外ライブという条件では非常に不利であると言わざるを得ない状況になっている。
何故なら、広い観客席に対し仕掛ける曲がバラード系で、動きもそこまで大きくないからだ。
下手をすれば、『何をやっているのかわからない』などと言われる事だって十分にあり得るのである。
それへの対抗策が、先程述べたテーマにある。
広々とした人工物であるステージに、夜の人ひとり居ない舞踏会を想起させるようなテーブルクロスのかかった丸テーブルや木椅子、観客席下の地面にまで届くような特別な赤色のペルシャ絨毯を用いることで、ステージを大きな絵本に仕立てあげたのだ。
そこで翠が舞うことで、ジオラマの世界に入り込むような視覚的インパクトを与える、という算段である。
しかし、これはいわば博打に等しいもので、ただ前の順番がゆかりであることを意識しての提案だった。
初めての舞台でわざわざそんな博打に興じる必要はないのでは、という指摘もあって至極当然だが、そうせざるを得ない理由も確かにあるのだ。
――歌声だけで翠に興味のない人間も全て魅了できるなら、その人以外はステージに必要ない。
むしろ過剰な演出は、その本人の足を引っ張ってしまうことすらある。
583: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:04:54.24 ID:VOU4ETEHo
しかし、現実は非情だ。
翠の立場や状況を考慮すると、多少大げさであろうとも観客にとってインパクトのあるものにしなければ、他のアイドル達の並ぶスタートラインにすら立てないのだ。
どうあがいても観客の色眼鏡を外させることは出来ないのだから、その色眼鏡ごと染める事が大事なのである。
「ドレスを着てこの会場で歌うなんて……まるで映画にでも出ているみたいですね」
翠は運営陣の懸命なセッティングによって見事にあつらえられた舞踏会を歩いて周り、かつ、かつ、と耳を小突くような絨毯の下の無機質の音を響かせて、物語の場面に飛び込んだ。
それまでむき出しであった右にも左にも伸びた柱は壁紙によって隠され、野外ライブ特有の感触が全くない。
もしも翠が昼の部の出場であれば、当然この構成をすることも無かっただろう。
確かに昼であればステージ全体がよく見えて良いのかもしれないが、インパクトがある分全体が鮮明に映し出されてしまうと、観客の視線が翠から背景に移ってしまう危険性がある上、暗さがないと舞台が陳腐に見えてしまうからだ。
夜で、照明だけが頼りのステージだからこそ、今の演出が効果的に表れるのである。
残念ながら、流石に実物のシャンデリアまで搬入することは不可能だった。
より搬入までの管理が大変なのは勿論、設置においても事故の危険性が指摘されたからである。
そもそも、今の状態ですら準備や次のユニットのための片付けに時間がかなりかかっているのだ、天井部まで手を回していれば運営自体に支障がでてしまう。
ここは、限りなく本格的に再現してくれたことを素直に感謝すべきだろう。
584: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:05:57.91 ID:VOU4ETEHo
「このフェスの映像も、後で映像になって店頭に並ぶからな。そんな目的を意識して歌うのもいいかもしれないぞ」
過去にも言ったが、大事なのは演劇的な動きだ。
こと一挙一動が映えるミュージック・ビデオを意識することが、翠に良い影響を与えるのではないかと思う。
歌だけを意識せずに自分の姿を含めた全てが演奏なのだという考えは、あながち間違いではないはずだ。
「…いえ、そういう雰囲気では歌いません」
しかし、意に反して翠は俺にそう言って拒否をする。
その表情は落ち着いていながらも真剣で、冗談めかす香りはしない。
どうしてだ、という俺の問いに、翠は再び観客席の方を視線を戻して答える。
「この場は、聞いてもらえる皆さんとあなたに対して歌うためにあるんですから。余所見をするつもりはありません」
…なるほど、翠らしいといえばそうなるだろうか。
いつかの頃と比べると見違える彼女の顔を見て、俺は一つ頷いた。
――こうして率直に意見や感想を言ってもらえるようになったのも、きっと前に起こった二人の言い争いの賜物だろう。
あれ以降、翠は俺や麗さんに対しても物怖じすること無くどんどん進言するようになっていた。
いくら考慮した上で反論や拒否をされようとも決してそこで終わらせず、場を良くしていくためにと意見する姿に、麗さんも些か驚いているようだった。
愚直である事よりも、翠は賢明を選んだ。
それこそが、彼女を良い方向へと導いた選択に違いない。
以前よりも自信に満ちた目をしている翠を見て、そう思わずにはいられなかった。
585: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:06:57.53 ID:VOU4ETEHo
――ニ、三会話をしていると、準備が完了したとの声が舞台袖から聞こえた。
前のユニットの片付けと俺達のための準備を続けてしなければならないのだから、時間がかかって当然だろう。
それでも十数分程度で完了できるあたり、本当に彼らの力量には脱帽せざるを得ない。
無論、今回は生演奏ではなくただのオフボーカルの音源を用いてのリハーサルである上に厳密なリハーサルの内容は各個人に委ねられているため、極端に言えばリハをしないことも可能だ。
しかし俺達は挑戦する側なのだから、怠慢にだけはなってはならない。
「では、Pさんは下がってください。…ここは私だけの世界、なんですよね?」
事務所で翠に衣装を渡した時の俺が述べた言葉を、からかうように彼女は言った。
どうせ舞台の上では彼女は独りなのだから、せめてその時だけは孤高であって欲しい、そんな願いも今では不要になるくらい、翠は充分な程自信を付けてくれた。
休養からの復帰後も気落ちすること無く練習を続けていたその姿に、麗さんもいつにも増して気合が入っていたのは強く覚えている。
「はは、そうだな。じゃあ俺は後ろで見ているから、まずは通しで足元に気をつけながらやってみてくれ」
今日確認すべきことは、翠の披露する衣装の詰めとダンスの調整で、あとは翠の慣れを助けることだ。
麗さんは会場側から舞台を見て彼女のパフォーマンスをチェックしてもらっているので、後で来てもらって指摘を請う予定である。
彼女の威勢のよい返事を聞き届けた後、担当の人に曲を流してもらうようにお願いをする。
すると、機械を操作する担当者の合図の後に、翠のための曲の前奏がやや控えめに会場に響き始めた。
……いくつもの困難も壁もアクシデントも俺達の前に現れたが、それでも乗り越えることが出来たのだ。
だからこそ、これが最大の壁だとは思わない。
翠がアイドルとして大きく踏み出す表舞台への第一歩を最高のパフォーマンスで幕を上げるために、まずはこの場を最高のものにしたい、と俺はふと空を見上げたのであった。
586: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:07:33.61 ID:VOU4ETEHo
*
――冬の夜空というものは、何とも言いがたい特別な空気があるものだ。
地域によっては雨が降り、雪が降り、様々な顔を見せてくる。
しかし、冬という季節であるだけでそれらは何か違う物を醸し出しているのである。
そんな不思議な空気は薄い壁を通り抜け、俺の居る事務所の中にもそこはかとなく充満していたのだった。
「……長かった、ですねえ」
エアコンだけでは到底賄い切れないと分かってからすぐさま導入した電気ストーブに手を当てながら、ちひろさんはしみじみと呟く。
型落ち品でも暖を取るには問題はない。
手元には温かいお茶を、足元にはストーブを身に付けて左右に回転椅子をゆらゆらと動かしながら手をストーブに伸ばす彼女の姿は、何とも子供みたいである。
とは言っても、彼女の目だけは冬の季節に充てられてか、どことなく感傷的であった。
まあ、無理もないだろう。
アイドルもプロデューサーも居ない、まさに一文無しの状態から始めてからもうすぐ年を越すところまで来たのだ。
俺ですら当初はこの事務所の存続を心配していたのだから、最初からここに居る彼女はもっと感じているに違いない。
この激動の年を回想した所で、誰も責めはしないはずだ。
「そうですね。…まさか俺もこんな仕事をするなんて、全く思ってませんでしたよ」
はは、と笑い、おもむろに頭を掻く。
ただ普通に生活を送ったとしても一年後の自分というものはおおよそ想像出来る人は少ないが、こと俺に関しては尚更である。
就職先の決まらない一般の大学生がまさか芸能事務所でプロデューサーをやるだなんて、一体誰が予想できるだろうか。
「でも似合ってますよ、その仕事。天職なんじゃないですか?」
「まさか」
似ても似つかぬ言葉に苦笑して肩をすくめる。
…本当にこの仕事に就いてよかったのか、そんな疑問は今でも時々心の底で湧き上がる。
失敗は今までもよくしてきたし、これからもずっと付き合って行かなければならないのだろう。
他の人に比べても、俺は優秀という訳ではない。
しかし、それでも翠に出会えたという事実があるのだから、彼女の問いを否定するのは何となく気が引けてしまう俺であった。
587: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:08:48.24 ID:VOU4ETEHo
出力全開でも一向に暖まり切らない貧相な事務所の中で、ふとした拍子で始まった一年の思い出話で談笑していると、殆ど来客のない事務所の扉が小さく音を立てた。
「ただいま戻りました、Pさん、ちひろさん」
「お邪魔するよ」
「お、お邪魔します」
こんな時間にアポもなく誰が訪れたのだろう、と俺たち二人とも扉に視線を向けると、その薄い扉から見慣れた二人と久方ぶりの一人……翠と、現在のトレーナーである麗さん、そしてその妹で前トレーナーの慶さんが現れたのだ。
「あれ、慶さん……それに今日は直帰だったんじゃ?」
今日の予定を思い出して、麗さんに問う。
最近では、レッスンが終わると麗さんが翠を送ってくれるようになっていた。
当然俺も送り迎えをすることはあるが、一番身近にいるのですぐに移動しやすいという利点があるが故に、麗さんさえ良ければお願いするようにしている。
それに、彼女自身も翠とよく話す機会ができて嬉しいと話していた。
普通のアイドルならまだしも、翠とだけは、ただ見ているだけでは彼女のことを解ることは難しい。
目を見て、よく話し合って初めて彼女の本来の姿が見えてくるのだ。
一般論や常識ではない、翠と接してきて色々なミスを犯してきたからこそ言える事だった。
「ああ、そういうことだったんだが……ほら」
麗さんの手には、何かが入ったビニール袋が握られていた。
その袋には近所のコンビニのロゴがあったので、何かを買ってきた、ということなのだろうか。
588: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:09:42.71 ID:VOU4ETEHo
それを掲げて俺達に主張する麗さんの隣で、翠が続きを請け負った。
「私がお願いをして、皆で…その、何と言いますか、決起集会をしようと思いまして」
視線を少し逸らして、翠は苦笑する。
よもや彼女からそんな提案をするとは思わなかった。
いや、そういう類の事であれば、俺と翠とちひろさんの三人で打ち合わせをした時に簡素ではあるが以前にも既にやっている。
しかし、翠は彼女自身を育ててくれた慶さんや麗さんがいないことが不満だったのだろう。
……翠からすればそれも当然か。
思えば、アイドルになって右も左も分からない時には慶さんが道筋を示し学園祭のライブを成功に導いてくれて、更なる大きな壁に立ち向かう時には麗さんが厳しくも時に優しい一面を見せながら一緒にやってきてくれたのだ。
時間で言えば俺やちひろさんとは全く及ばないが、密度という点ではもう同じ存在と言っても差し支えない。
それ程までに、彼女達トレーナーとは不思議な縁もあって、翠のために頑張ってくれていたのだった。
「…それにしても、よく許可しましたね?」
ちひろさんがくすり、と笑って麗さんに問いかける。
俺もそれには気になっていた。
ただでさえ練習に関することであれば食事に対しても真剣に指導する立場の人間が、イベント直前になってジュースやらおやつやらをテーブルに広げようとするのだから、何とも不思議である。
「翠なら、こういう事があっても羽目を外さないのはわかってるからな。それに慶も会いたがってたのだよ」
慶さんはというと、麗さんに担当が変わってからは滅多に合わなくなっているような気がする。
もちろん、本来の担当トレーナーとして近況報告などはメールで時折するし、慶さん自身も麗さんからいくつか話を聞いているとは思うが、こうして面と向かって話すのはどれほど久しぶりなのだろうか。
589: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:10:15.35 ID:VOU4ETEHo
「それでは、折角来てくれたんですから少しだけやりましょうか」
あまり夜遅くまで翠を起こさせるのは些か不安が残らないでもないが、明日が本番という訳ではないのだ、今日ぐらいは少しはしゃいだって悪い事にはならないだろう。
何より、翠がそれをやりたいというのなら断る理由はない。
また俺としても、麗さんや慶さんも含めてみんなで居てこそ俺達なのだと改めて感じたいのだ。
「ありがとうございます。あ、私用意手伝いますよ、プロデューサーさんっ」
テーブルに置かれた雑誌類を片付ける俺に対し、麗さんからビニール袋を受け取った慶さんがテーブルにぴょこっと近づいて片付けを手伝う。
ちひろさんは、寒かったろう、と給湯室から暖かい物を持ってきてくれているようだ。
そんな姿を見て麗さんは翠の肩を叩いてニ、三話しかけると、空いているソファに座らせてからちひろさんの下へ歩んでいった。
世間ではクリスマスと呼ばれる今日の夜空に見下ろされ、ささやかな風が頬を撫でるが如く、小さなパーティが開かれた。
もう狼狽えている時間はないのだ。
だからこそ、今この時をあるがままに過ごしたい。
590: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:11:07.51 ID:VOU4ETEHo
*
「…寒いなあ」
アルミの窓枠からは、本来なら訪れることのないはずの肌寒い隙間風が部屋を否応なしに凍らせていく。
肝心の遮断機能を有さない不良品のガラス越しには味気ない暗闇が見え、それを申し訳程度に街灯と空の星が防いでいた。
暖房をつけようとも室温が一向に上がらないボロアパートの一室。
もはや普段着と言っても過言ではないスーツを脱いで風呂に入り、体が冷える前に寝巻き姿に着替えた俺は、何をする訳でもなくベッドの側面に背を預け、シミの付いた天井をただ仰いでいた。
しなければならないことは探せばたくさんあるのに、何もする気がおきない。
そんな矛盾した感情を、俺は知っている。
――それは、例えるなら受験前日の夜。
高校受験でも大学受験でも、行われるのは大体十二月から翌年のニ月までの寒い時期である。
そこで、明日に控えた試験を前にして緊張で普段通りの感覚が失われてしまう学生は全世界に多々居ることだろう。
だがそれは、受験から完全に開放された社会人であっても例外ではない。
「……明日なんだな」
無駄な熱量を消費させて虚空を響かせると、ぼんやりとした空間が俺の頭をつんざいた。
591: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:13:21.99 ID:VOU4ETEHo
決戦の日。
誰であろうとも容赦の無い、栄枯盛衰、弱肉強食を体現したかのような芸能界という戦場で、細く小さな一歩が踏み出せるかどうかを決める、最初で最後の日だ。
あらゆる過程を吹き飛ばして参加が決まった合同フェスにおいて、成功すれば間違いなく翠の活躍は天命に護られる。
だが失敗してしまえば、すなわちオープニングテーマが流れている最中に打ち切りを命じられたと同じ事が彼女の身に起こるのだ。
…いや、厳密に言えば終わりはしない。
仮に失敗したとしてもアイドルとして活動するのに問題がある訳ではないのだから、翌年から普通に活動しても何ら問題はないだろう。
かと言って、平穏無事でそれができるかといえば難しいのが現実だ。
権威あるイベントである合同フェスで失態を晒したという事実が一旦立てられれば、それは翠に永遠に付き纏い、彼女の精神を確実に削っていく。
そう考えていると、ふと頭にもう一人の親しいアイドルの顔が思い浮かぶ。
…水本ゆかりという存在は、レアケースなのだ。
真実は想像することでしか察することはできないが、当時組んでいたユニットの相方も含め、彼女の下には数多の誹謗中傷が訪れたに違いない。
それで彼女の相方は壊れた。
ステージに立つことを夢見て必死に練習してきた少女がそんな結末にいとも簡単に辿り着いてしまうなど、よほどの事ではありえない。
それが、俺の想像を遥かに越えた酷い罵声が彼女達を襲ったという推測に繋がるのだ。
592: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:14:28.78 ID:VOU4ETEHo
アイドルとしての全てを否定され、心ない人間からは人格すら否定されたのだろう。
それを目にした当時のゆかりは、一体どんな感覚だったのか。
夢見る純粋な少女に与える仕打ちとしては、これ以上に残酷な物はない。
だが、ゆかりはそれでも諦めなかった。
襲いかかる嵐の中に放り込まれても、心を折らなかったのだ。
それがゆかりのプロデューサーとの出会いに繋がり、再び立ち上がって、また同じ舞台に上ることになったのである。
…怖くないはずがない。
自身を見るであろう観客達は、生肉を舌なめずりで睨む猛獣に見えることだろう。
何故立っていられる?
何故逃げなかった?
例えゆかりがアイドルに対して確固たる信念を持っていたとしても、合同フェスという舞台で結果として失態を犯したという扱いになった事実は変わらない。
にも関わらず、周囲の冷た過ぎる視線に耐えて、今日までやってこれたのだ。
これを強いと言わずして何と言えばいいのだろう。
彼女の芯の強さには、尊敬以上の感情さえ沸き上がってくる。
――そして、その舞台に今度は翠が立ち向かう。
丁度一年前のゆかりと同じ、新人での合同フェス参加だ。
もしも、翠がそこで失敗をしてしまったら。
…そんなことにはなるはずがないという意識を、深層の心が締め付けていた。
593: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:16:18.50 ID:VOU4ETEHo
冷たい空気によって喉をかすめていた呼吸が、不意に苦しくなる。
乾いた咳が出てしまうのは、唾液が全く分泌されていなかったからだ。
……大丈夫、翠は誰よりも練習してきた。
ベテランである麗さんからも評価は得ている。
デビュー曲であるこの歌だって、プロの人も認めてくれる程の歌声にまでレベルも上がった。
規模は違えど、ライブだって経験している。
雑誌の特集にも載ったし、ラジオにも、テレビにも出演した。
地元では、皆が翠を応援してくれている。
そうでなくても、翠のファンと言ってくれる人だっている。
当日は彼女のファンも数多く駆けつけてくれている事だろう。
そこで頑張って、披露して、喝采を浴びて、喜びを分かち合って、同じく見に来てくれた家族に報告をして、新たなる第一歩を踏み出せたと確信して。
そんな未来を想像すればする程、俺の中の見えない傷は広まっていく。
594: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:17:39.21 ID:VOU4ETEHo
人は、成功よりも失敗に目を向けてしまう。
それは俺も例外ではなく、捉えようのない痛みが体の中に溜まっていった。
失敗すれば、一体翠はどうなるのだろう。
挫けずにまた立ち上がれるのか。
また俺に笑顔を見せてくれるのか。
おはようございます。お疲れ様でした。
事務所でごく当たり前のように交わされる挨拶は、これからも続くのだろうか。
はっきり言って、俺の中でいつの間にかそれらが心地よくなっていた。
日常生活の一部に…人生の一部に彼女が居ることが、何よりも嬉しく思うようになっていたのだ。
もしも、それが喪失してしまったら?
――俺がステージに立つ訳でもないのに、誰よりも俺が恐怖していた。
595: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:18:34.14 ID:VOU4ETEHo
冬の夜。
明日は大事な日なのだから、厚着をして布団を何枚もかぶってさっさと寝なければならないのに、俺のまぶたは一向に目を閉ざしてはくれない。
まるで俺をいたぶるかの如く執拗に視界を開かせていた。
心臓の音が絶え間なく体に響き渡る。
それがどうにもうるさくて仕方がないのだ。
もう、いっその事止まってくれればいいのに――。
そんな現実逃避にも似た感想を抱き始めつつある俺の部屋に、突如電子音が鳴り響いた。
――ピリリリ、ピリリリ。
情緒や流行の欠片も無い、古臭い携帯電話から流れる古臭い電子音に、所有者から離れかけた意識が再び喉を通り抜ける。
こんな時間に誰からだろう。
テーブルの上に雑に置かれた携帯電話の光る画面を見ると、何と担当アイドルの名前が表示されていたのだった。
「……何か起こったのか?」
絶えぬ不安を身に纏いつつも一つ二つ咳をして声色を戻すと、通話ボタンを押して耳に当てる。
「あ、こんばんは。夜分遅くにすみません」
しかしその機械から流れたのは、古臭さなどどこかへ飛んでいくような聞き慣れた翠の声だった。
通話口からはとてもじゃないが明日という日を理解していないかのような様子が見え隠れしている。
疑念と不安が入り混じりながら、彼女の言葉を待った。
596: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:19:38.76 ID:VOU4ETEHo
「今、大丈夫ですか?」
翠の問いに促されて無意識に天井近くの壁を見上げるが、残念ながらこの部屋には壁掛け時計がない。
なので、近くに置かれていたいつも使っている腕時計を見て時刻を確認する。
現在午後十時を回った頃だ。
「明日は本番なんだから、君は早く寝ないといけないんだけど…何か用か?」
緊張して眠れず、結果的に夜更かしをしてしまうというのは誰にでも起こりうる事態だが、それが原因で当日のパフォーマンスが全力でできませんでしたと言われても、ただの負け惜しみにしか取られないのである。
そうなってしまえば、得をするのはゆかりの所属する事務所の上層部くらいで、他は誰も喜ぶ事はまずない。
観客も、俺も、皆翠の最高のパフォーマンスを見たいのだ。
そういう意味でも、万全の状態で本番に臨むために俺は自分の感情とは裏腹に語気を強めて話すが、それに対する翠の回答は致命的なものだった。
「…きっとPさんは不安なんだろうな、と思いまして、つい電話をしてしまいました」
どうやら、本当に心が見透かされているらしい。
597: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:20:07.65 ID:VOU4ETEHo
「……いきなり何の話だ」
傷めつけるように震えていた鼓動は、僅かながらも熱を帯び始める。
「ベッドの上に居ると、あなたの声が私に届くんです――不安だ、不安だ、と。おかしいですよね、そんなの……ですが、だから励まそうと思ったんです」
本当に致命的だ。
見せてもいない物を…見せたくもない物を、いとも容易く彼女は見破った。
いや、見てもすらいない。
ただそう感じたからといって、見事的中させてみせたのだ。
奇妙な関係になってしまったものだ、と心の中で嘆息する。
俺が当初望んでいたのは、結局彼女の心の中を覗きこんで適切な対処を採りたいと思う、極めて即物的な関係だった。
翠の悩みも不安も、特性も短所も全て読み取って指導して、よりよいアイドルへと導きたいと思っていたものだ。
しかし、いつのまにかそれは逆転していた。
彼女の方が俺の思いを読み取って適切な対処をしたのである。
何とも情けない話だ、と肩をすぼめる。
すると、肩に降り掛かっていた見えない重みがするりと汚れた床に落ちた気がした。
598: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:20:38.63 ID:VOU4ETEHo
「…翠は、自分のプロデューサーが情けなくて幻滅しないか?」
溜め込んでいた薄暗い感情が、どろり、と通話口へ流れ込む。
俺の中で、翠という存在がどういうものであるか度々考えてきたが、考える度に違った答えが出てきていた。
ある時は、俺が導いていくべきアイドル。
ある時は、横一列で共に歩いて行く仲間。
そして……ある時は、寄りかかりたくなるような尊敬する人間。
嫌われるのが怖い。
そんな少女的感情で己の身を滅ぼしかけた彼女だが、俺にそれを打ち明けたことで一つ成長した。
「ふふ、やっぱり」
彼女はその成長を見せつけるかのようにくすくすと笑い、言葉を続ける。
「幻滅なんて、絶対にしませんよ。この世界を知らない者同士、時には前に、時には横に。そうして一緒に歩いてくれてきたんです…あなたの性格も、弱さも、いっぱい知ってますから」
こんな弱音を吐くなど、もう慣れたと言わんばかりの声色だ。
相手を気落ちさせるような話し方ではなく、同調するような話し方。
前に立って俺の手を引っ張るような、そんな姿が連想された。
…俺が導いていたアイドルは、成長を続ける内に俺を追い越してしまったらしい。
「だから私に教えてください、あなたの不安を。そして…分かち合いませんか?」
社会人のくせに、大人のくせに。
完全に固まりきった常識を、翠の言葉が溶かし尽くした。
599: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:21:34.26 ID:VOU4ETEHo
「どれだけ頑張る翠の姿を見ても、不安は消えない。むしろ、それでも失敗したら翠はどうなるんだろう、って怖くなってくるんだ」
俯瞰して見れば見る程、俺という存在が矮小化されていく。
いや、本質が見えてきたというべきだろうか。
今までの俺は、所詮虚勢を張っていただけのハリボテに過ぎない。
プロデューサーという皮を被ることで一丁前に大人ぶっていたようなものなのだ。
そうすることで立場を守ってきた結果、迷い、惑い、間違え、翠に損害さえも与えてしまったのである。
もう、正直に言って俺はどうすればいいのかわからなかった。
ありきたりで、かつ莫大な不安が、自身の境遇すらも疑念の渦に巻き込んでしまっていたのだ。
途絶える事無く延々と湧き出てくる不安を有りのままぶち撒けると、ようやく終わりが見えてきた。
吐き出したかった感情が、いつの間にか底をついていたのだ。
今までそんな悩みもなく生きてきた俺にとって、ここまで追い詰められるというのは恐らく初めてだろう。
未知の感覚に意識の制御が失われつつあり、話が途切れた今、次はどんなことを言えばいいのか戸惑っていると、翠は小さく息を吐いた。
「…よかった。私も同じ事、考えてました」
その声は神妙というよりも、どこか安堵したような声色だった。
「同じ事?」
どんどん暗い方向に向かっていった意識が、彼女のよくわからない言動によってふと我に返る。
「私も、失敗してしまったらPさんはどうなるんだろう、と思ってたんです」
「俺がどうなるか、って…」
一体翠は何を言っているのだろうか。
失敗したら大変なのは翠であって、俺ではないのだ。
そんな懸念は無用の物である、と反論する俺に被せるように、彼女は言葉を続けた。
600: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:22:23.44 ID:VOU4ETEHo
「もし私が失敗してしまったら、きっとPさんは自分を責めてどんどん追い詰めていってしまうのではないか、責任を感じてプロデューサーを辞めてしまうのではないか……そんな不安が尽きないんです」
不明な前後関係が、蜘蛛の糸によって繋がれていく。
――同じ事。
彼女がそういう表現を用いた意味が、雨が上がるかのように現れてくる。
「Pさんは失敗する事で私が落ち込んでしまうと考えているのでしょうが、私なら大丈夫です。あなたが信じてくれるなら、あなたの隣に居られるなら、いつまでも歩いていけるんです。だから私は……あなたがあなたでなくなってしまうのが怖い」
そういうことか、と俺の中の曖昧な感情が一気に収束した。
俺は彼女の凋落を心配し、彼女は俺の凋落を心配している。
すれ違っているようで、実は重なりあっているという、表現し得ない何とも可笑しな状態になっていた。
心配している相手から心配されているなんて、一体どんな関係なら起こりうる状況なんだろう、と俺は思わず笑ってしまう。
「…お互い様だったな」
「ええ、お互い様でした」
電話越しの彼女も小さく笑う。
翠の持つ全ての苦しみを俺にさらけ出して欲しい、という言葉は、翠の誕生日に出かけた時に俺が彼女に伝えた物である。
しかし、それは同様に彼女が俺に伝えていた言葉でもあったのだ。
過去の内で俺が翠にそういった弱音めいた言葉を口にしたのは、状況に惑わされてか誘発されてか、いわば強いられた状況下での言葉だった。
それを俺はよくないものだという風に捉えたから、なるべく外に出さないで、内に、内に、と溜めこんできたのだ。
今思えば、それは彼女にいらぬ心配をかけなくないという心もあったのかもしれない。
601: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:23:24.64 ID:VOU4ETEHo
「あなたが居るから私は居て、私が居るからあなたは居る、たったそれだけの事なんです。あなたは弓で、私は矢。どちらか片方がなくなっただけでも、意味のない物になってしまう……大事な、繋がりなんですよ」
俺は翠をつがえて、険しいアイドルの頂に放つ弓。
意識下に落とすまでもなく、翠らしい例えだった。
彼女の言葉に、そうか、と一つ呟いて返す。
「なら、俺は弦をしっかり張っておかないとな」
いくら美しく鋭い矢であろうとも、弓が折れていたり、あるいは弦がきちんと張れていなかったりすれば、それはただの塵と化してしまう。
両者があって、初めてその存在の価値が生まれるのだ。
弓と矢、プロデューサーとアイドル。
片方が片方を利用するのではない、密接に結びつくことで真価を発揮する、共生の形であった。
最終的、という言葉を用いることには若干の抵抗感はあるものの、俺は心から思う。
――俺と翠の関係は最終的にそこへ辿り着き、それこそがあるべき絆なのだ、と。
かねてからずっと体の中に燻っていた要らぬ感情が、彼女の声により散っていく。
清々しい、晴れ晴れだ。
どんな表現を使用すれば正しく伝えられるのかはわからないが、見事に切り替わったこの気持ちはまさに理想であった。
602: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:24:03.67 ID:VOU4ETEHo
「明日、寝坊するなよ」
顔から携帯電話を少し離すと、一つ息を付く。
成功したら、共に喜びと幸せを。
失敗したら、共に悲しみと苦難を。
背負うのではなく持ち合う事が、二人で歩く意味なのだ。
「勿論です。…迎え、待ってますね」
最後にお互い就寝の挨拶を交わすと、雑な音を経て電波の繋がりが失われた。
誰かから思ってもらえるという事がどれだけ幸せであるのか、改めて俺は知る。
そのせいか、この寒い空間の中でも何故か笑みがこぼれ続けてしまった。
「…さて、寝るか」
携帯電話をベッドの枕元に放ると、立ち上がって乗り上がり、綿の潰れた布団を被る。
欠伸をした後は、何も考えない、ただ寝るという本能的欲求に従い、意識を沈めていく。
体の中でつっかえてストレスを発していた何かは、跡形もなく消え去っている。
あれだけ下がらなかったまぶたが今ではすんなりと落ちたという驚きが、薄れゆく自我の中での最後の発現であった。
603: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:25:25.81 ID:VOU4ETEHo
*
――合同フェス、当日。
午前の時間帯はいつものレッスン場で細かい動きと体の柔軟運動、そして全体の流れなどの最終確認を行い、昼ごはんを挟んで現地入りする。
いつもであれば俺と翠の二人で移動していた時間が、今回はちひろさんを入れて三人で移動することになっていた。
すなわち、本日事務所は休業という訳である。
会場が設置されている特別な雰囲気を醸し出す公園に俺達が足を踏み入れた時には、既にそこは関係者や観客、激しいサウンドが入り乱れる混沌とした場所と成り果てていた。
年末で誰もが忙しいのでは、という疑問など遥か彼方に吹き飛ばしてしまうような熱気が会場やその周辺に溢れ、景色だけ見れば夏と勘違いしてしまいかねない程の盛り上がりである。
ステージには溢れんばかりの熱さを纏った音楽とダンスが披露され、それに呼応するように観客がある曲ではタオルを振ったり、またある時ではタイミングを合わせてジャンプをしたりと様々なリアクションが行われていたのであった。
「体調はどうだ? 変な所はないか?」
急なアクシデントでライブの時間に間に合わなかった、だからごめんなさいでは許されない。
なので、必要最低限の事は済ませてからこうして早めに行動することにしたのである。
「はい、万全です」
関係者用の通路の中で問うと、対する翠は元気よくそう答えてみせた。
表情から見ても、決して強がってはいない。
心の底からそう思っているのだろう、かつて見たような緊張の色はあまり見えなかった。
ちひろさんもそんな翠の姿を見て安堵したような表情をする。
604: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:26:55.08 ID:VOU4ETEHo
さて、そんな当日の今からできる事といえば、本番に向けてのシミュレーションや確認の打ち合わせなどが主ではあるが、俺の立場からすればそれ以外にもまだ仕事がある。
「では、ちひろさんは先に到着している麗さんと合流して打ち合わせをお願いします」
「わかりました。翠ちゃんをお願いしますね」
即座に意図を理解したらしいちひろさんは、俺の言葉に快く了承する。
麗さんはというと、午前にレッスンをした後は俺達よりも先に現地入りして会場の雰囲気や今日のライブの傾向などを調査してもらっている。
複数のユニットが次々とライブを行うというのは想った以上に厄介なもので、あるユニットの単独ライブであれば観客もファン故に全部盛り上がってくれるものの、こうして多彩なジャンルのパフォーマンスを披露するとなると曲調によっては盛り上がりの良い物、盛り上がりの悪い物といった傾向が僅かながら見えてくるのだ。
いくらこの合同フェスの方針が好きな音楽ファンが集まるイベントといえども、人間なのだから無理もない。
そのため、もしかするとロック・バラードというジャンルが今回の観客には受けにくいという可能性が存在するかもしれないのである。
もしもそんな兆候が見られるのであれば、今からでも遅くない、若干の流れの変更を進めなければならないのだ。
無論、ジャンル自体をがらりと変更することは不可能なので、あくまでステップの取り方や位置取りなどを変えるぐらいなのだけれども。
そういった理由で、数多のライブイベントを経験してきた麗さんにお願いしているのだった。
ちひろさんにはそんな調査をしている麗さんと合流し、具体的な改善案などを先に話し合ってもらうのである。
ならば俺達もそれに参加するのが当然である一方、俺達にしか出来ない仕事もあった。
それは、共演者への挨拶回りを兼ねた営業である。
「行こうか、翠」
「はい」
俺の考えを読み取った翠は聞き返すこと無く、明瞭に返事をしてみせた。
こうした挨拶回りもこの一年で幾度と無くしてきたのだから、彼女も不慣れとは思っていないだろう。
今は昼の部なので、俺や翠とは関係のない人の方が圧倒的に多いだろうが俺達には関係がない。
いずれ仕事で顔を合わせる可能性だって十分にあるのだ、今から積極的に話しかけに行っても損はしないのである。
また夜の部には、翠の状態を見ながら再び挨拶回りをするだろう。
小さくなってくちひろさんの後ろ姿を見届けて、俺達は他のユニットの控え室へと足を運んだのだった。
605: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:27:34.40 ID:VOU4ETEHo
*
「テレビでよく見る人が沢山いましたね」
ライブ前の関係者に話しかけるという行為がそれなりに難しい物であるということを実感した営業であった。
やはりどれだけ舞台に上がる事を経験した人でも本番前というものは独特な気分にさせてしまうようである。
癪に障らせないように穏やかに、加えてなるべく下手に出てファンを装いつつ営業をすること一時間、広大な敷地の中に別途建てられた控え室やその周囲に居る他のプロデューサー達に話しかけ終えて、それなりに好感触を得ることが出来たという結果に終わった。
本番のために集中しておきたい所ではあるが、弱小事務所だからこそそれだけに固執しないで出来る限り横の広がりを強くしていかなければ、この先の道は細くなるばかりなのだ。
結果がどうであれ、来年の事も見据えて営業をしたかったのである。
先輩アイドルやプロデューサーと話をするという事から、自信を見せていた翠も少なからず緊張してしまったようで、収録さながらのトーク営業を終えると苦笑して俺を見る。
すごい覇気でした、とは彼女の弁だ。
なるほど、圧倒されるというのはすなわちそういうことなのか。
その言葉に納得しつつ、会場の近くに建設されている売店で飲み物を購入して公園のベンチに座ると、風景を眺めて暫し休憩する。
この後は翠に用意された控え室でちひろさんと麗さんに合流して最後の打ち合わせを行う予定なのだが、実はその前にここである人と待ち合わせをしていた。
「温かいお茶っていいですよね」
「よくわかるよ、それ」
両手でペットボトルを持っている彼女は、身長差により自然発生する上目遣いで微笑んだ。
翠はその待ち合わせの予定を知らない。
というのも、彼女にその事を伝えるのを憚られる事情があるからだ。
決して子供染みたからかいがしたいだとか、気恥ずかしいだとか、そんな不真面目な理由ではない。
青空を彩る白い雲がゆったりと流れていく。
本番前ということもあって炭酸はご法度だが、そうでなくとも基本的に翠はお茶かスポーツドリンクかの二択である。
日常的に飲むであろうお茶にも大層おいしそうな表情をする翠に、俺は少なからず安堵感を覚えた。
「さて、そろそろ――と、時間丁度だな」
スーツの袖をめくって陳腐な腕時計を見ると、針の長針が真上をさしている。
それに呼応するように、遠くから見覚えのある男性の姿が見えた。
606: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:28:54.23 ID:VOU4ETEHo
「ああ、見つけた! こんにちは、とうとうこの日がやってきたねえ!」
小走りで現れた彼は冬特有のダウンジャケットを着込みつつ、大層愉快な表情を見せていた。
恐らく期待と喜びがぎっしりと詰まっているのだろう。
「あなたは――」
その顔を見て事情を知らない翠は思わず驚いて立ち上がり、同時に俺はわざわざここまで足を運んでくれた彼に立ち上がって礼をする。
「やあやあ、ご無沙汰しております!」
そんな対照的な表情をした翠が腰を折る所を見ると、男性は歯を見せて大きな笑みを晒した。
……その人は、まだヒヨっ子同然だった頃に大分とお世話になった、地元商店街の会長である。
そう、待ち合わせの人物とは彼の事なのだ。
ここに至るまでには、ちひろさんの営業努力が不可欠であった。
本来イベント関係者向けの優先販売されるチケットは数が少なく、その枚数を翠の家族に充てたために通常では彼の分を用意することができなかったのだが、ちひろさんによる根気強いアピールによって、俺達だけ特別に少しだけ多めに用意してくれたのである。
まあ、並大抵の言葉では不可能な事なのだから、弱小事務所故の恩情も少なからず入っているような気がするが……それを気にしても意味はあるまい、と素直に受け取っておく事にしたのだった。
「翠ちゃん、今日は頑張って――と、こういう言葉は駄目でしたね」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
きっと受験を経験した子供がいたのだろう、頭を掻いて苦笑する会長に、翠は微笑んで返事をした。
それから少し三人で他愛もない話をして区切りの良い場面に移ると、彼はおもむろに『例の話』を切り出す。
「さて、プロデューサーさん。話ですが…」
「わかりました。翠、悪いけど二人で話すために少し離れるから、それまでベンチで休憩しててくれ」
その言葉を聞いて、俺も本題に気持ちを切り替える。
そろそろ談笑は終わりだ。
時間が無い訳ではないが、この後も予定があるのだから悠長にする必要はない。
疑うこと無く明瞭に翠の了解する返事を聞いてから、ベンチと少し距離を取って彼と改めて向き合った。
607: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:29:46.24 ID:VOU4ETEHo
「翠ちゃんに言わなくていいんですか?」
「大丈夫ですよ。翠ですから」
会長は訝しげに俺の行動を指摘するが、そんな彼の表情を俺は掻き消す。
普通であれば、どういう形であれ仲間はずれにされると少なからず不信感を抱かれるだろう。
しかし、俺と翠の間柄においてそんな懸念は微塵も持っていない。
彼女が俺についてどういう感情を抱いているかを知っているからこそ、だ。
「例の計画ですが、夜の部の観客に入れ替わる時間帯に入場ゲートの後ろで全て配布してくれますか?」
計画。
未熟な俺がルーキーの集大成として考えた翠のための一計だ。
それを翠に伝えないのは、発生するかもしれないリスクを回避するという理由であった。
そのリスクに関してああだこうだと言うのは無意味なので、今は割愛をさせてもらうことにする。
「わかりました。それと緊急ですがこちらにも少し人員が増えましたから、プロデューサーさんの負担も多くはなりませんよ」
「人員……というと?」
関係者であることを示す許可証を会長に渡して時間と配布場所を改めて伝えると、彼は察せない言葉を口にする。
人員とはどういう意味なのだろうか、そう聞き返すと、彼は頭を掻いて笑った。
「実は、私の他にも一般抽選で手に入れたウチの商店街の人が居ましてね、その人にもお手伝いしてもらえることになってるんです」
「おお、そうなんですか!」
何て幸運な出来事だろうか、と思わず彼に頭を下げた。
この合同フェスは全国からファン達が駆けつけるために競争率がかなり高いはずなのに、そんなチケットを手に入れた人が近くに居て、更に協力を申し出てくれるとは思ってもみなかった。
「なら、その人と一緒に先ほどの場所にお願いします。運営側には伝えておきますから、向こうの人に私の名前を出して頂ければ大丈夫です」
正直な話、莫大な数の観客に対して数人では『それ』の配布に限界がある。
そういう意味でも、一人でも人手が増える事は非常に喜ばしい。
「了解しました。あれは運んでおきますから、後で向こうで改めて会いましょう」
「ありがとうございます。それではよろしくお願いします」
事前に打ち合わせはしているので、話も深くは入らない。
それは比較的音が大きいこの場所で細かい話をしていると聞き間違えなどが発生するからである。
最後の確認を取ったところで、会長は少し離れた場所にいる翠に軽く会釈をしてここを立ち去っていった。
608: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:30:54.52 ID:VOU4ETEHo
……計画は着実に進行している。
後は夜の部の観客の入場を待って行動を起こせば、全ての準備が完了するだろう。
「お疲れ様です、Pさん」
翠からすれば何やら俺が一生懸命仕事をしているように映ったのだろうか、労いの言葉をかけてくれる。
確かに一生懸命仕事はしているが、それは当然の事だ。
それでいて彼女にそう思われるのだとしたら、それは以前まではどちらかと言えば向こう側が発端となる受動的な仕事や計画が多かった故に、今回のプロデューサー主導で始まるこの話は俄然気合をいれているのが理由だろう。
今の俺はもう新人という立場に甘えている場合ではないのだ。
だから、負けないように全力で行く。
「ありがとう。じゃあ行こうか」
「はいっ」
体で次の予定を指し示すと、翠は寒空に負けない元気な声で返事をする。
ぬるくなって人肌になったペットボトルを取り出して指先を暖めながら、俺達は翠に縁深い人物に会うため、ここを発つのであった。
609: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:31:50.74 ID:VOU4ETEHo
*
「あ、お母さん、お父さん!」
アイドルから少女に変わる瞬間を俺の目が捉える。
まだ日が高いと言える午後の時間。
予め連絡していた近所の小洒落た喫茶店には、翠にとってかけがえの無い人物である両親が彼女を待っていた。
両親も翠の姿を一度視認すると途端に嬉しそうな表情になり、椅子から立ち上がって小走りでこちらに向かってきたのである。
「翠ちゃんのお父様もお母様も、この度は遠いところから遥々お越し頂きありがとうございます」
正しくは少し前に翠は両親と会っているのだから、厳密に言えばつい最近会ったばかりだが、というべきなのかもしれない。
しかし、その時の翠はあくまで両親の娘としての翠である。
今回二人が会った時に彼らが歓喜の声を上げたのは、今の彼女がアイドルとしての翠だからなのだろう。
私的な一面を廃したアイドル・水野翠と接するのは、恐らく今回が初めてである。
やはり両親としては娘が遠い所で働くという事が無性に心配なのだろう。
そんな三人の大人として、家族としての再会をひと通り喜び合った所で、少し後ろで邪魔にならないように待機していた俺は前に出て頭を下げたのであった。
「…話は聞いた」
先ほどの跳ねるような声色から一転、父親が冷静にそう言うと、母親から着席するように言われて素直に応じる。
彼の声色で、容易に内容が想起された。
話とは、無論俺が母親に対して謝罪した時の内容……すなわち、翠が倒れた事である。
あの時は父親に話そうとする俺を母親が制して、直接伝えることなく終ってしまったのだが、彼の口ぶりからすると事実をはっきりと母親から聞いたのだろう、その表情は怒っているというよりも沈着した様子であった。
母親からそれを伝えられた時、彼は何を思ったのだろうか。
怒りか、悲しみか。それとも不信感か。
当時の感覚が戻ってくる。
怒られたとしても仕方がない事をしたのだ、どこまでも謝罪する覚悟はある。
突き抜けるのであれば殴られたって構わない、と意を決して彼の言葉を待っていると、父親は俺の貧弱な予想の範疇を越えた行動に乗り出した。
610: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:33:08.79 ID:VOU4ETEHo
「……娘を、ありがとう」
父親の方が、今度は頭を下げたのである。
「え、あの…!?」
あまりの出来事に、俺や翠もその場で固まって態度に窮してしまう。
一体どうして彼が頭を下げる必要があるのだろうか。
実の娘を倒れさせてしまうという、怒るのも致し方ない事情にも関わらず、彼は気持ちに阻害されることなく俺に礼を言ったのである。
――そういえば、以前母親にこの話をした時も似たような事を感じた。
確か彼女は翠の状態を訊ね、そして何も不安はない、そう答えたのであったか。
不思議なことに、謝る時の俺の瞳が母親から見れば翠を心から思ってくれている、という風に見えたらしいのである。
そうして彼女と会話を続けていると、この母親が居たから翠はこんなに素晴らしい子に育ったのだろう、と結論づけたのだった。
もしかしたら、父親も――?
俺の心の中での思案を他所に、母親は彼の肩を持ってゆっくりと引き上げる。
父親の目は、見た目こそ厳しそうであるものの、その言葉を聞いた事で、どこか慈愛に満ちているような気がした。
「翠が倒れた時は、本当にお前を恨んださ。……でもな、翠からの話を聞いてると、とてもじゃないがお前を怒れやしない」
愛知に行った日。
俺は日帰りで東京に戻らなければならなかったが、翠は一日本当の実家で夜を過ごしたのである。
つまり、そこで彼女は父親に今回の顛末について詳細を話したのだろう。
そう続ける父親の顔に、怒りは全くない。
611: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:34:17.81 ID:VOU4ETEHo
「自己の体調管理を怠った翠にも反省すべき点はあったし、お前も翠を大切にしていることは十分にわかった。だからこの場で改めて言わせてもらう」
――娘を、翠を、素晴らしいアイドルにしてくれて、本当にありがとう。
…その強烈な言葉は俺の脳を激しく揺さぶり、体内に尽きぬ程の幸福物質をまき散らした。
大事な子供を預けるという不安や顔を見れない寂しさ、不測の事態が起きたという憎悪がこの一年で彼の心の中を飛び回っていたのだろう。
それが、最終的に感謝という形に収まったのである。
……しかし、それで終わらせていいのだろうか。
少なくとも俺はそうは思わない。
彼がそう思っているからこそ、その言葉は尚早なのだ。
「…それは、また今度聞かせて頂けませんか?」
突拍子もない俺の言葉に、両親は真っ直ぐに瞳を向けてくる。
確かに、このタイミングは彼らの考える節目と捉えても何らおかしくはない。
年末という時期にしろ、大舞台前という時間にしろそうだろう。
だが、アイドル・水野翠はまだ完成していない。
この合同フェスを大成功で終わらせて初めて、彼らの思うアイドルはとりあえずの完成を迎えるのだ。
だから俺は言う。
「翠の歌を聴いて、感動して、それからまた聞かせて下さい。……節目を迎えるには、まだ少し早いですから」
二人組同士で座る配置なので、向かい側には両親が、そして俺の隣には翠が居る。
そんな隣の翠が、そっと微笑んでいることに気づいた。
「お父さん、お母さん、今日は来てくれてありがとうございます。ステージに上る私の姿を見て、楽しんでいって下さい」
子供が大人になる瞬間というのだろう。
俺の宣言に呼応されて発した彼女の言葉は、両親の娘という肩書きではなく、一人のアイドルとして、大人としての区別を付けていたようだった。
612: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:36:16.34 ID:VOU4ETEHo
「…そうだな」
続いていた会話が途切れてしばしの沈黙が訪れている間、喫茶店特有の落ち着いた雰囲気がテーブルの上で踊っていたが、幕を下ろすように先に切り出したのは父親であった。
「過程は過程でしか無い。それが翠の立場なら尚更か。なら、俺にこう思わせてくれ――あのステージに立ってる奴は本当に俺の娘なのか、とな」
テレビ越しにアイドルの翠を見たところで、それは結局ファインダーを覗いて見えた一部分でしかない。
肉眼で、同じ空気の中で彼女と相対することで本質を理解したいのだろう。
彼の言っていることはすなわち、成長を肌で感じたい、という意味に他ならない。
「ふふ、期待していて下さい」
それに張り合うように、くすり、と笑って翠がそう言うと、両親も安心したように頬を緩ませた。
…恐らく、本番までの間に気楽に笑っていられるのはこの時間が最後である。
喫茶店を出て彼らと別れれば、そこに残されるのは無謀にも合同フェスに挑むプロデューサーとアイドルなのだ。
本番では、練習では絶対に味わえない異様なプレッシャーに全身を押されながらパフォーマンスをしなければならない、辛い戦いになるだろう。
だから、最後の休憩としてこの時間を楽しんで欲しい。
俺もまるで彼女の家族になったかのような、そんな和気あいあいとした空間の中で、俺はそっと翠を想ったのであった。
613: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:37:07.96 ID:VOU4ETEHo
*
冬と聞いて連想される事と言えば誰しもいくつか思い浮かぶが、その中の一つとして、やはり太陽が沈む時間が早いというのが挙げられるだろう。
昼の時間帯にあった微かな暖かさなど明度と共にあっという間に消え失せ、残された冷たさがこの周囲を暗闇とともに覆い尽くしていた。
空はすでに黒色に染まり、訪れた観客たちも肌を刺す寒さをステージ上で舞う彼女の一挙一動に見入ることで掻き消している。
まあ、冬本番、一年の終わりとなれば暖かさを常に享受できる人は殆ど居まい。
「綺麗な声ですね…」
翠は目を閉じて、その音ひとつひとつを丁寧に頭の中に入れているようである。
「翠の先輩として、流石の実力だな」
悲しく揺れるバイオリンの煌めきが波に乗せられて、翠の前の順番であるアイドルの声が会場内に響き渡っていた。
姿は見えない。
ただ、ステージの裏側、観客からは完全に隠れた舞台裏で、準備されていた椅子に座りながら俺たちは彼女……水本ゆかりの歌声に耳を傾けていた。
流石に熱源がステージ裏の照明では余りにも頼りない。
とてもじゃないが厚さを感じないコートを着たまま、スラックスのポケットに手を入れる俺であった。
614: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:38:17.68 ID:VOU4ETEHo
*
――時は、誰の制御も受け付けることなく走り続ける。
「ご両親とはどうでしたか?」
控え室に戻る最中、ちひろさんは俺に問いかける。
「ええ、いい時間でしたよ」
あの光景を包み隠さずちひろさんに伝えると、彼女はよかったです、と微笑んだ。
日が落ちるという現象は瞬く間の出来事で、入場ゲート付近での人の大津波に驚嘆しつつも無事『それ』の配布を終わらせた俺とちひろさんは、疲れた顔もせずに翠の控え室に戻っていた。
翠にその計画を知られる訳には行かないので、一度控え室で合流してから俺とちひろさんの二人で行ったのだ。
大変ではあったが、かといって麗さんも一緒に行くとなるとその間翠は一人になってしまうので、監督役も含めて麗さんを残したのである。
「本番も全力でできそうですね」
控え室のドアの前でちひろさんは言う。
例えそうでなくとも翠なら仕事として切り替えて全力で行けそうではあるが、同じ釜の飯を食べた彼女達の間柄だ、親子関係については何らかの共通点があるのかもしれない。
できますよ、翠なら。
端から見ればまるで根拠のない盲目的な信頼をちひろさんに告げると、俺は控え室のドアを叩いて開いた。
615: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:39:48.51 ID:VOU4ETEHo
室内では、立って身振り手振りで話し合う翠と麗さんが居た。
「ただいま戻りました」
「やっと戻ってきたか。早速だが始めるぞ」
予め申請していた数のパイプ椅子が控え室には用意されていたので、ひとまず俺達は彼女の近くに座ることにした。
恐らく二人だけで先に調整する事項について理解を進めていたのだろう。
長テーブルには、飲料水のペットボトルや何かが記されたノートなどが置かれていた。
「では私の見てきた事で、調整可能な事案について報告する――」
彼女達も近くのパイプ椅子に着席すると、ペンを取って俺の方を見る。
その目に楽の感情は無い。ベテランの意地が垣間見えるほどに、真剣な表情であった。
……練習という概念において、麗さんの基本的な方針としては、極端に言えば本番までの時間は一ヶ月前であろうが一分前であろうが全て同じ練習時間である、というものがある。
それ故か、この時話す彼女の言葉も、冗談の一つも見せないで、今日見て感じた事を余すところなく丁寧に俺達に報告していた。
そうして話す彼女の手元には古ぼけたノートがある。
きっと何年も何回も使ってきたノートなのだろう、シミが付き、角が丸くなったそれは彼女の知識の結晶、人生のバイブルそのものなのかもしれない。
対する翠はメモこそ用意していないものの、聞かされた変更点について頷きながら改めて確認している。
二人は俺達がここに戻るまでにもある程度話し合いを進めていたのだから、翠から質問が出ることは殆ど無かった。
しかし、それでも気になる所というものは存在するようで、逐一翠が意見しては麗さんが立ち上がって問題の部分のダンスを披露して翠に教えていた。
…ちひろさんと俺もただ人形でいる訳にはいかない。
それぞれ感じた事、気づいた事を時折挟んでは議論になり、いつもの様子ではありえない口論にさえ発展しかけた事もあった。
しかし、俺達全員に言葉以上の悪意は存在していない。
誰もがただ翠のダンスをよりよい物にしたいと考えているからである。
616: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:40:15.24 ID:VOU4ETEHo
「――よし、大丈夫だ」
あまり変えすぎても、覚えきれず本番に支障が出る。
ダンスについて軽く流すように微小な変更点を加えつつ、より大きく、より美しくするために洗練させていると、瞬く間に時間が燃焼されていく。
「うわ、もうこんな時間なのか!」
ふと時計を確認すると、俺は思わず立ち上がってしまう。
翠が変更点を飲みこんで完全に理解したのを全員が確認する頃には、もうスケジュール上の翠の順番がかなり迫ってきていたのである。
「焦らなくても問題はない。ちひろ、準備を手伝ってくれ」
「わかりました」
運営の人によるステージ・セッティングの時間を考慮しても、今私服のままで時間を過ごしていては些か不味いことになる。
麗さんの言葉によってそれぞれが動き出すと、翠の少女からアイドルへの変身に着手し始めた。
通常であれば必要となるヘアメイクなどのスタイリストとしての役割は、全て麗さんが請け負うことになっている。
そもそもレッスントレーナーなのに何故そこまで出来るのかが少し気になるものの、熟練の位置にまで辿り着くにはそういった知識や実力も必要なのだろう。
翠も信頼出来る相手に任せたいと考えているはずだ。
こうして急ぎでの準備が始まった訳だが、勿論この中で唯一の男である俺が着替えをする控え室の中に居る訳にもいかず、コートの中に収まる程度で必要な物を全て放り込んでから外に出たのであった。
617: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:41:25.89 ID:VOU4ETEHo
*
運営の進行役を手伝うアシスタントから連絡を受けたこともあって、準備を完璧に行うと俺達は控え室のあるエリアからステージに続く舞台裏まで移動する。
舞台裏は必要最低限の人員のみが同行を許される最後の空間だ。
それは大人数で行っては準備を行うスタッフの通行に邪魔になるかもしれない、という運営側の判断だろう。
ちひろさんと麗さんは、快く俺達を送り出してくれた。
合同フェスは生中継でテレビ放送されているため、彼女達は携帯電話でテレビ視聴をするはずだ。
そんな二人の思いを背に受けて歩き出していると。
ふと、遠くから静かな音色が聞こえた。
――聞き覚えのある曲。
咄嗟に俺はコートに四つ折りにされて少し形が崩れた紙を取り出すと、それを破かさないようにゆっくりと開く。
「……ゆかりか」
その紙とは、出場者のリストや順番などのスケジュールが載せられた関係者向けの紙面であった。
リハ―サル前の打ち合わせの時に配布された物と同一である。
「ということは、次は私なんですね」
今パフォーマンスをしているのがゆかりとなると、間違いなく次は翠だ。
それを知っても翠は全く慌てること無く、ただ歩くことが今の仕事なのだと言わんばかりにそのまま歩みを進めていた。
時折挨拶と共に駆け抜けていくスタッフを眺めながら、舞台裏に向かって俺達は歩く。
忙しなく動くのはスケジュールをギリギリまで詰め込んでいるからなのだろう、たった今通り抜けて行った若い男性スタッフは新人なのか、何かの紙と前方を交互に見ながら必死な形相をしていた。
それもこれも、この合同フェスをより快適に、より品高く運営するための行動なのだろう。
全ては成功のために、ひとりひとりが皆休むこと無く動いている。
俺達ができることは、そんな彼らを労うために一々呼び止めるのではなく、合同フェスの名に恥じないパフォーマンスをすることだ。
一つ歩くごとに一つ捉え様のない何かを思い浮かべながら、かつ、かつ、と音を鳴らして俺達は足を前に出し続けていた。
618: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:42:44.12 ID:VOU4ETEHo
「――なんだかこの通路、階段みたいです」
別段饒舌になる事もなく、二人で小さく響く歌を聞きながら歩いていると、視線を前に向けたまま不意に翠が呟いた。
通路なのに階段とはどういう事なのだろうか。
正直に言えば、俺はもう本番の事や今までの事の回想で頭が絡まっており、意味を推察する程の余裕がなかったのである。
恥も外聞もなく、そのままの意味を以て訊き返す。
そんな気の抜けた回答だったからなのか、翠は、ふふ、と笑って視線を上にあげた。
「思えば最初の頃からでしたね。私の事をシンデレラにすると言い出したのは」
彼女の言葉に、混雑していた意識の渦が切断される。
「…そんな事もあったなあ」
明瞭になった意識が、俺を苦笑させた。
シンデレラ。
何とも気恥ずかしい言葉なのは今でも重々理解しているつもりだが、どういう訳か俺は翠にそう言ってしまったのである。
そもそも、それらを口にするきっかけになったのは事務所の名前であって俺が考えた事じゃないんだ、と心中で言い訳をした。
とすればだ、彼女が階段と表現したのは絵本の中での話の事だろう。
舞台へと赴く翠を、城へと参るシンデレラと重ねあわせたのだ。
「でも、話通りのシンデレラじゃなくなってしまったな」
絵本の中の彼女は階段を昇る時、隣には誰もいないが、現実の彼女は違う。
舞台では一人だが、その隣には見えずとも俺が居るのだ。
「その通りでなくてもいいんです。Pさんが居る、それが私をシンデレラにしてくれた魔法なんですから……そうでしょう?」
はは、と小さく笑ってやる。
619: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:43:41.66 ID:VOU4ETEHo
「まあ、そういう話でも悪くないか」
不意に翠の頭に手を置こうとして、強引に引っ込める。
せっかくセットした綺麗な髪を無遠慮な手で崩したくはない。
翠は俺が当初描いていたそのシンデレラにはならなかったし、俺も理想の魔法使いにはなれなかった。
だが、それも含めて、俺達が昇る階段なのだろう。
漫画のようにトントン拍子と進むには程遠いものの、階段を上がって目指すは舞踏会。
そこで参加する人全てに翠の存在を知らしめて初めて物語は成立する。
「…それは、終わったらお願いしますね」
俺の所在不明の手に気づいた翠が、こちらを向いてにこり、と笑う。
「任せとけ」
はっきり言って緊張が消えることは全くないのだが、彼女の笑顔だけはそれでも俺を沈めてくれたのだった。
620: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:44:44.62 ID:VOU4ETEHo
*
曲の終わりは、出番への接近という事実となって目の前に表れる。
転調からのラストのサビは、ゆかりの持つ圧倒的な声量によって絢爛に修飾され、この声を聞く誰もが心を震わせる、華々しい終わりを迎えていた。
「……リベンジ完了、か」
ゆかりの言葉を聞きながら俺は小さく呟く。
別の音に掻き消されたのかこの声は翠には聞こえていなかったようで、隣に座る彼女は目を閉じてそっと静かにその空気を感じていた。
――別の音。
その音とは、声でも、楽器から放たれる音でもない。
人の両手でつくり上げる、壮大な拍手であった。
ゆかりの歌声に負けず劣らず、周囲の空気を震わせ、そこら辺一体がひしめき合っているかのような異様な大きさの音だ。
壁によって若干音が減衰している事を加味してもかなりの音量が俺達の耳に入ってくる。
きっとゆかり本人が味わうその拍手は俺達の今感じている物よりも遥かに膨大であることだろう。
ライブと言うよりもむしろオーケストラのコンサートのような、全てを褒めちぎらんとする音達は、ゆかりの心を果てしなく満たしているに違いない。
…そんな彼女について考えていると、成功、という文字がふと頭に浮かんだ。
621: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:45:31.96 ID:VOU4ETEHo
ゆかりを語る上では、決して忘れることの出来ない悲しい物語がある。
期待を持ってアイドルの門を叩き、必死に練習して、そして上層部の画策により受ける必要のなかった屈辱の限りを味わい、どん底に叩き落された。
しかし尊敬する人間によって再び立ち上がり、諦めることなく続けることで、再登場を果たすことが出来たのである。
これは間違いなくサクセス・ストーリーと呼ぶべき存在だろう。
彼女が何を感じてここまで過ごし、これからどんな事を考えて過ごしていくのか、本人でも担当プロデューサーでもない俺には到底推測できようにない。
だが、完成したということに変わりはないのだ。
紆余曲折の末、彼女の物語は一つの完結、一つの区切りを迎えることが出来たのである。
ならば、翠はどうか。
確かにゆかり程の強い意志は持ってなかったのかもしれないし、耐え難い屈辱というのも翠はまだ経験していない。
この先起こるであろう失敗や挫折も、アイドルとして生きる限り幾度と無く彼女を襲うのだろう。
大きくなればなるほど、それらの規模は一層広くなっていく。
ごく僅かの人にしか影響を与えなかったこの前のトラブルも、彼女が成長していけば損害を被る人は莫大な数になるのだ。
それらを未だ身をもって知らないということは、それだけで人間として考えるなら平凡と言われても仕方がない。
しかし、彼女にはアイドルを通じて得た沢山の思いがある。
寂れた事務所の中で、ごく小さな人間関係の中で生まれた彼女の純粋な心は、鋭くはないが人を惹きつける何かがあるのだ。
この俺達の軌跡がどういう閉幕を迎えるのか、それはもうすぐわかってしまう。
成功か、失敗か、続行か、終了か。
あらゆるエンディングの形を思い浮かべながらも、願わくば彼女の笑顔を失わない結果になりますように、と心に浮かべた。
622: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:47:18.18 ID:VOU4ETEHo
「――あ、翠ちゃん」
天を仰ぎ、来るべき時間を物言わず待っていると、不意に細い声が聞こえた。
この声を間違えるような事は絶対にない。
「……お疲れ様です、ゆかりさん」
翠は目を開けて、ステージから戻ってきた水本ゆかりに深々と礼をした。
傍目にはただの挨拶のようにしか見えないが、翠は誠心誠意を持って彼女を労っているつもりなのだろう。
ゆかりは、彼女の担当プロデューサーに肩を抱かれ、かつて見たことのないぐらいに疲弊した表情であったからだ。
実時間にしてたった少しだけの物であろうとも、大勢の人に視線を浴びせられながら、気温などの悪い環境条件の中で全身全霊で以て歌い尽くせば、そうなるのも不思議ではない。
更に、ここは彼女にとって半ばトラウマの源に近い場所だ。
無事乗り越えたという安堵感も、彼女を疲労困憊にさせた原因だろう。
翠もそれが解っているから、仕事人としての礼に加えて、本人自身の思いを込めて頭を下げたのだった。
彼女のパフォーマンスはもうこれで終了を迎えた。
なのでこのまま控え室に戻ってひとまずの休息を取るのではないかと思っていたら、何やらゆかりがプロデューサーである彼に何かを囁くと、彼女は隣にある椅子に座り、大きく息を吐いてぐったりと固い背もたれに体重を預けたのである。
疲れた体でここにわざわざ座る必要性は感じられない。
とすると、そうしないのには何らかの理由があるのだろうか。
彼はゆかりの肩から手を離すと彼女から遠ざかり、反対側である俺の隣の椅子に座った。
アイドル同士、プロデューサー同士で隣に座った状態である。
ゆかりのプロデューサーの表情は決して楽観的とは言えないし、かといって怒りに震えているという訳でもなかった。
どこか神妙な面持ち、というべきだろうか。
ステージの照明は一旦落とされて次の順番である翠のパフォーマンスの準備がされ始めている。
その最中、彼は少しの間遠くに焦点を合わせていると、ふと俯き呟いた。
「…これがゆかりの実力だ」
既にステージではパフォーマンスが終了した事から、観客たちのざわめきや物を運ぶ音などが周囲に散っている。
それでも、彼の言葉は何故かすっと胸に入り込んできたのだ。
623: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:48:00.82 ID:VOU4ETEHo
――その言葉で、彼の思いが全てわかったような気がする。
きっと、後悔という文字がずっと彼の頭の中にあったのだと俺は思う。
例え同じ事務所の中でも、担当プロデューサーが違えばそのアイドルと接する機会というのはそこまで多くはならない。
それが彼ほどの巨大事務所で、更に経営に執心な上層部であったなら尚更だろう。
休みの日に事務所に遊びに来てくつろぐ、だなんて事が実現する訳がない。
だからこそ、彼は悔やんだ。
距離で言えば近くに居たのに、守り、育むべきゆかり達を見殺しにしてしまったのだと感じてしまったのである。
無論、彼に責任はない。
責めるべきは、彼女達にそんな無理無茶無策の指示を出した上の者達であり、フォローすることを放棄した彼女達の元プロデューサーだろう。
しかし、それでも彼は酷く後悔した。
その事務所に居た人間の中で、誰よりも彼女を心配したのだ。
理由については察する他ないのだが、恐らく彼のプロデューサーとして働く意義に繋がっているのかもしれない。
成り行きですることとなった俺とは全く逆の何かであろう。
彼には強い意志があった。
リベンジを果たさせてやりたい。
あんな心にもない非難を受けることのないような、最高のアイドルにしてみせる。
……彼女に見せる無愛想な表情の裏には、煮えたぎる魂がふつふつと命を鼓動させていたのだ。
624: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:48:48.05 ID:VOU4ETEHo
「次、頑張ってね」
まさに必死のパフォーマンスを終えた後に楽しく雑談など出来るはずもなく、現れるべくして現れた沈黙の、そんな無言を区切るかのように一つ、ゆかりは言った。
本人だって疲れているはずなのに、出てきた言葉は翠を鼓舞するものであったのだ。
俺は、彼らに何も言えない。
まだそんな高みを経験していない俺が軽々しく意見する事は、彼らの積み上げてきた実績や苦しみを侮辱する事に他ならないからだ。
だから、ただ黙って彼の雰囲気を感じた。
幾千、いや、幾万の思いを彼らは交わしてここまで来たのだろう。
俺達は、そこに辿り着けるのか。
彼らの持つ信頼関係を、俺達が上を行くことは可能なのだろうか。
「……はい」
そんなゆかりの姿を一瞥してから、翠は小さく頷いた。
翠も俺と似たような事を考えているのかもしれない。
何故なら、集中することの難しさ、努力することの意味を彼女は知っているからだ。
故に、いつものように元気な声で返事をすることができなかったのである。
そんな声を聞いたゆかりは、物言わずそっと翠の手を握る。
突然の事に翠は少し驚いたが、それをするゆかりの表情を見て何かを悟ったらしい、 翠の表情がきゅっと引き締まったような気がした。
そのまましばらく再びの沈黙が訪れていたが、パフォーマンスを終えた者がいつまでも舞台裏に留まっていは他の者の迷惑になるだろう、と判断したゆかりのプロデューサーはふと立ち上がると、ゆかりの肩を叩いて控え室に誘導する。
ゆかりもそれに抵抗せず素直に従い、翠から手を離すとそのまま舞台裏から立ち去って行ってしまった。
625: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:50:10.45 ID:VOU4ETEHo
「…もうすぐなんですね」
二人の後ろ姿を見届けたことで舞い降りた俺達の沈黙は、翠の呟きによって掻き消された。
彼女はゆかりに握られた手をじっと見つめている。
ゆかりのパフォーマンス終了から数分もたてば、舞台もいよいよ完成に近づいていく。
舞台裏を通るスタッフの数も瞬く間に減っていき、あとはセッティングの微調整ぐらいなのだろう、恐らく表舞台では暗い中必死に位置を動かしているに違いない。
「ああ、もうすぐだ」
隣に座るドレス姿の翠を一瞥すると、俺はぼんやりと仰ぎながら返した。
――本当にこの一年は色々あった。
思えば、仕事一つ取るのにどれだけ心労が溜まったのだろうか、と不意に記憶が蘇る。
ちひろさんから渡された営業先のリストを穴が空くほど見て、初夏の頃で暑くなり始めていた空の下、あちらこちらへと走り回っていたっけな。
翠も同様で、女子高生からアイドルへ、そんな急転直下な怒涛の一年を思い出しているのかもしれない。
「でも、これが終わりじゃないからな」
しかし、これはただのプロローグである。
あくまで、翠がアイドルという物語の開幕にたどり着くまでの外伝に過ぎないのだ。
一年を締めくくり、来年から始まるアイドル二年目において更なる飛躍を約束するためには、まずはこの序章を終わらせなければいけない。
いつか来るであろう翠のアイドル人生の終わりは、まだまだ先なのだ。
626: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:51:39.48 ID:VOU4ETEHo
遠くを眺めていた翠は、俺の声を聞いてこちらを振り返る。
俺がそう言うと予想していたのか、翠は驚きもせず、怒りもせず、ただ平凡に、素直に、純粋に、くすり、と笑った。
そして彼女は言う。
「勿論です。…あなたが射た矢は、こんな所では止まりませんから」
らしいな、と、俺もつられて笑ってしまった。
――司会者の声が会場に響き渡ると、案内のスタッフが翠を誘導する。
そこに俺がついていくことはできない。
ステージに行けば、彼女だけだからだ。
スタッフの指示により立ち上がった翠は、ステージへ歩き出す前に踵を返してこちらを振り向いた。
ここで交わすべき言葉は、弱音でも意気込みでも虚勢でもなければ約束でもない。
「…いってらっしゃい」
下らない画策を講じはせず、ただいつものように俺は言った。
これからも、ずっと続いていけるように。
これからも、彼女の隣に居られるように。
俺の素朴な言葉を聞いて彼女は嬉しそうに微笑み、返事をする。
「――いってきます!」
空色のドレス姿で笑う彼女は、ずっと少女的で、それでいてアイドルそのものの顔であった。
627: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:52:49.33 ID:VOU4ETEHo
*
明かりのないステージに一つ、ピアノの打音が流れ始める。
同時に、ざわざわとしていた観客の声がピタリと止まった。
闇の中で、演奏が広がりを見せていく。
ピアノがベースを、ベースがドラムを、ドラムがシンセを誘導する、落ち着いた伴奏が、冬の夜空を彩り始めた。
たった五つにも満たない少ない音源で、シンプルな音色を響かせている。
相変わらずステージに照明は灯されていない。
伴奏を聞く観客たちも、何事か、ステージの故障かと周囲を見渡し始めていた。
それでも止まらずに伴奏は続く。
まるで観客のことなど全く気にしていないかのように流れるピアノは、絶対的な孤独感を生み出していた。
それが十数秒続いただろうか。
伴奏が僅かな溜めを作ったその瞬間、突如ステージの照明が全て明かりを灯したのだ。
…その映しだされた光景に、会場が一瞬どよめく。
一体何があったのか、という感想を抱いたに違いない。
それもそのはず、先程まで見え隠れしていたはずの鉄骨が見えた生命感のない舞台が、いきなり真新しい洋館へと様変わりしていたのだから。
その中のスポットライトが、手を胸に抱いた翠を映す。
黒き夜空の中で、空色のドレスが一際異彩を放つ。
響く音色に乗せられて、アイドル・水野翠のパフォーマンスが始まった。
628: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:53:37.49 ID:VOU4ETEHo
ゆらり、ゆらり。
一つの楽器が増えたかのような、伸びやかで、しっとりとしていながらも感情を持った強い声。
ピアノやギターと手をつなぎ、一緒になって歌を紡ぐような、暗い夜の寂しい雰囲気を十二分に彩っていた。
…俺自身、こんな彼女の声を聞いたのは初めてかもしれない。
やはり雰囲気による補正がかかっているからなのだろうか、レッスン室やレコーディングスタジオで聞いた時よりも、遥かに感情が強く込められている。
そう感じてしまうのは、遠くでゆっくりと舞う翠の表情を舞台裏からは見ることが出来ないのに、声だけで、彼女が何を思っているのかがありありと伝わってくるからだ。
ロック・バラード特有の強く、寂しさを持った音階に合わせるように、翠はリリックをありのまま観客に手渡していく。
ギターを抑えて、ピアノと鈍く響くベースが中心のAメロから、次第に音色が加速し始めるBメロに移る。
悲しみがメインとなっていた感情が、新たな展開を迎えるためにスピードを増していく。
前の雰囲気を残しつつ物語の主人公の気持ちが変わり始めたのを、観客は見逃してはいなかった。
じっと佇んでメロディを聞くだけだった観客が、右に左に、体をゆっくりと揺らし始めたのだ。
それはリズムの鼓動であり、ドラムの刻印、ベースの波であった。
観客の心が、翠の歌によって乗せられた証拠だ。
その歌に『乗る価値がある』と思わせたのである。
629: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:54:55.26 ID:VOU4ETEHo
前よりも早いテンポでBメロが進んで徐々に音調が上がっていくと、そのメロディも終わりを告げ、ついにサビが訪れる。
ピアノの勢いが更に増し、それを支えるようにドラムや先程まで抑えられていたギターが途端に強くなる。
サビは、流麗な劇場であった。
ステージの照明やレーザーが舞台を未知の物に姿を変えさせ、宙に浮かぶ空色のグラデーションが、淋しげな洋館の部屋の中で流星群を導き出す。
流れ、舞い、訴える。
翠は仕立てあげられた現実の絵本の中に入りきり、絶えぬ歌を続けた。
すると、ここで翠にとって思わぬ変化が起きる。
――暗かったはずの観客席から、ぼんやりとした青い色が突如出現したのだ。
そしてぽつんと揺れていたそれらは、瞬く間に観客席を覆い尽くしたのである。
630: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:55:59.10 ID:VOU4ETEHo
…その正体は、青色に光るサイリウムだった。
観客の手に持っていたサイリウムが、この時振られるようになったのだ。
しかし、何故このタイミングで観客が振り始めたのか。
俺はその理由を、考えるまでもなくはっきりと理解していた。
――計画。
実は、このサイリウムが現れる現象は、俺の計画によるものであった。
もう分かるとは思うが、合同フェス以前、リハーサル前の打ち合わせの時に、俺はこのステージをインパクトのあるものにしようと提案した。
その時にこの計画についても運営の人に話しておいたのだ。
そして合同フェス当日、予め運営側から許可をもらって、夜の部の入場ゲートに俺とちひろさん、そして会長とその偶然手伝ってくれる商店街の人が集まり、ゲートを通る入場者にサイリウムと応援のためのチラシを頒布したのである。
そのチラシに記載したのはたったの一言で、『水野翠のパフォーマンスを楽しんで頂けましたら、その時はこのサイリウムを振って下さい』というものだった。
余計な恩情は必要なく、ただ純粋に観客たちに判断を仰いだのである。
計画とは、単純に言えば『翠の味方を増やす』という目的のために作られた。
ゆかりの例があることを考慮すれば、見る者が敵対的であるかどうかというものは本人の精神的負担や恐怖に著しく影響を与えているのは間違いない。
だとすれば、どちらに転ぶかわからず歌うよりも、はっきりと味方であると判別出来たほうが翠もやりやすいのではないか、という事である。
ならば本人に伝えなかったのはどうしてかというと、もしこの計画が失敗、つまり誰も渡されたサイリウムを降らなかった場合、計画を知っていたら翠はそれを見て失意に陥る可能性があったからだ。
振れば味方、振らなければ敵と考えるよりも、翠のために振ってくれていると捉えたほうがリスクが少ないのである。
普通であればこんなことはまず起こり得ない。
観客全員が同じ青色のサイリウムを持っている事などありえないからだ。
そして、振られたサイリウムの色は全て青色。
だからこそ、例え翠に伝えなくとも彼女ならその意図や意味を絶対に理解できるのである。
舞台で舞う彼女は、その光景を見て一層動きを大胆に魅せていた。
631: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:57:14.79 ID:VOU4ETEHo
――舞台裏の僅かな隙間から覗くことができる会場は、かつてない程に異質な雰囲気を醸し出していた。
そこはかとない一体感、ブレることのない全体感が俺の心を貫いていく。
冬の闇夜に、綺麗な青が形を作る。
それは翠の纏うドレスに凪がれるように右へ揺れ、天高く振り上げた手に集うように左に揺れ。
歌声に乗せて、会場の一面を彩っていく。
それは、まるで風に凪ぐ光の絨毯。
彼女によって編み出された――翠色の絨毯であった。
632: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:57:59.73 ID:VOU4ETEHo
「ああ……ああ……!」
その光景を眺めていると、捉え用のない莫大な感情が溢れ、声が漏れ出る。
俺の心に波打った感動が、涙となって世に顕現したのだ。
ぼやけ始める視界が、より一層彼女の歌を心に取り込み始めていった。
その声に意味は無い。意味を持てない。
どう表現すればいい?
ただの女子高生で、強くあろうとしても自信が持てず、元気の裏に莫大な不安を纏わせていた少女が、今、確実にアイドルに変身しているのだ。
幾度と無くすれ違って、互いに果てしなく悲しみ、それでも一緒に前に進んできた人生がこの景色となって映しだされている。
尽きず溢れ出る感情を抑えられないまま、やがて俺は激しく揺さぶられる無意識が一つの確信となって心に宿った。
……間違いなく彼女は観客を魅了している、と!
633: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:58:28.14 ID:VOU4ETEHo
未知の世界を観客達に知らしめる一番が終わり、また静かにピアノが静寂を抑えると、翠は集中を途切れせること無く二番を歌い始める。
一番と似たようなリズム展開にも関わらず、観客が振る青の毛糸はほどけない。
もう心配はない。
もう不安はない。
「…君が主役だ」
そう呟く俺の瞳は、翠色の絨毯で彩られた会場をただ無心に心へ焼き写していた。
634: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 22:59:01.75 ID:VOU4ETEHo
*
「ふう……いくら部活で慣れているとはいえ、東京でのこの時期は冷えますね」
「はい、お茶どうぞ。体を温めてね」
ソファに座る翠にちひろさんが温かいお茶を渡すと、彼女は心底嬉しそうな表情をして飲み始めた。
既に数時間、この部屋の暖房で暖められた俺達とは違うのだからそんな顔をするのも無理はない、と残りの冷茶を胃に流しみながら俺は彼女達を眺めていた。
――もう今年も終わりという頃。
まだまだ弱小事務所の所属である俺達に仕事納めという概念が無いのだと知り若干の絶望感に心を苛まれながらも、相変わらずパソコンの液晶やスケジュール帳と睨めっこをする今日。
いつも通りの仕事をする俺達と同様に、翠も――盛大な歓声に見送られたのが昨日であったにも関わらず――いつも通りに事務所に現れたのだ。
微かに予想していたとはいえ、そんな調子で大丈夫なのか、と心配にも思ってしまうが、彼女はちひろさんと何気ない会話をして楽しんでいるようであった。
635: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 23:00:54.34 ID:VOU4ETEHo
…あの日。
次第に音源が消失し始め、再び孤独になったピアノの音がついに姿を消した時、観客席からは期待以上の歓声が巻き起こった。
成功したのだ。
翠は、合同フェスにふさわしい人物であれたのである。
その声援を背に受けながら再び舞台裏に戻ってきた翠の姿を俺が見た時には、彼女は目一杯に涙を溜め込んでいた。
自身の歌に流されたのか、それとも無事終わったことに感極まったのかは分からないが、舞台裏でただ感動していた俺を見つけるやいなや胸に飛び込んで来たのだ。
その時、微かにデジャヴを感じた。
……確か学園祭の時だったか。
ライブが終ってテンションが上った翠は、普段ならありえないだろうに俺に抱きついてきたのだ。
あれはきっと、嬉しさの形だろう。
しかし、今の翠は俺の胸元で小さく声を上げて泣いた。
メイクが崩れるだろうに、そんなことは一つも気にしないで、ただ嗚咽を漏らしながら俺の鼓動を聞いていたのである。
翠がアイドルから少女にふと戻った…魔法が解けた瞬間だ。
薄く綺麗な仮面を剥がして現れた彼女の表情は、ただの少女であった。
そんな翠の素顔を見て俺は、おかえり、と一つ言い、彼女の開いた背中に手を回して翠を抱くと、心が落ち着くまでそっと彼女の頭を撫でた。
これもきっと、嬉しさの形なのだろう。
その涙は、悪い物ではない。
それだけははっきりとわかっていたので、余計なことはせずその時間をただ過ごしていた。
636: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 23:02:02.48 ID:VOU4ETEHo
それからはというものの、まるで休む暇が無かった。
合同フェスの日と同時に発売した翠のデビュー・シングルは当日こそ売上は伸びなかったものの、翌朝のニュースや新聞の芸能記事で合同フェスの事が取り上げられると、瞬く間にCDが売れていき、期待薄で入荷数を少なくしていた都内の一部店舗では売り切れの貼り紙を出さなければならなかった程だ。
問い合わせも、勝手に休業しているにも関わらず昨日は俺の携帯に、そして翌日である今日には事務所の電話にも一時絶え間なく着信していた。
おかげで来年の始めですら予定は埋まり、一ヶ月先までは合同フェスに関する話題で翠も引っ張りだことなっている。
無論三が日くらいは愛知に帰らせて家族の時間を取らせつつ、一方で愛知の仕事をさせるつもりではいるが、それも束の間で、終わればすぐに東京での仕事が待っている。
それ程に、新人があの場に立つということが異様であるということと、観客の心を掴む事が難しいのだ。
そう考えると、翠の出した結果による影響は十分に納得できるものであった。
「今日の仕事は…テレビ局でゲストでしたね」
僅かながらに暖まったであろう翠は、小さな鞄の中から落ち着いた色のスケジュール帳を取り出すと、今日の日程の欄を指でなぞり、俺に確認する。
これも急遽決まった物で、朝のワイドショーにてゲストとして生出演が決まったのだ。
本来であればオフであったろうに、無残にも俺のスケジュール帳に新し目の黒いインクでその事が記されている。
翠の疲労を考慮して予定を決めあぐねていたが、彼女の了解により入れることにしたのだ。
「時間はまだ余裕があるけど…送ろうか?」
つい先程届いたメールをマウスクリックで返信ボタンを押した所で、パソコンをデスクトップ画面に変えてから翠に訊ねる。
今日の予定であるテレビ局は距離的にはそう遠くはないが、俺もかつてない忙しさからの現実逃避がてら送るのも悪くないと考えていた。
しかし、彼女は俺の心を見抜いていたようで、いいえ、と一つ答えて続ける。
「一人でも大丈夫ですよ。それに、一緒に休憩したいですから」
……残念ながら、俺の休憩は随分先になりそうだ。
637: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 23:03:49.79 ID:VOU4ETEHo
「元気ですね、翠ちゃん」
がちゃん、と相変わらず歪な音をあげて閉まるドアを眺めながら、ちひろさんはトレイを胸に抱きながら微笑んだ。
翠はこの件で自信がついたのか、近場であれば一人で仕事先に行くと言い始めた。
当然ではあるが、気象条件が悪かったり遠かったりなどは絶対に俺が送るようにしているし、そうでなくともアイドルが一人街中をうろつくのはあまりよろしくないので、これからも俺が積極的に送迎するつもりである。
しかしそれでも一人で行くと言ったのは、それがあんまりわかっていないのか、独り立ちしたいお年頃なのか。
「逆にこっちはしおれていくばかりですけどね」
仕事と聞けばどことなく力が体から漏洩する程だ。
「ほら、大晦日はお休みなんですから頑張りましょうよ」
ひとまず連絡を頂いた営業先を今年中に全部回ってから、ようやく俺達の仕事納めがやってくるのである。
「はあ……頑張ります。それじゃ、俺も営業行ってきますね」
ふと壁掛け時計を見れば、動くべき時間に差し迫ろうかという頃になっていた。
俺はパソコンに起動しているプログラムを全て終了させると、印刷した資料を整理して鞄に詰め込む。
「はい、車のキーです。いってらっしゃい」
「いってきます。帰りは翠と一緒に戻ってきますね」
別の場所に保管されている車のキーをちひろさんから受け取ると、汚れの目立ち始めるコートを羽織って事務所を出た。
ここは俺の家ではないのに、こんな人として当たり前の挨拶をする事がどことなく楽しいように思える。
638: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 23:06:47.28 ID:VOU4ETEHo
*
「はあ…寒い、寒い」
外気に晒したままの素手をこすりながら階段を降りて地上に立つと、裏に回って決められた駐車スペースに行く。
そこには見慣れた車があった。
もはや運転し慣れた古臭く性能の低いかつての白さを失った社用車だ。
雪こそまだ降っていないものの、外は現代人には耐え難い寒さがたむろっていた。
乾燥した冷気が肌を撫でる度、体が無意識に振動する。
これを風情と呼ぶべきか不便と呼ぶべきか、そんなくだらない事を考えながらキーをさし、そのまま車に乗り込んだ。
車内も当然ながら気温が低く、エンジンをかけるとすぐにエアコンを最強にする。
とにかく営業に回っている内に車を暖めて、昼ごろ乗り込んでくるであろう翠が寒さに震えないようにしないと。
この時期に風邪を引いてしまったらかなりの損失だし、俺も悲しいからな。
それに大仕事を終えてもオフを取らないで平常運行となればまた体調を崩す可能性だってある。
場を改めての打ち上げもまだ行なっていないのだから、今日か明日にでも時間をとろうか。
車のエンジンが始動すると共に車内に鳴り響く音質の悪いラジオからは、昨日開催された合同フェスについての話題が取り上げられている。
もしかしたら翠の事も聞けるかもしれない、と期待しつつ、ブレーキペダルに足を置いた。
「営業先は…と、このルートだな」
今日の予定先を古臭い車に似合わないカーナビに入力して選択する。
余裕を持って移動しても、このぐらいの件数なら十分な時間を確保できるはずだ。
そして何より、目的地を巡っていればその内暖かくもなるだろう。
639: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/26(金) 23:07:47.87 ID:VOU4ETEHo
シートベルトをしめていると、ふと翠の声が頭に響き渡った。
――おはようございます。お疲れ様です。
いつも聞く言葉であり、慣れ親しんだ言葉だ。
「……よし、頑張るか」
願わくば、俺はいつまでもその言葉を聞いていたい。
そんな小さな繋がりを、そんな当たり前の日々をこれからも続けるために、俺は今日も営業を始めたのであった。
――了
655: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:18:14.19 ID:/raEFKT4o
「改めまして……あけましておめでとうございます、Pさん」
この寒さですら、今日であれば心なしか気持ちよくなってしまう正月のある日。
いや、正確に言えば三が日の二日目、元旦の翌日である。
空は正月にふさわしい晴れ晴れとしたものでいて、ここを訪れる人全てに本年の幸福を授けてもらえそうな雰囲気すら感じられた。
俺達は今、人で賑わう神社の中に居る。
というのも、今日は新春の特別番組で生放送に先程まで出演していたからだ。
この神社は有名な初詣スポットらしく、老若男女問わずあらゆる年代の人間が足繁くここを訪れては賽銭箱や出店を行ったり来たりしており、通常では閑散とした神聖な雰囲気の神社もここ最近に限っては遊園地にでもなったかのようであった。
「あけましておめでとう、翠」
今現在である午前にロケ地であるここに来て、共演者と歩きながら新年の目標を掲げ合ったりたりおみくじの結果を争ったり、また出店を見て回ってぶらぶらするなどの仕事とは思えない何とも和やかな空気をお茶の間にお届けしていた。
三十分の枠で存分にこの地域の魅力を語れば、今日の仕事は終了である。
共演者やスタッフに挨拶をした後はそれぞれ解散となり、殆どの人が次の仕事のために移動する中、俺達はもう予定がないので二人取り残されたという形である。
カメラがあると人は彼女や他の共演者を芸能人として視認するのだが、一度それらが全て無くなってしまうと、この喧騒の中では彼女が翠であることを確信する人はいなくなってしまった。
人混みに参って道から外れた場所に俺達が移動しても誰も見向きもしないあたり、やはりイメージや連想というのは人の判断に大きな影響を与えているのだな、と思った。
656: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:19:39.82 ID:/raEFKT4o
「せっかく来たんですから…初詣、しませんか?」
「翠はもう初じゃなくなってるけどな」
くく、と引き笑うと、翠は、もう、と息を吐いた。
当然ながら翠の言いたいことはわかっている。
何も初詣というのは個人にこだわった話ではない。
誰と行ったのか、という感情的な側面も存在するのである。
時間や思い出を共有する感覚。彼女にしてみれば、こうして二人で詣でることが初詣なのだ。
「まあ、念の為に……と」
「ひぁ」
鞄から帽子を取り出して翠に被せると、驚いたのか彼女は面白い声を上げた。
放送をするにあたって許可は取っているものの、それは仕事に対してのものだけだ。
それ以降での行動で神社内を混乱させてしまうのはいけないことだから、と軽い変装をさせたのである。
「じゃあ行こうか」
「はい……ふふ」
帽子の唾を抑えて頭に深くかぶると、影の入った顔の中、視線を俺に向けて翠は笑う。
はっきり言ってしまえばこの程度じゃ完全な隠蔽は不可能なのだが、俺が初詣という場面に全く似つかわしくないスーツ姿である点を考慮すれば、プライベートのデート中であることなど誰も思わないことだろう。
無論、俺だってその通りなのだが、彼女だけは違うようで。
「はぐれないように、ですから」
腕は組まずとも横にピッタリと引っ付いて歩く翠の姿は、上品であるようで、どうにも子供染みていたのであった。
657: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:21:24.59 ID:/raEFKT4o
「熱いから気をつけてくれよ」
出店で購入した湯気とソースの香りが漂うたこ焼きを翠に差し出す。
焼きたてのそれからは大層涎が湧き出てくるほどに美味しそうな雰囲気が出ていた。
――例えこういう特別な場であろうとも、することは他の人と大差がない。
神様に苦笑しつつも二度目の参拝を行なって、二人でおみくじを引いて、結果を見せ合ってまだ見ぬ今年を予想する。
そして飲み物と出店で食べ物を買って、おもむろに食べ歩きを始める。
神様にお参りをするというよりかは初詣というイベントを楽しむような気さえ感じていた。
「ありがとうございます――はふっ」
熱いたこ焼きを一口で丸呑みするなど到底不可能で、翠は柔らかく焼けた皮からついばむように口に運んだ。
「はは、美味そうに食べるなあ」
目を閉じて熱さとおいしさに感心する彼女の表情は、周囲に蔓延る寒さも相まってかほんのりと紅潮していた。
以前グルメ番組でリポーターを務めたこともある翠だが、食べ方に気をつけたり上手い言い回しをしようと考えていたりする風もない。
それが嘘偽り無い自然体であるという印象を視聴者に与えられるのだろう、おいしいです、という翠の言葉はとても素直であった。
「俺も腹が減ったな。次食べていいか?」
そんな姿を見ていれば、空いていようとなかろうと、無意識下で胃が鼓動をするに決まっている。
いや、実際に朝食を少しか食べずにここまで来ており、俺の満腹度はたっぷり仕事を終えた後の晩御飯前位にまで低下しているのだから、食べたいと思うのは無理もないだろう。
「いいですよ――あ」
渡していた六個入りのたこ焼きケースを俺に再び返そうと手を伸ばしたかと思えば、すんでのところで翠はその手を引っ込めた。
658: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:22:38.87 ID:/raEFKT4o
何かを思いついたのだろうか。
「どうかしたか?」
楽しそうな表情をしていた矢先に急に考えこみ始めたのだから、当然彼女の思案している内容が気になってしまい、顔を覗き込むようにして訊ねた。
「……よし」
「よし?」
恐らくこの神社は、初詣シーズンが終わるまでずっとこの喧騒に包まれながら時間を過ごすのだろう。
そんな賑やかさから隔離された翠が推察できない掛け声を呟くと、その瞬間、右手に持ったたこ焼きを俺の口に近づけたのだ。
爪楊枝によって持ち上げられたたこ焼きが顔に近づくことによってより強いソースのいい香りが鼻を刺激する。
一体何が起こったのか頭が理解する前に、翠はたったの一言で説明してみせた。
「はい、あーん……です」
……俺の顔が自覚できる程に赤くなったのは、今日の寒さのせいにしておきたい。
659: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:23:49.10 ID:/raEFKT4o
*
「あら、ちょうどいい所に」
「お母さん?」
初詣独特の雰囲気を存分に楽しんだ後、俺達は翠の家へと向かうと、玄関にて出会い頭に彼女の母親と遭遇する。
今日は翠の両親はどちらも休日で、仕事に出かける翠を見送る時も『今日は一日ゆっくりするの』と母親は言っていたのだが、今の彼女の様相はまるで余所行きであった。
「……ふふ、聞いてよ翠。あのね――」
こうなるまでに至った理由を母親は恥ずかしげもなく言ってのける。
実は、俺が迎えに行って仕事に向かった後、父親から旅行に行こう、と言われたらしい。
近場の温泉地に日帰りなのだが既にツアーも予約していたらしく、断る理由もない母親は快諾して即座に準備を始めたのであった。
「もう、お父さんったら、『久しぶりにお前と二人で居たい』なんて言われちゃったら断れないじゃない、ふふ」
母親の表情は、かつて見たことのない程の浮かれっぷりである。
それも夫婦共に良好な関係であることの象徴に違いない。
思うに、結果的にいきなり誘うことになったのも、父親もかなり勇気の要ることだったからなのだろう。
あの体格の良い強面の父親が照れくさそうにするという場面が全く想像できないのだが、これは母親だけに見せる一面なのかもしれない。
「ということで今から出発して帰りは遅くなるから、翠はお留守番よろしくね」
丁度いい所、というのはこういう理由であった。
当然翠にもその事は知らされていなかったらしく、彼女は母親の話を聞いて顔をひきつらせて小さく笑っている。
彼女にもこんな表情をすることがあるのだな、と蚊帳の外に逃げ出した俺の意識が一つ呟いた。
まあ、突然ではあったが両親が旅行で家を開けるから娘に留守番を任せる、という事自体におかしな点がある訳ではない。
時期を除けば事情としてはよくある理由だろう。
その後一つ二つ会話をしていると、気恥ずかしさを必死に隠して体面を保とうとしている父親が家から出て来ると、あとは頼んだぞ、という言葉を残してこの家を後にしていった。
父親の足取りがやけに軽々しかったのは言うまでもない。
660: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:25:54.20 ID:/raEFKT4o
「……ええと」
瞬く間に過ぎていった両親を遠い目で見送っていた翠は、困ったように呟いて俺を見るが、その頬はどこかこわばっていた。
「仲のいい両親だな…」
残念ながら俺にはそう答えることしかできない。
実際仲が悪いよりかは良い方がいいだろうし、妻を改まって旅行に誘うのに必要な勇気を得るのが難しいことは、独身の俺にも何となく解るからだ。
だからこそ、彼らの娘である翠の気持ちが居た堪れないのである。
しかし、突然であったとはいえ一人で留守番をすることぐらい、どの過程でも普通に起こり得る事だから、翠は今日一日ゆっくり休んでもらおうではないか。
家の中にご飯代を置いていると母親が言っていたし、翠も日常の家事ができない訳もない。
誰も気にしない一人の時間がもらえる、と考えれば随分良い話だ。
「じゃあ俺は――」
「あの!」
帰るから、という別れの言葉を告げようとした俺を、翠は語気を強めて遮った。
「どうした? 明日の仕事のことか?」
明日も地元のテレビ局で仕事が入っていて、それの確認だろうか、とスケジュール帳をスーツのポケットから取り出す。
しかし、翠は「違うんです」と否定する。
では何なのだろう、と続きの言葉を待つ俺に現れたのは久しぶりの感覚だった。
「よかったら……Pさんも一緒に、留守番してくれませんか?」
かつて俺の身を襲った微かな危機感。
無力化できたはずのそれは、震え続ける心臓を加速する一因となった。
661: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:27:01.68 ID:/raEFKT4o
*
――すみません、お待たせしました。
翠の部屋に招かれるやいなや、彼女は俺を残して立ち去っていってしまう。
そして後に戻ってきた時には、翠は二人分の飲み物と茶菓子が載せられた盆を持っていたのである。
「わざわざ悪いな」
「いえ。大丈夫ですよ」
にこり、と笑いながら、こん、こん、と小さな音を立ててテーブルへと彼女は順に置いていく。
戻っていったのはこれらを用意するためであったようだ。
プロデューサーとアイドルという仕事上の関係である以上に、人として互いに親密になっているはずなのだが、それであっても彼女は礼儀を忘れはしていない。
仕事先で購入したペットボトルを鞄の中にしまうと、俺の隣に座る彼女の横顔を見る。
少し視線を下げてテーブルの上のコップを眺めながら、何かを思案している様子だった。
さしずめ、何から話そうか、という事を考えているのだろう。
二人きりで話すことが過去どれくらいあったかというと、もはや数えられない程存在する。
しかし、それらは一つ一つが大事なもので、鮮明で、印象強く記憶に残されているのだ。
だから話が被らないように翠は話題を気遣ってくれているのだろう。
「それにしても、翠の部屋に入るのは久しぶりだけど変わってないな」
俺に対してそこまで配慮しなくともいいのに、と苦笑する一方で、ふと天井を仰ぐようにして呟いた。
彼女の部屋は一年経った今でも明確な変化は表れていないようだ。
ベッドやテーブルなど、大きな家具は初めて彼女の家に踏み込んだあの日に刻みつけた記憶と何ら相違はない。
「ですが私は随分と変わってしまいましたね。誰のせいでしょうか?」
「悪かったよ」
この部屋に、この家に、この世界には、俺たち以外に誰もいない。
そんな監視カメラから完全に逃れた状況が、二人の心の骨格を着実に溶かし始める。
それは翠の頭へと移した俺の手の所在にはっきりと表れていた。
「……本当に、変わってしまいました」
されるがままに髪を撫でられている翠は、俺の手の力に頭を軽く動かされながらそう呟く。
声色が、アイドルのものでは失くなっていた。
662: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:28:21.64 ID:/raEFKT4o
「変わったなあ。俺も、翠も……事務所も」
大きな変化が目の前に現れたのは、ついぞ昨日の事であった。
――事務所が大きくなりますよ!
ちひろさんからの連絡で、この小さな世界は崩壊へと道を歩み始めたのである。
事務所の場所は変わらない。
事務所の内装も変わらない。
ただ、来年度からは新たに数人のアイドルがシンデレラガールズ・プロダクションに所属することになったのだ。
合同フェスやテレビなどで活躍を見せる翠を見て、色んな所からこの事務所に応募が来たというのである。
別段応募などしていなかったのだが、この事務所で記憶から消されつつある社長からちひろさんへそう連絡が届いたらしい。
まだ顔も書類も見ていない少女達。
翠のように、辛く厳しい世界でも羽ばたいていく未来のアイドル達が来る。
それは、たった数人だけで作り上げられた拙くとも美しい世界が失くなるのと同義であった。
無論、事務所にとっては嬉しい事であるのに違いはない。
事務所としても活動初年度という今年はそれぞれのキャパシティなどを考慮してスカウトによる一人を専門的に育てていくという方針だったが、合同フェスによって翠の影響力が著しく上昇した事や、俺がプロデューサーとして無難なパフォーマンスを発揮できるようになった事で社長も事業拡大を宣言したのだろう。
しかし、翠にとっては違う。
例えるなら、弟か妹ができた姉の気分。
ごく小さな人間関係の中で歯車が咬み合って大きくなってきた翠にとって、後輩という存在は良くも悪くもその世界に一石を投じる存在なのだ。
そして、それは俺の立ち位置にも影響を与える事になる。
何故ならば、プロデューサーも新しく加入するという話は聞いていないからだ。
普通の方法で入社しなかった俺がこの単語を用いるのも変な話だが、普通の就職方法であれば、既に内定という形でいずれかの人材に手をつけているはずである。
まああの社長のことだから、去年同様誰かをいきなりスカウトする事だってあり得るのだけども。
ともかく、まだ見ぬアイドル候補生達を担当するプロデューサーが俺以外に現れなかった場合、去年のように翠に付きっきりで居られる保証はまずないのだ。
翠も、それが十分に可能性として存在していることを理解していた。
663: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:30:10.40 ID:/raEFKT4o
さす、さす、と撫でる架空の音が、二人の鼓動に反響する。
「……Pさんは、私のプロデューサーでいてくれますか?」
独り立ちという事もある種、予知夢めいたものだったのかもしれない。
社会人としてあるならば、自分で動かなければらない。それが上の人間であればあるほど顕著になっていく。
まさに翠がその立場に立たされつつあるのだ。
「当たり前だろう」
新しくプロデューサーが入ってこないということは、すなわち俺が翠の担当を外れる事もないはずだ。
セルフプロデュースという形を取るには、翠はまだ幼すぎる。
俺にとって翠という存在は部下であり、娘であり、愛すべき人でもある。
そして事務所に居る皆は全員翠の味方で、不安がる必要も、寂しがる必要もないのだ。
「絶対に俺は翠の傍に居るし、ちひろさんも、慶さんも麗さんも、みんな翠のことが大好きだから」
「え――」
不意に翠の遠い方の耳に手を掛けると、俺は彼女を肩に抱き寄せた。
彼女の驚く声と共に、長い髪が俺の黒いスーツの上に擬態する。
「きっと後輩になるアイドルも今の翠の姿を見れば尊敬してくれるさ。だから、その気持ちまで変わる必要はないんだよ」
いつもならありえない行動だが、この癒着していく感情が歯止めの役割を放棄させた。
「Pさん……」
俺の胸元に転がるようにして密着した翠は、戸惑うように俺の名を呼んだ。
先程まで感じていたであろう本来の緊張とはかけ離れた意味のない不安を、俺は翠の体を通じて、言葉を通じて受け入れる。
混乱もあるだろう、葛藤もあるだろう。
「こうしているのだって、俺がしたいと思った事だし……翠もしたいと思った事だろうしな」
…だが、少なくとも水野翠が水野翠であろうとする限り、俺は翠の全部を好きでいるつもりだ。
664: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:31:40.30 ID:/raEFKT4o
「……頭の中、覗かないで下さい」
「お互い様だよ」
彼女の白く小さな手が、俺のスーツに皺をつける。
それと同時に、翠の体がより強く俺にのしかかってきた。
その重さは、決して軽薄なものではない。
信頼、親情、愛情という離れられない大切な鎖であり、その重さこそが、翠から俺に与えられた支柱的役割の依頼そのものなのだ。
「せっかく午後からは休みなのに、何もしてないな」
俺にしか出来ない、そう考えている。
故に、この言葉に笑みを込められるのである。
「……ん」
返事はなく、翠は顔を俺の肩に当てて小さな声を上げただけだ。
いや、それが返事なのだろう。
彼女がしてきたように俺も自分の頭を傾けて、固い髪を彼女の美しい清流に触れさせる。
「暖かい……」
俺達は人間であり、ハリネズミではない。
近づくことの心地良さは、翠にとっても俺にとっても最高の感覚なのだと知る。
結局、果てることのない未来を語りながら、いつの間にか俺達は微かな眠りに落ちたのであった。
665: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:32:38.10 ID:/raEFKT4o
*
「休みなのに邪魔をして悪かったな」
気がつけば、空には黒の粒子が一面に撒き散らされていた。
「いえ、楽しかったです」
首が痛いのは恐らく眠った時の体勢だろう、視界が心なしか傾いているような気がする。
翠も例外ではなく、何度か首を回して痛みを和らげているようであった。
夕方。
もう新年ともなれば、次第に明度が長引き始める季節なのだが、今日に限っては午後から雲が蔓延り始めたからか、寒さとともに暗さが辺りを覆っている。
――何時間経ったのだろう。
微かで、僅かで、それでいて限りなく大切な時間を過ごした俺達が再び目を覚ました時には、時計の短針は想像以上に下に落ちていた。
せっかくですから、と翠から晩御飯の誘いも受けたが、残念ながら俺はこれから再び仕事をこなさなければらないので断ることにした。
直接会う営業ではないので期限は今日中なので無理に急ぐ必要はないのだが、予想以上に翠の家に長居しすぎたのだから仕方あるまい。
だからその償いは東京でするよ、と言うと、翠は屈託のない笑みを見せてくれた。
「それじゃあ、また明日」
明日も地元で仕事が入っているので、俺は手を挙げて別れを告げる。
「はい、今日はありがとうございました」
彼女も境界を越えたお願いはしない。
それは俺のしている事が翠自身のためでもあるのだと理解しているからだろう。
お互いに手を振り合って、俺は翠の家を後にした。
666: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:33:56.44 ID:/raEFKT4o
――帰路は贅沢にもタクシーを利用するので、俺は翠の家の最寄り駅へと歩いて行く。
いくら正月と言えども働く人が居ない訳ではない。次第に人通りが増えていく風景を見て、駅が近づいていくことをしみじみと感じた。
その刹那、俺の体は振動し、寒いという感情が体を駆け巡る。
春に近づいているのだとしても、時刻による気温低下はやはり身に堪えるものだ。
ぶるぶる、と震える俺の体は、この季節を鮮明に体現していた。
「……ん?」
しかし、その振動は俺の体だけが震源でないことを知る。
体の震えが一時収まった後も、薄いポケットからは未だに振動が続いているからだ。
その振動に心当たりがあってポケットから取り出した文明の利器は、俺の手の中でも暖を取るかのように震え続けていた。
想像通りの携帯電話。
傷だらけで塗装も禿げた、俺のプロデューサーとしての人生を刻んだ携帯電話だ。
微かにヒビが入り始めている携帯のサブディスプレイには、翠の名前がドットで表現されている。
もしかして忘れ物でもしてしまったのだろうか。
いや、もしそうなら電話をしてくるはずだ。
振動に心当たりがあっても内容に心辺りはない。
ためらう必要はないのでカチリと音を立てて開いてメールを見ると、一言のメッセージと添付ファイルの画像が一つだけのシンプルな物だった。
何故今に添付ファイルを送るのか全く理解できないので、確かめるためにもその画像をダウンロードし始めると、画面上にのそのそと動くインジゲータが表示される。
一体何の画像なのだろう。
期待半分、不安半分で待つ俺に、受信完了の文字が背中を押した。
667: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/29(月) 23:35:58.11 ID:/raEFKT4o
――これからもよろしくお願いします。
「……はは、情けない顔」
その画像には、翠にもたれて格好悪く眠る俺と嬉しそうに微笑む翠のツーショットが映っていたのだった。
――了
転載元:モバP「翠色の絨毯で」
https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1367063589/
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